【短編小説】Malice
取調室を出ると、岡野は深い溜息を一つついた。ちょうど聞き込みから帰ってきた後輩の田村が廊下を通りかかった。
「被疑者、どんな感じですか?」
「字義通りの『確信犯』だな。被害者は死んだほうが世の中のためになると、堅く信念を持って犯行に及んだようだ」
そう答えると岡野はまた一つ、深い溜息をついた。
「俺が二十歳未満に見えるか、バカが」
そう松居が怒鳴ると、レジの女性店員はふてくされたように飲酒可能年齢かどうかを確認する液晶画面の「YES」ボタンを自分の指で押し、素早く缶ビールをビニール袋に入れると、「ありがとうございました」と一礼した。やっかいな客は早く帰れといわんばかりの流れ作業感が気に障り、もう一言二言何か文句を言いたかった。しかし、後ろに並んで待っていたスーツの男が「早くどけよ」といわんばかりに小さく舌打ちをしたので、そいつに一瞥をくれると松居はコンビニを出た。
コンビニを出たらすぐ乗れる場所に停まっているよう命じていたハイヤーは二十メートルほど移動していた。松居が近づくと、立って待っていた運転手が後席のドアを開けた。
「なんで移動してるんだ、バカ」
「申し訳ございません、先ほどの場所だと邪魔になると思いまして」
「あんなコンビニの真正面を塞いだところでかまうものか」
そんな文句を垂れ流しながら、松居は後席に身を沈めた。運転手がドライバー席に戻り、ハイヤーを発進させた。三分もかからずに、ハイヤーは松居が一人暮らしをしているマンションの車寄せに停車した。
「明日の朝もお迎えは普段通りで宜しいでしょうか?」
運転手がドアを開けながら聞いた。
何を分かり切った事を――。専属運転手なら、いちいち俺に確認しなくても翌日の俺のスケジュールくらい把握して迎えに来い。そう思いながらももう言葉にするのが面倒臭くなって、松居は無言で頷いた。
車を下りて、マンションのエントランスに向かって歩き出す。運転手に対する送ってくれたことへの感謝や労いの言葉は松居にはない。自分の送迎をすることによって運転手は給料をもらっている。あくまでこれは彼の仕事であって、対価をもらっている以上、礼や労いの言葉は不要だと松居は認識していた。さらに言えば松居にとっては、運転手は車と一体化した機能の一部であって、もとより感謝や労いの言葉を掛ける対象ではなかった。
背後で運転手が松居が下りたドアを閉め、運転席に戻る気配がする。続いてハイヤーの発進音が聞こえた。
俺くらいの格の役員になれば、その姿が見えなくなるまで停車したままで頭を下げているのが専属運転手の心構えだろうが。いっそもっと気が利く奴と交代させようか。そんなことを考えながら、松居はオートロックのドアへと歩みを進めた。まさか運転手が、明朝に自分を迎えに来る必要がなくなるなどとは夢にも思わずに。
部屋に帰ればまずはビールを冷蔵庫に入れて、シャワーを浴びようと考えた。夕食は済ませてきている。一人暮らしのマンションではゴミが出るのが嫌なので料理や食事はしない。ビールも本当は空き缶を捨てるのが面倒なのだが、これはやめられなかった。料理やゴミの分別など、家のすべてをやってくれていた妻は三年前に一方的に離婚を申し入れて出ていった。
エントランスの通路の真ん中ほどに、作業服の中年男が背を向けてかがんでいた。通路両脇の植裁を整えているのか、排水溝の清掃でもしているのだろうか。いずれにしろ松居にとってはそのような人物も自分には関わりがないという一点で、道ばたの雑草や石ころとかわりなかった。
中年男の横を通り過ぎる。ふと、男の雰囲気に覚えがあるように感じたその時だった。
凄まじい激痛とともに、嫌な音を立てて松居の右足首が変形した。いきなりへし折られたようだ。
へし折ったのは作業服の男だった。男が大型のバールを足首に叩き付けてきたのだ。
体の支えを失って、松居は無様にコンクリートに顔から落ちた。激痛と驚きに叫び声をあげながら、なんとか這って逃げようとする。助けを求めて今帰って来た道路のほうを見たが、運転手とハイヤーはとっくにいなくなっていた。
男は今度はバールを松居の頭に打ち下ろしてきた。なんとか両腕でカバーしたが、何発か喰らった。ガードする腕の骨が折れる鈍い音が激痛とともに聞こえた。それでも懸命に防御しながら、逃げようと試みた。左手首がぶらりと嫌な角度に曲がっているのが視野の片隅に入った。
