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短編小説・すずめ

〈性描写あり〉私はエイズになってお店もやめてしまった。私は嫌と言えない。言いたいのかもわからない。醜さと美しさが共存する短編。

【すずめ】

 私はHIVに感染した二人の男に犯されていた。暗い部屋の中で異常な汗をかいた男たちの体はぬらぬらと光って、イルカと戯れているようにさえ感じる。
 「口移しに唾を含ませてみて。もっと、たくさん」
 「アナルにもペニスを突っ込んでみて」
 「顔に精液をぶちまけてみて」
 たどたどしい英単語まじりの指示によって、男たちは私を犯していく。病気のせいなのか、まるで泥沼を這っているように動作がのろい。
 「まだ、こんなに若いのに…」暗がりの中で少年のような瞳がキラキラと光っていた。私は愛おしくなって思わず、男の坊主頭を抱きしめてしまう。
 こういう風に誰かれ構わず同情するからダメなんだと、私は思う。
 そんな私の考えを飲み込むように、容赦なく指示の声は続く。男たちは必死にもがき続ける。私は男たちの体液にまみれて、息をあげる。
 指示をしていた声の持ち主は満足すると、無神経に部屋の照明を全開にして、私の裸を白日の下にさらした。私は疲れ果てて、脚を閉じる気力もない。ベッドの上にはやせ細って身体中に奇妙な斑点を持った浅黒い肌の男が二人、ボロ切れのように転がっていた。
 「いや、みわちゃん、よかったよ」と男は言った。
 「ありがとう」お礼を言っている自分がおかしかった。
 「ごめんな、俺、変態だからさ。こういうんじゃないと興奮しなくて」
 「いいのよ、きよちゃんのそういう素直なところが好きなんだから」と私は言った。
 男は清野といった。本名かはわからない。四十から五十代。
 彼は悲痛な性行為を見物しながらオナニーをする嗜好の持ち主だ。決して脱がない、女の子に体を触らせない。女の体に触れない。相当の変態だけれど、その潔癖さと、自分の欲望と好奇心を屈託なくさらけ出すところを、私はある意味で信用していた。それに彼はお金を持っていた。
 優雅に着こなしたスーツから取り出したペニスはすでに、きちんと清潔な処理がされてズボンの中にしまわれていた。
 「だけどほら、金は弾むからさ」
 清野は手術で使用するようなゴム製の手袋を外すと、カバンの中から百万円の札束を取り出して、私の前に三つ放った。それから男たちの上にも数十枚と思われる1万円札をばらまいた。
 「ありがとう」私は微笑んだ。「でも、いいわよ、こんなにたくさん。ささやかなお葬式をあげる分だけあれば十分なんだから」私はいつも余計なことを言ってしまう。「その分、あの子たちにもう少し、分けてあげて」
 私がそう言うと、清野はすんなりと札束を引き上げ、その中から3万円ずつを男たちに渡して、残りをカバンにしまった。私のもとには百万円の束が一つ残った。
 男たちはそそくさと服に着替え、肩を組んで支え合うようにして部屋から出ていった。清野はその様子を見送ると、私の方に向き直って、こっそり打ち明けるように言った。
 「本当は日本人の方が良かったんだけどさ、都合がつかなくてな。ほら、日本人ならしゃべれるから、言葉でののしったりとかできるだろ。でも、俺、英語できねーし、あいつらカタコトだし。これでも少し英語の練習してきたんだぜ」
 清野が笑うと、私も思わず笑ってしまった。
 「だけど、あいつら相当やばいよな。もう長くないよ」
 清野が親指でドアの方を指すと、私はもう笑っていられず黙ってしまった。
 清野は居心地悪そうに、「じゃあ、俺もそろそろ行くわ」と言って頭を掻いた。
 「うん。いろいろ、ありがとう」私は心からお礼を言った。
 「まあさ、色々あるかもしんないけどさ、頑張んなよ」
