「積ん読」に罪の意識はいらないゾ。
ゾ、って。クレヨンしんちゃんのタイトルみたい。
毎日投稿をするようになってから、確実に読書へのモチベーションは高まった。
そして、それは買った本の積みあげた高さにも比例する。
そして、あきらかに買っただけで読んでない本も増えた。
世間ではこれを「積ん読(つんどく)」という。
この「積ん読」ということばは、たとえば「ぴえん」とか「おはようでやんす」など、最近できたことばだと思われがちだが、そうではない。
このことばは、すでに100年以上も前の雑誌には使われていた。
太古の昔から「積ん読」は、活字と友に生きる人間にとって不可避の行動なのだ。
そしてこの所業。
書くことが好きな人種にとっては、えらく罪深い行為にも思える。
放置された未読の本が目に入るたび、毎回のように「ああ、もったいない」と自責の念に駆られる。
それは、いつのまにか賞味期限が過ぎたポッカレモンや、安いからと言って買いすぎたGUのパーカーなど比ではない。
「この積まれた本をすべて読み終えていたら、わたしのボギャブラリーやインスピレーションはどれほど高まっているのだろう」
読まなかった時間を後悔してまいにちを生きる。
が、読まない。読めない。
とはいえ、肝心の「本さん」は、涼しげな顔で横たわっているだけだ。
なんにもこちらを責めることなく、泰然自若と積みあがっておられる。
本は腐ることがない(厳密には保存によって1000年くらいで腐るが)。
ほぼ悠久の時を生きる「本さん」からしたら、われわれ人間のたった数年の「積ん読」の懊悩なんざ、歯牙にもかけない。
だから、そもそもは己が土に還るまでに読めたら上等、くらいの気持ちでいい。
しかしこの「積ん読」、じつはタイトルが視界に入るだけでも、十分に人生の糧になっている。
なぜならその本たちは、まさに「自分が知りたいことを映す鏡」だ。
「自分の知的欲求が具現化した姿」に他ならない。
積ん読のタイトルは「わたしはこんなことを知りたがっているんだ」と、常に探求心や好奇心をリマインドしてくれている。
そりゃあ、内容を読めばそれに越したことはない。
でも、タイトルを眺めているだけでも、自分のインスピレーションが刺激されていることは間違いないのだ。
これも、買って積まなければ起こりえない事象。
なので「積ん読」は決してネガティブな行為ではない。
十分に有益で、ポジティブな行為。
「本さん」たちと違い、われわれ人間は短命なので、ついついあせってしまうのも致し方ないことではあるけどね。
ただひとつ、注意したいのは、あくまでも「積んでおく」こと。
それはつまり、買って1回しか使わなかったダンベルのように、目の見えない場所に保管してしまうと「積ん読」の恩恵はゼロになってしまう。
できるなら、本棚に並べて「積ん読」エリアを作るといい。
もう「積ん読」は罪でも咎でもないのだから、堂々と作って、どんどん増やしちゃおう。
そんでまいにち、タイトルだけ見て微笑もう。
それにしても。
読まなくても、待っていてくれる、支えていてくれる、そっと応援もしてくれる「本」という存在には、あらためて脱帽ですよ。