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ヴァルター・グロピウス
ヴァルター・グロピウスは、近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に)の一人です。また、ドイツの美術学校「バウハウス」の創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めました。バウハウスの詳細については、下記のリンクをご参照ください。
ドイツ期
1883年、ベルリンに生まれます。
1907年までミュンヘンやベルリンの工科大学で建築を学びます。卒業後、ドイツの建築家ペーター・ベーレンスの事務所に入り、ミース・ファン・デル・ローエと出会い、ミュンヘンのドイツ工作連盟にも参加します。1911年に設計した「ファグスの靴型工場」は、鉄とガラスを用いた初期モダニズム建築の重要な例証として世界遺産に登録されています。
1915年、ベルギーの建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデからヴァイマルの工芸学校を託され、1919年にバウハウスを開校します。
1925年、バウハウスはデッサウに移行します。「デッサウの校舎」はグロピウスの設計によるもので、著書「国際建築」とともにモダニズム建築の代表作として世界中に知られるようになります。グロピウスは著書内で、「造形は機能に従うものであり、国を超えて、世界的に統一された様式をもたらす」と主張しています。
1927年、ドイツ工作連盟の主催によりシュトゥットガルト郊外のヴァイセンホーフで住宅展が開催され、ル・コルビュジエらと共にグロピウスも参加し、集合住宅の実験住宅(ジードルング)を設計します。
この取組みはイギリスの田園都市構想に刺激を受けたのもので、ドイツ各地で集合住宅が建設されました。日本の同潤会アパート、公団住宅にも影響を与えています。
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イギリス期
1928年、グロピウスはスイスの建築家ハンネス・マイヤーを後任に指名し、バウハウスの校長を退きます。1930年にベルリンに事務所を構え、集合住宅の設計などを行っていましたが、ナチスの台頭などもあり、1932年に弟子の山口文象と共にドイツを脱出します。
1934年イギリスに亡命し、カナダ人の建築家ウェルズ・コーツが設計したロンドンのモダニズム建築アパート「アイソコン・ビル」にバウハウスで学んでいた家具デザイナーのマルセル・ブロイヤーらと共に在住しました。
アメリカ期
1937年、ハーバード大学に招かれアメリカに移住します。その後、ヴァルター・グロピウスほか8人の建築家により共同設計事務所TAC(The Architects Collaborative)を設立します。
第二次世界大戦後は、母国ドイツにおける設計に再び参画します。1952年には西ベルリンのハンザ地区で行われた国際建築展に参加し、復興のための高層住宅を実現させます。
1958年には、当時世界一の高さを誇った超高層ビルのパンナムビル(現メットライフビル)を設計します。
1960年代に入ると、西ベルリンのノイケルン地区にグロピウス・シュタットと呼ばれた、集合住宅が建ち並ぶ広さ266haと大規模な郊外住宅地を設計します。
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アメリカ移住後のグロピウスの実作はそれほど多くないですが、ハーバード大学での教育を通じてアメリカにおけるモダニズム建築の普及に影響力を持ちました。
近代建築の巨匠では、それほど目立つタイプではありませんが、バウハウスやハーバード大学での教育を通じた功労者とも言えます。