さらに何度も、男は逃げようとする松居に執拗にバールを打ち下ろしてきた。頭だけでなく背中や腰、太股など滅多打ちだった。
やおら男はバールを投げ捨てた。バールを投げ捨てると、鈍く光る物に得物を持ち替えた。男は松居に馬乗りになると、その鈍く光る物を振り下ろしてきた。包丁だ。
松居の胸に激痛が走った。
さらに男は振りかぶる。
折れてほとんど防御にならない両腕でかろうじて何度かは刃が体に刺さるのを防げたものの、腕のどこかしらを切られるたびに焼けるような痛みがした。刃が胴体に突き立った時は、信じられないような激痛が走った。
やがて松居は抵抗する力を失い、痛みも感じなくなった。意識が途切れたのだ。抵抗しなくなった松居に男はさらに何度か包丁を振り下ろすと、最後に頸部に突き刺した。突き立った包丁を抜きもせずに男は立ち上がると、肩で息をしながらすでに赤く染まった布きれをまとった肉塊となった松居を見下ろした。マンションの住人が通報したらしく、パトカーのサイレンが近づいていた。
「被害者についてですが、結構な数の人間がいつかは殺されるかもしれないとは思っていたようですね。中には言葉にはしませんがこうなって当然だ、いい気味だと言わんばかりの反応もありました」
田村が手帳をめくりながら、岡野に報告する。彼は先日まで、ある上司のハラスメントの的にされ、メンタル不調を起こして休職していた。その上司が昇進で異動しなければ辞めていたか、最悪の場合、拳銃で自分の頭を撃ち抜いていたかもしれない。それほどまでに追いつめられていたという。まだ職場復帰して日が浅く、岡野も気を揉みながら接していた。
「そうか。そんなに恨まれていたのか。でも、そんな嫌われ者がなぜあの地位まで出世できたんだ?」
「中年過ぎまではどちらかというとうだつがあがらないほうだったようです。でも、上司や先輩といった上の世代が定年でいなくなって、同世代の仕事ができる同僚が転職していって競争相手が減るという幸運があったらしいです。出世を自分の実力と勘違いして、次第に横暴になっていったようですね」
待ち伏せての襲撃や殺害状況からも強い怨恨と計画性がうかがわれた。被疑者は特に抵抗することもなく身柄を確保され、取り調べにも素直に応じている。
「被疑者の橋下は、被害者が勤めていた会社の元社員です。被害者が取締役になった二年後に退社していますね。被害者が営業担当の取締役になった時、橋下は営業課長でした」
田村が手帳をめくりながら報告を続ける。
「凶器の入手先も供述と一致します」
凶器のバールは工具専門店で犯行四日前に購入していた。本職の大工や解体業者も使用するプロ向けの高級品だった。一方で、なぜか包丁は百円ショップで購入した、ちゃちなステンレス包丁だった。岡野も犯行に使用された現物を確認したが、かなりの刃こぼれをしていた。橋下は高級品のバールで松居の動きを封じて殴打を繰り返し、安物の包丁でとどめを刺したことになる。
「出世の挙げ句、安物で命を奪われちゃあなぁ……」
岡野はドアののぞき窓から取調室をうかがった。先ほどまで取り調べに応じていた橋下がうつろな視線をテーブルに落としている。
「あんな奴、いなくなったほうが会社に残った仲間や世間の為なんです。調べていただくと、刑事さんもそう思ってくれるはずです」
取り調べ中、橋下はなんどかそういっては同意を求めてきた。
「自分の人生を棒に振ってまで誰かを殺すほど憎むってのも凄まじいな」
岡野がまた溜息をつきながら漏らした。
「俺、ちょっとだけ分かりますよ」
岡野がけげんな顔を田村に向けると、彼は慌てたように付け足した。
「あ、いや、あくまで共感じゃなくて動機として理解できるという意味でですけど」
そういう田村の目に怪しい色が差すのを岡野は見逃さなかった。
「おい、例えば、ちょっと俺達がその気になれば、スマホの保存データや検索履歴から誰かしらを犯罪人に仕立て上げることが可能かもしれないんだ。それに、俺達は特別に銃という人の命を簡単に奪える道具を持つことを許されている。そういう俺達の仕事の特殊さを肝に銘じておけ」
「はぁ」
頷いてはいるが、決して自分と目を合わそうとしない田村に、岡野は不穏なものを感じざるを得なかった。