残された人生をどう生きるか
ブログを始めた最大の理由は、体調の変化だった。
先月くらいから、脳に明らかな異常を感じるようになった。
前なら思い出せていたようなことが、思い出せない。
脳全体にもやがかかったようにぼんやりして、頭がうまく働かない。
元々のネガティブな性格も相まって、「このまま症状が進行したら仕事に支障が出てくるのではないか?日常生活が送れなくなったらどうしよう?もし家で一人でいる時に突然倒れたら・・」と思い、怖くなった。
急に死を身近に感じた。
そのときに、ようやく思った。
「このまま死んだら、何のために生まれてきたのか分からない!私はまだやるべきことを何もやっていない、まだ死ねない」
そして私が生きた証を何か残したいと思い、このブログを書き始めた。
人は誰でも死ぬ。
だけど、そのことを健康なうちは忘れて暮らしている。
忘れられるから人生を楽しむことができるのだけど、忘れてしまうからこそ生きていることのありがたみに気づくことができない。
40を過ぎ、体に異変を感じるようになって、初めて気づいた。
健康な生活ができていた30代の自分は、それだけでとても幸せだったことを。
だけど、健康で未来に不安がなくて美味しいものを食べてぐっすり眠るだけでは、人生は物足りない。(皆そうなのかは分からないが、私はそうだった。)
せっかくこの世に生まれて来たんだから、何か自分だけしかできないことを、この世で成し遂げて一生を終えたい。
そう思ったとき、それはこのブログを書くことでもいいんじゃないかと思った。私の言葉と一言一句同じ言葉を書く人はこの世に私しかいないのだから。
明日私が死んだとしても、この文章はインターネット上に残る。誰かが読んでも、誰も読まなくても、このnoteはずっと生き続ける。そう考えるとなんだか不思議な気持ちになる。
金持ちでも貧乏でも、人間はいつかその時が来たら全員死ぬ。
この世は不平等なように見えて、とてつもなく平等だ。
この世に滞在する年数は人それぞれ違うが、結局人間のやることは「この世にいる時間をいかに楽しむか」に尽きるんじゃないか。
別に私たちは長生きした人が勝ちのゲームをやっているわけではない。だから病気や事故で死んだ人がみんな「かわいそうな人」なわけではないと思う。(そう思うのは生きている人間の驕りなような気もする。)たとえ志半ばで死んでしまったとしても、それまでの人生を思いっきり生きていたならそれは素敵な人生だし、たとえ長生きしてもやりたいことを何もせず他人の文句ばかり言って死んでいく人の方がよっぽどかわいそうな人なんじゃないか。
だったら自分が今回の体調不良で病気が発覚しようが、元の状態に回復して何事もなかったように長生きしようが、どっちでも同じことだ。
生きている人間は誰でも、自分の人生に残された日々を1日1日どう生きるか、自分で決めていくしかないのだ。
そしてそれがあと何日あるのかは、誰にも分からない。どんなに健康な人でも、明日不慮の事故で死ぬかもしれない。
だからいつでも、明日死んでもいいと思えるような毎日を生きたい。
そうなるにはどうしたらいいんだろう?
1日1日を、もっと自分の納得いくものにしていきたいし、そう自分が感じるためにはどうしたらいいのかを、自分のために考えたいと思う。(考えてあげたい、という表現はあまり好きではないけどむしろ適切かもしれない。)