「おまえはもっと、グレーを大切にしなくてはいけない」
ここでいうグレーは白と黒の中間色、「灰色」のこと。
決して宇宙人のことではないし、HOWEVERが大ヒットしたロックバンドのことでもない。
わたしは20代のころ、「あの人、嫌いなんですよね」というセリフを平気で言う人間だった。
それはプライベートでも、しごとでもだった。
たとえば人間関係は「好き」「嫌い」の2択でしっかりと分けていた。
好きなともだちなら24時間いっしょに遊べた。
でも、そのともだちのともだちが苦手な人だと、その輪の中には入れなかった。
しごとで「好きな上司」には、積極的に師事を仰ぎ、考え方に傾倒した。「苦手な上司・同僚」はひたすらに敬遠した。
そりゃあフツーのことなんじゃない、と思われるかもしれない。
その日もいつもどおり、わたしは誰かのことを「嫌い」と話していたのだと思う。
そんなわたしに「好きな上司」が、言った。
「おまえは世の中を白か黒かで分けすぎている。おまえはもっと、グレーを大切にしなくてはいけないよ」
と。
正確には、秋田弁だったので、
「おめぇはよぉ、なんだって世の中を白か黒がだけで分げでるもんな。もっとグレーを大切にしねばねえや」
と、暖かい方言だったが。
そして、
「んでねば、いづまでも世界が狭い人間だや」
と続けた。
人間だれしも「嫌いな人」はいて当然だと、それをさも「この世の理」だと言わんばかりに振りかざして生きていたわたしにとって、それは割と刺さった。
たしかに世の中には、
「最初は苦手だったけど、いつのまにか仲良くなっていた」
「最初は苦手だったけど、いまでは一番の親友」
なんて話はゴマンとある。
会いたくない人間を増やすことは、自分の世界を狭くするだけだ。
夢を追っていたり、クリエイティブなしごとをしていれば特にそうだろう。
「嫌い」をたくさん作ることが、なにか成長や成功につながるのか。
答えはノーだ。
それからは、気軽に「嫌い」と言うことをやめた。
「いまんとこ、好きじゃない」
「そんなに、好きじゃない」
など、すこし柔らかい言い方に変えた。
そもそも、積極的にことばにしないようにもした。
そっとこころのなかで「苦手だなあ。でもいつか好きになることがあるのかなあ」と、どちらにでもいけるようヤンワリと構えることにした。
ムリに好きにならなくてもいい。ただ「嫌い」と強く思わないだけ。
おかげさまで、いろんな業界のいろんな人と出会うことができ、いまではプライベートもしごとも大成功を...
収めたわけではないけど。
それだけで人生を大きく好転させられたのかといえば、分からない。
でも、しごとや人間関係が上手くいかないとき、それは自分がなにか「嫌い」に固執しているときだと気づけるようになった。
大親友が増えたわけじゃないし、ともだちは少ない。
だけど、目の前の誰かさんといつか仲良くなれる日が来るのかも、と思うことはちょっとだけ人生の色調をトーンアップさせた。
あのときの上司とあの会話がなければ、いまもわたしは「嫌い」を増やし続けていたのだろう。
ひたすら「好き」を集めていたつもりが、いつのまにかたくさんの「嫌い」に囲まれて生きていたのかと思うと、その世界にゾッとする。