対話は信号を交わすことだと思うと・・
対話があちこちで生まれていると、いいなと思う。
働く場でも、暮らす場でも、学ぶ場でも。
対になって話すと言うことは、
必ずしも言葉ではないかもしれない。
音でも、文字でも、触でもいいのかもしれない。
そう思うと、対話は誰かと信号を交わすことだと言えそうだ。
交わすことを、まじわれば良いとすると、
真正面から衝突することだけではなくて、
信号があっち向いたり、こっち向いたりしていても、
どこかで点と点で交わればいいんじゃないかと思ったりする。
そう思うと、対話が不足しているとか、必要だと、
そう深刻になる必要はなくて、
対になっている人同士が信号を交わしていて、
そのどこかで共感点があったら、それでいいやん、と
思ったりするのだ。
今、向かいにいる人と、気軽に信号を交わしてみようよ。