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子ども建築塾をまじめに読んでみる。乳がんの治療や家にも使えることばかり。
あみは乳がん治療中で文喫でもはたらいています。乳がんの治療はそろそろ終わる。
前に居場所を作りたい人むけでしょうかいしたのだけど
かさでら図書にも置いてあったので再度読み
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建築の塾となっているけどそうではなくて
応用ができて、
まず、公共施設などにいって、いい感じの居場所をみつけてくださいっていうという。体の感覚を信じる、感じてもらうということから塾はスタートするらしい。
これ、家でもできるじゃんと思った。
子供達に家のどこをいい感じに感じるか聞くということしてなかったかもなぁと。ちょっと聞いてみようと思う。
家を居心地よく感じる練習というか
その感覚を大事にするという。
それから街に出て家ではなくて、人が集う場所をかんがえていくという塾
だから、うちはいま結局どうなっているかというおと、部屋の目的がそこまでない。リビングの中にもあちこち座る場所がありやることやその日の気分で変わる。子供達も日によりあちこちに座るし、距離も程よくある。
そいうフリーな場所があることが感覚を整えることになるみたいな話で、場所が役割ややることを決めることがあって、それが楽なこともあるけど、窮屈さも生まれるなぁと
海外は建築家目的ではなくて、建築ワークショップみたいなことも多くあるらしい。建築家だけではなく、小さい時から人が集う場所を考える人が多ければ、その人達が政治や飲食店や教師や主婦になったときに「自分の家」のなかだけよければいいという話にはならないということが後々社会全体に効いてくるみたいな話が面白かった。
確かにねぇだよ
昔から全体でものをみる癖がついていたら、よくわからん開発とかルール作りにはならないよね。
昔の日本家屋は縁側というシステムがあってなんの目的もなく誰のものでもない場所があったけたけど、今はないし、それぞれが好きな場所で何かをするって感覚があんまりないのかもしれないなぁと
もうちょっと家の中にそういう目的がない場所があってもいいなと思ったのでした。あーーーー本当にウッドデッキが欲しい。ウッドデッキほしい。二回書いとく。
家の中ですら自分の感覚を閉じてしまっていると
病院で先生のいうことをうのみにして終わることにもなるなぁと。
私が色々と乳がんの治療に対して試行錯誤できているのは
自分の感覚を信じているというところもある。
薬は毎日飲むけれど、加圧トレーニングや酵素の取り方は日によってかわる。自分がいま何を感じているのかを感じるのを拒否しないというのは人生で大事なのかもしれないなぁと。
そして、不登校の居場所つくりでは自己紹介をしてないないらしい
そうではなくて、ペアを組んで、話をしてもらい、この子はこういう人です。という紹介をするらしい。するとその子が自己認識がひどい場合、風穴があくらしい。こんな風な良さが自分にあるんだという。なるほどなぁと。
なんの質問をするかにもよるかと思うんだけど、
人に興味を持って人に質問するということは全てに繋がる
その講座に昨日別で参加してとても面白かったのでまた明日別記事にしたいと思う。