 清野は照れ臭そうにそう言いながら、カバンを手に持った。「そうだ、みわちゃん。今日はここに泊まっていきなよ。せっかくいい部屋とったんだからさ。こんな部屋、若い子がめったに泊まれるもんじゃないぜ」
 「ありがとう」私はもう一度、お礼を言った。
 「じゃあ、元気でな」
 「待って、きよちゃん」私は廊下に向かう清野を呼びとめた。「ごめん。私にふとんをかけていってほしいの」
 私がそう言うと、清野は露骨に面倒くさそうな態度で私にふとんをかぶせて、無言で部屋を出ていった。
 一人になると、私は広くて白い天井を見つめた。都内の海を囲んだホテルのスイートルーム。一度に見渡しきれないほど広くて立体的なデザインのスペースには、リゾート風の贅沢な調度品が並んでいる。もちろんバルコニーからはビーチが見える。それに夜景を楽しむためのバーカウンターまで付いている。
 清野が言ったように、私の収入ではとてもこんな部屋に泊まることは無理だ。本当だったら大はしゃぎで、しゃぼんを立てたバスタブに浸かったり、カウンターにカクテルを何種類も並べたり、バルコニーからの景色を楽しんだり、この部屋を満喫するはずなのに、今の私は疲れすぎていて動く気にもなれなかった。
 きよちゃんに照明も落としてもらうんだったと、私は後悔した。間接照明で演出した部屋を、せめて楽しみたかったと私は思った。でも、少し経つとそれもどうでもよくなってしまった。
 「あんたは諦めが良すぎるのよ」とママは言った。
 確かに私もその通りだと思う。でも、本当にどうでも良くなってしまうのだ。
 私がエイズに感染していることを伝えるとママは泣いた。
 「だからもっと自分の体を大切にしなさいって言ったじゃない。だいたい、あんたは自分のことに無頓着すぎるのよ」ママの言っていることはいつも当たっている。「みんなそうよ。みんな、そう。みんなこんな仕事をしていたって––、してるからこそよ、自分の体は自分で守ってるの。何かあったって誰も助けてくれないんだから。それをあんたって子は…」
 ママは私のことをいつも心配してくれた。だから、その話をするとき本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 ママは私がしてきたことのほとんどを見逃してくれた。店の外で客と会ってハードなプレイをしていたこともママは知っていた。でもママは私を見捨てたりしなかった。
 足の小指を客に壊死させられたときだって、私が店の外で勝手に起こしたことなのに、ママは店の常連だったその客を店に呼びつけて説教をしてくれた。
 ママは客からお金を取ろうとしてくれたけれど、私はそれを事故だからと言って終わりにしてしまった。
 「体を拘束されて、天井から小指を糸で吊るされて、何日も放置するなんて事故なわけない!」
 ママは泣き叫んだ。私がママを抱きしめて背中をさすってあげると、ママは大きなため息をついた。
 私はその時したみたいに、ママの背中をさすってあげた。
 「あんたわかってるの?自分の置かれた状況がわかってんの?指をもがれたのとは訳が違うんだよ?」ママは私の胸に頬をもたれさせて疲れたように言った。
 「大丈夫だよ、ママ。だからもう泣かないで。ごめんね」と私は言った。
 でも本当は、私は何もわからなかった。
 最後にママは感染させた男の心当たりを聞いたけれど、私は首を横に振った。もちろん何人かの心当たりはあったけれど、私はママが思っている以上にたくさんの人とたくさんのひどいことをしていて、私はこれ以上、ママをがっかりさせたくなかった。
 ママは私に、店に残って電話を取ったり、粘膜感染の心配がない客の相手をすればいい、と言ってくれたけれど、そんなことをしたらあっと言う間に噂は拡まるし、私がいればママはきっともっと悲しい思いをする。
 店を辞めてみると、私は本当にどうしたらいいかわからなくて、途方にくれた。しばらくはコンビニや清掃の仕事をしていたけれど、それをするほどの体力も気力もなくなって辞めてしまった。
