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ミース・ファン・デル・ローエ

近代建築の巨匠シリーズ第3弾です。
今回は、ファンズワース邸などで知られているドイツ出身の建築家ミース・ファン・デル・ローエを紹介します。
ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトについても触れていますので、よろしければ下記リンクもご覧ください!

リール邸(1907年)

ミースは、1886年にドイツのアーヘンに生まれます。大学で正式な建築教育を受けることなく、地元の職業訓練学校で製図工の教育を受けた後、リスクドルフの建築調査部で漆喰装飾のデザイナーとして勤務します。
1906年にブルーノ・パウルの事務所に勤務後、事務所の同僚の紹介により、1907年に最初の作品であるリール邸を手がけました。
この仕事が認められて、1908年からペーター・ベーレンスの事務所で製図技術者として務め、建築を学んでいきます。

ヴァイセンホーフ・ジードルング(1927年)

1925年にドイツの芸術学校バウハウスの教授に迎えられ、1926年にはドイツ工作連盟に加入します。
翌1927年のドイツ工作連盟主催のシュトゥットガルトでの住宅展「ヴァイセンホーフ・ジードルング」の総監督として参加し、ル・コルビュジエなど若手建築家と共に、実験的な集合住宅を建設します。

バルセロナ・パビリオン(1929年)

バルセロナ万国博覧会のドイツ館としてバルセロナ・パビリオンは建設されます。一般向けの展示施設という訳ではなく、スペイン国王を迎えるためのゲストホールでした。
鉄とガラスで構成され大理石の壁を配した空間は、モダニズム建築の傑作として評価されました。パビリオンは博覧会終了後に取り壊されますが、1986年に同じ場所に復元され、「ミース・ファン・デル・ローエ記念館」となっています。
また、同時期にデザインしたバルセロナ・チェアもモダンデザインの傑作として知られています。

トゥーゲントハット邸(1930年)

チェコスロバキアのブルノに建てられた邸宅で、傾斜を利用した3階建ての建物です。
2階部分はすべてガラス張りで、壁によって部屋を仕切らない開放的な空間かつ、1階のリビングエリアも仕切りを最低限に抑えた広々とした設計です。まさに、ユニヴァーサル・スペースによる住居の先駆的施工例といえます。

ファンズワース邸(1951年)

ミースは1930年からバウハウスの第3代校長を勤めますが、3年後にナチスによりバウハウスが閉鎖されます。その影響から仕事が激減したため、1937年にアメリカに亡命します。1938年からシカゴのアーマー大学建築学科の主任教授を務めている中で、手掛けた住宅作品がファンズワース邸になります。
四方をガラスの壁で囲み、最低限の部材のみで構成された建物は、自然豊かな周辺環境と調和する究極のミニマル建築ともいえます。
ちなみに、建設コストの高騰によって予算を大幅に超えてしまったことから、施主との間で訴訟騒ぎに発展したというエピソードもあります。

シーグラム・ビルディング(1958年)

モダニズムの超高層ビルの中では、最も優れたデザインの超高層ビルともいわれているのが、シーグラム・ビルディングです。
シーグラム社のアメリカ本社ビルとして設計されたこのビルは、鉄骨とガラスのカーテンウォールで構成され、現代のオフィスビルの原型ともいわれています。この建築の革新的だったのが、前面に設けられた広場です。セットバックによる余白を使って設けたオープンスペースと、ブロンズのフレームに縁どられたガラスの棟のコントラストは、新たなトレンドを生みました。

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