日本住宅公団について
都市再生機構(UR都市機構)の前身である「日本住宅公団」はご存知でしょうか?
日本住宅公団は、戦後の住宅不足解消のため1955年に設立された特殊法人です。
いわば、団地を全国に建設し、日本人の住まいを根底から変えた組織でもあります。
今回は公団がどのように住まいを変えていき、発展していったのかを解説していきます。
誕生の背景
第二次世界大戦中における空襲被害や建設不足により、終戦時の1945年には420万戸が不足していました。さらに住宅復興には時間がかかり、1955年の時点でも271万戸が不足する状況でした。
1955年2月の衆議院議員総選挙でも、主要政党は住宅建設の促進を公約に掲げています。選挙後、法案が国会に提出され、公庫(住宅金融公庫)、公営(公営住宅)に加え、公団(日本住宅公団)が誕生し、「戦後住宅政策の三本柱」が揃うこととなります。
公団住宅について
昭和30年代から40年代に、都市部で働く中流サラリーマン世帯に良質な住宅を大量に供給するため、都市近郊に土地開発と住宅建築を行いました。
数百世帯を越える大規模開発で、後の民間のデベロッパーの先駆けでもあります。大規模団地では中心部に商店、銀行、郵便局など生活に必要な施設を置き、団地内で生活の用が足りるようになっていました。
住宅の広さは4人家族程度を想定し、40㎡から60㎡程度の3DKタイプが多いです。当初は賃貸タイプのみで、中流サラリーマン月収の40%前後と高めの家賃が設定されていましたが、モダンな生活を夢見る世帯の申し込みが殺到し、抽選に当選するのは困難でした。昭和40年代に入ると政府の持ち家政策の一環として、賃貸とほぼ同じ仕様の部屋を分譲して販売するようになります。
なお、賃貸タイプは現在ではUR賃貸住宅として引き継がれています。
団地での新しい暮らし
「食寝分離」は、公団が提案した新しい住まい方の代表例です。それまでの日本の家では、食事のときには和室にちゃぶ台を出し、それを片付けて布団を敷いて寝るというスタイルでした。それが団地では、食事する部屋と寝る部屋が別という点が当時としては画期的でした。その他、水洗トイレや、住戸内にある浴室、ステンレス製の流し台など最新の設備が備えられていました。配置プランにおいても、冬至の昼間でも4時間日照があること、建物高さの1・8倍の棟間隔をあけることなど、現在にも続く団地の基準は、この時期にまとめられています。
また、団地は便利で子育てに絶好のモダンライフでもありました。団地内にはスーパーや各種商店があり、日常生活はここですべてこと足り、遊び場もいくつもあったので、いつでも子どもたちのにぎやかな声が響いていました。盆踊りや夏祭りなど団地を挙げての行事には、外からも大勢の人が来て盛り上がるなど、コミュニティー活動も盛んです。
UR都市機構への移管まで
このように様々な暮らしの提案をしてきた日本住宅公団ですが1981年に解散し、同年に宅地開発公団と統合し、「住宅・都市整備公団」として業務を引き継ぎます。1999年には都市基盤整備公団に改組し、2004年に地域振興整備公団の地方都市開発整備部門を統合し、都市再生機構(UR都市機構)を設立します。同時に鉄道事業を廃止し、千葉ニュータウン鉄道に有償譲渡しました。
戦後の住宅不足から良質な住宅を大量に供給した公団住宅は、今の私たちのライフスタイルに大きな影響を与えています。住宅不足の段階を終えた今、量から質へと転換し、どのようなライフスタイルが今の時代に必要なのか改めて考える時期なのかもしれません。