 感染が発覚したのは約一年前だった。しばらく微熱が続き、口内炎が増え続けて、病院に行ってみたらエイズだと言われた。
 私の体から小指が離れていった時よりも、もっと、もっと遠くに突き飛ばされた気分だった。
 小指が落ちるより早く、私の足は床に落ちた。大きな音と小さな音がして、そのあと、目の前が真っ暗になって、無音が広がった。まるで宙を浮いているような感覚だった。
 今は治療法や薬が発達していて、きちんと薬を飲めば死亡することはほぼないと医者は言っていたが、体調はどんどん悪くなっている気がする。
 
 体はまるで腐りかけのフルーツのようにくずれて重く、いつも粘っこい汗がまとわりついていた。
 そんな時、清野のことを思い出して電話をした。事情を話すと清野は、「待ってろよ、最高のシュチュエーションを用意するから」と喜んで話にのってくれた。
 それなのに。私はバカだなあと思う。
 せっかくきよちゃんが張り切って、お金も奮発してくれたのに。私はいつも、人の好意を台無しにしてしまう。
 薬代だってあるのに、たった百万円でこれからどうやって生きていくつもりなんだろう。それとも、私は本当に自殺する気なんだろうか。
 そんなことを考えているうちに、私は落ち込んでしまった。
 でも、一つだけいいことを思いついた。明日の朝にルームサービスで朝食を頼むのだ。白くて上等なバスローブを着て、それをベッドの中で優雅に食べる。考えるとわくわくした。幸せな気持ちで眠りにつくのは久しぶりだった。

 朝起きると、よく眠れたせいか体調は多少良くなっていた。レースのカーテン越しにビーチが見えて、私は今いる場所を思い出した。
 私は改めて部屋を見回してみた。美しくて清潔な、非日常的な空間が広がっていた。
 こんな素敵な部屋で、昨夜あんなおぞましい行為が行われたなんて嘘のようだ。でも、残念なことにその痕跡は、純白であるはずのシーツにありありと残っていた。皺の寄ったシーツには、血液や精液の染みと一緒に皮膚から剥がれ落ちたかさぶたも散らばっていた。
 そういえば、私の体もこのシーツのように、男たちの体液で汚れたままなのだ。私はそのことを思い出して、ベッドから出た。バスルームに入って、バスタブにシャワーカーテンを落とし、お湯のコックを捻った。勢いよくお湯が出て、私の顔は湯気に包まれる。私はそこで大事なことを思い出して、洗面台を振り返った。
 洋菓子の盛り合わせのようなかわいらしいアメニティグッズの中からバスソープを探した。ローズと柑橘系の香りがあって、淡いピンク色のボトルを開けて、蛇口の真下に液体を落とした。途端にバスルームにバラの香りが広がった。やっぱり、せっかくのホテルなんだからこれをやらなくっちゃ。
 私は棚にきれいに収まったバスローブを取り出した。分厚いタオル地で、鼻先に寄せるとホテル特有のリネンの匂いがした。私は紐をほどき、袖を通した。ふと気になって背中を鏡に映すと、すずめの羽の模様のように中央から広がった赤茶色をした斑点が見えた。数日前に見た時よりも大きくなっている気がして、私は怖くなった。
 「気にしない」
 私は口に出して言って、急いでバスローブを羽織って前を閉じた。ローブ紐を蝶々結びにすると、私は少し前を開いて胸の谷間が見えるようにした。それからアメニティセットの中にあったタオル地のターバンで髪をあげてみた。
 壁一面の鏡に映った私は、目の下に墨で書いたようなクマはあるものの、上からの明るいライトのおかげで、いつもよりきれいに見えた。私はいろいろな方向から自分を映して眺めてみた。
 その時、携帯電話が鳴った。
 私は反射的に部屋に駆け戻り、バッグの中から携帯電話を取り出した。電話は父からだった。出ようか、どうしようか迷ったあげく、結局私は電話に出た。
