水泳の授業のあとは。
高3の夏。
隣の席の彼が自殺した。
いつも彼は笑っていた。ひたすらに優しく、周りに好かれ、信頼も厚く、完璧だと誰もが言うような人間だった。
いたるところの光をかき集めたような、僕には眩しすぎるやつだった。
窓際の後ろから二番目、隣の席。
きっとクラスメイトからすれば、それしか僕らの関係を言い表せる名前はなかった。
教室では少しの「おはよう。」くらいしか話したことはなかったが、彼は僕を友人だと言った。
あれは高2の春。
授業をさぼって屋上で寝ていたら、真面目なはずの彼が来た。
一か月に一回だけある水曜日の自習時間。
いつも僕たちは屋上にいた。
教室でみんなの中心で笑って話す彼は、この屋上だと口数が少なかった。
僕は寝転がってぼんやり空を見ながら時折「今日もいい天気だね」とつぶやく彼のほうが
彼らしいと思った。
僕と一緒に静かな50分を過ごしている彼と教室の真ん中にいる彼はまるで違っていた。
いつしか教室での彼を見ると、胸の奥のほうが苦しくなった。
僕しか知らない彼がいることは少しだけ嬉しかった。でもあの笑顔が僕に向けられることはない。
一度だけ、彼に尋ねたことがあった。
「どうしていつも笑っているんだい。」
彼は僕の前では笑わなかった。いつも何かを諦めたような目をしていた。
だから余計に気になったのだ。
「笑っている時の僕は僕じゃないんだ。自分でもよくわからないんだけどね。」
彼はこの屋上にいるときだけが本物だった。
自分でも追いつけないくらい膨れ上がった期待と羨望の目につぶされないように、自分が笑っていれば周りが楽に生きられるから、彼は笑っていたんだ。
なぜだか僕は泣いていた。
彼は自分がもうとっくに限界を超えていることに気づいているから諦めたのだ。
周りに消費されていく自分を良しとするしかなかったのだ。
悲しかった。苦しかった。なんて彼が微塵も表に出さないことが僕は寂しかった。
彼はこのときはじめて僕の前で笑った。
それは偽物じゃなくてきっと本物だった。僕が見た彼の中で一番綺麗な笑顔だった。
「泣かないで。」
と彼は言うけれど、僕の涙は止まらなかった。
その日以来、毎月毎月僕らは屋上で空を仰いだ。
ほんの少しだけの会話と僕らの間を吹き抜ける風。たったそれだけなのにただ楽しかった。
僕はこのほんの少しの時間で彼のことを分かった気になっていた。わかるはずなんてないのに。
三年生になっても僕らの席は隣だった。
相変わらず教室で笑う彼とただの隣人の僕。
屋上で落ち合うのも相変わらずだった。
屋上に来る彼の目はずっと諦めたままだったし僕も変えようとはしなかった。
なんにも変わらなかったから、変えようともしなかったから。
僕のそういう気持ちだって変わらなかったから。
気づきたくなくて。結局僕は自分本位なだけだった。
夏休みが明けたら、隣の席に彼はいなかった。
先生が「亡くなった。」と言ったとき、クラスメイトは泣き崩れ、教室は大騒ぎだった。
僕は涙が出なかった。
薄情な奴だと思われたかもしれない。でも息ができないくらい苦しかった。
人気者が自殺。なんてマスコミの格好の餌食だ。
学校にはマスコミが殺到し、彼の家族は虐待を疑われ、この街を出た。
僕は知っている。
彼を殺したのは自覚のない期待と熱のこもった目と僕。そして彼自身。
期待や羨望を向ける人は無自覚だから、そんなことで人が死ぬなんて想像もしない。
悪意のない言葉でも向けられる人の精神は蝕まれるのだ。
他人が作りあげた自分に追いつこうと必死になって、
18年間何人もの自分を殺し続けた彼は最期もやっぱり笑っていたのだろうか。
知っていた。でも助けようとしなかった。
「もうたくさん頑張ったよ。」って言えばよかった。
話する時間はたくさんあったのに。ただ黙って空を仰いだあの時間は彼を救える時間かもしれなかったのに。
真犯人はきっと僕。
水泳の後の授業、ゆったりと時間の流れる現代文。先生の声。居眠りをするクラスメイト。
その中に彼はいない。
生温い風が吹き抜けて、もういない彼の名前をノートの端に書いてみる。
僕は間違いなく彼が好きだった。
あの時間も横顔も笑う理由を知って泣いたのも、
苦しくて悲しくて寂しかったのも全部彼が好きだったから。
わかった気になって彼を蝕むものを知らないふりをして、助けられなかったけれど、
ちゃんと彼が好きだった。
僕は彼のいない屋上で彼と吹かれた風に吹かれながら、泣いた。
彼が死んでからはじめて泣いた。
「泣かないで。」と言う彼はいない。止まらない涙と吹き止まない風は彼が死んだことを現実だと突きつけるようで痛かった。
僕はもう二度とここへは来ない。
あの時間も戻らない。
僕も、この夏も、生温い風も、全部罪深い。
青春って戻らないらしい。
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