東急の創業者〜五島慶太〜
東急といえば、東横線や田園都市線といったお洒落なまちづくりが特徴的です。
最近では、100年に1度とも言われる渋谷の大規模再開発でも注目ですね。
今回は東急グループの成り立ちと、実質的な創業者である五島慶太について解説していきます。
東急の原点を立ち上げたのは、新一万円札にもなった渋沢栄一が発端です。
東京中心部の住環境悪化を憂慮した渋沢は、欧米諸都市の視察をもとに、近郊に自然と都市の長所を併せ持つ理想の街「田園都市」をつくることを構想します。1915年に、東京商業会議所の会頭や日本橋の商人たちと共に「田園都市株式会社」を立ち上げました。これが、東急グループの原点です。
しかし、素人ばかりの経営のため、田園都市株式会社はなかなか思うように事業が進みません。
そこで鉄道部門の経営のアドバイザーとして、関西で鉄道を軸とした郊外型住宅地を手掛けた阪急電鉄・小林一三の紹介を受けます。月一度上京し、同社の経営会議で意見していましたが、やはり実務を進めてくれる人物が必要になります。そこで小林は、自分に代わって実行できる経営手腕を持った人物として、鉄道院出身で既に鉄道会社の経営にあたっていた五島慶太に白羽の矢を立てます。
小林の要請を受けた五島は、田園都市株式会社の鉄道部門を手掛けることを承諾します。
その後、田園都市株式会社は鉄道部門を分離独立し、1922年に「目黒蒲田電鉄株式会社」を設立。専務に就任した五島が同社を率いる事になります。これが、のちの東急グループの実質的な起点です。
鉄道敷設と宅地造成は順調に進み、1923年3月には、目黒線の目黒~丸子間が開通、現在の田園調布付近にあたる多摩川台地区の一部を宅地として売り出します。同年9月、関東大震災が発生。東京中心部は壊滅的な打撃を受けます。それに対して、多摩川台地区の分譲地は比較的被害が少なかったことから、人々が沿線に移住し業績は一気に好転します。その利益で武蔵電気鉄道の株式過半数を買収し、社名を武蔵電気鉄道から「東京横浜電鉄」と変えます。1927年には、東横線を渋谷駅〜神奈川駅間で開通。1928年には、目黒蒲田電鉄は、元の親会社であった田園都市会社を吸収合併します。そして、1939年に東京横浜電鉄と目黒蒲田電鉄は合併し、「(新)東京横浜電鉄」として、五島が社長に就任します。
拡大はどんどんと広がっていき、1942年には陸上交通事業調整法の趣旨に基づき、既に五島の経営下にあった京浜電気鉄道と小田急電鉄を合併して東京急行電鉄を発足し、1944年に京王電気軌道と合併します。相模鉄道など東京西南部全域の私鉄網を傘下に収めて「大東急」となりました。
しかし、戦後のGHQの指令により、五島が公職追放を受けます。それに伴う処理等で大東急は経営が行き詰っていき、1948年に大東急から京急・小田急・京王の3社が分離することとなりました。
追放解除後の1951年に、東京急行電鉄会長に再び就任します。戦後、急激に増えた東京の人口と住宅難などの社会課題を踏まえ、溝の口以西の広大な未開発地域に新たなまちを構築する「多摩田園都市計画」を打ち出します。これが、現在の田園都市線の原点となります。1959年、五島は77歳で病によって死去。この事業計画は、次代への宿題として残されていきました。
こうして五島慶太の半生を振り返っていきますと、日本の鉄道の歴史がよくわかりますね。東急・京王・小田急・京急などが同じ会社だったんですね。 個人的に着目したのは、近郊に自然と都市の長所を併せ持つ理想の街「田園都市」っていうのは改めて大事にした方が良いと思いました。今でいうと流山市のまちづくりはそれに近い気もします。