ショートショート リサーチの鬼
高台の崩れかけた長屋の壁面に『ワザリン・ハイツ』と落書きとも表札とも取れる文字がペンキで殴り書きされている。
「ここがかの『嵐が丘』ですか」玄関先で打ち水をしている老婆にたずねると、
「あんた、ロックウッドさんかい?」と逆にきかれた。曖昧にハアと答えると、
「まあお上がりよ」と引き戸を開いてくれる。
「近ごろじゃテラスハウスとか言うのかね、世帯も世代もすむ世界も異なる住人たちが住まいをシェアする場を?」
見れば入り口入ってすぐの部屋はライブラリーになっていて本棚には歴代の「嵐が丘」が背表紙を競い合っている。
「DVDだってあるよ。初代主演は1934年製作のローレンス・オリヴィエだ。彼が渡米してヴィヴィアン・リーの「風と共に去りぬ」出演の発端になった記念すべき作品なのさ。この頃は「嵐ヶ丘」、いや「嵐ケ丘」だった。考えてもみな、わしらが国策映画で気炎を吐いてた時分に恋愛映画なんぞ作ってたんだからねアメリカさんは」
それから管理人の老婆はテラスハウスの住人たちの入り乱れて錯綜した人間関係を詳細に語り出した(内容は三大悲劇と呼ばれる長編なので割愛する)。
そのあいだじゅう私は思案していた。わが神なる島の表記を「鬼ヶ島」「鬼ケ島」「鬼が島」いずれにするかを。