 「もしもし」できるだけ明るい声を出した。
 でも、自分からかけてきたくせに、返ってきたのはむっとした沈黙だった。
 「もしもし?お父さんでしょう?」と私は声をかけた。「おはよう」 
 「なんだお前は、なかなか電話にも出ないと思ったら、今起きたのか」
 父の憮然とした声が返ってきた。
 「起き抜けじゃなくたって、朝はおはようって言うでしょ。もう、起きてたわよ」
 私は笑いながら言った。枕元の時計を見ると、まだ6時前だった。寝ていたとしても文句を言われるような時間ではなかった。でも、父にはそんな理屈は通用しない。
 「朝からどうしたの?」と私は聞いた。父は答えなかった。
 「何かあった?」私は質問を繰り返した。沈黙が続いた。「ごめんなさい。ちょっと待ってて」
 私はバスタブのお湯を止め忘れていたことを思い出して、通話口を押さえるとバスルームに向かった。扉を開けると、バラの香りと湯気が立ちこめていて私を包んだ。父との気詰まりな会話とは別世界だった。
 私はきっともうこんな贅沢な香りを嗅ぐことはないのだろうと思って、胸いっぱいに湯気を吸い込んだ。
 それからお湯を止めて、部屋に戻った。耳に携帯電話を当てたままデスクの引き出しを開き「ルームサービスのご案内」と書かれたレザー調の表紙の冊子を取り出した。父の沈黙は続いていた。
 「お父さん、ごめんね」
 私は再度声をかけたけれど、父は口を開かなかった。私はベッドに足を上げて、枕元に背中を預けて、メニューのページをゆっくりと開いた。どのページにも、うっとりするような料理やデザートの写真が並んでいる。父はこんな料理を写真ですら見たことがないのだろうと私は思った。
 朝食のメニューは最後にあった。「Breakfast」と囲みがあり、見開きのページが四分割されていてそれぞれの朝食セットの写真が大きく載っていた。
 いちばんシンプルなパンとジュースとコーヒーだけのコンチネンタルブレックファーストが二千七百円もする。せっかくのホテルで和定食もないし、なんて悩んだふりをしていても、私は最初から「ロイヤルブレックファースト」の写真に目が釘付けだった。
 丸い磁気の紅茶ポット、新鮮なフルーツの盛り合わせ、ホイップクリームがたっぷりと添えられたスコーンにオムレツ。宿泊客しか注文できない特別メニュー。
 紅茶は香り高いホテルオリジナルブレンドと書かれている。フレッシュジュースかスパークリングワインのいずれかを選ぶことができるのも魅力だった。湯気の上がったオムレツの写真には、「とろーり熱々のままお届けします。」と書かれたリボンのポップが巻き付いていた。
 私はその輝かしいあちら側の世界にすっかり魅了されてしまった。六千五百円もするけれど、絶対これにしようと私は決めた。
 「……した」
 耳元の声が、私を現実に引き戻した。
 「…え?ごめん、今なんて言ったの?」私は慌てて聞き返した。
 「お前は人の話も聞けないのか」癇癪を起こした声で父は言った。「母さんがまた入院したって言ったんだ」
 「そう」
 「何だ、お前は心配じゃないのか」
 「そうじゃないけど…」
 でも、母が入院するのは珍しいことではなかった。体が弱い母は、私が子供の頃からよく入院をしていた。慢性的なひどい貧血が主な原因だったが、ストレスや疲れに起因していることは子供の私でもわかった。
 父は漁師だった。仕事や土地柄の影響もあると思うが、男上位の考えで女を見下し、母や私に辛く当たった。頑固で寡黙で酒を飲むと暴力をふるった。
 父の期待の長男は、海に出て死んでしまった。漁師になるのを嫌がっていたのに、父に殺されたようなものだった。心の優しいかわいい弟だった。
 弟が死ぬと父の酒量は増え、海に出る日は減っていった。
 私は美容師になると言って家を出た。もちろん金の援助は一切なかった。二度と帰ってくるなと、私は家を追い出された。母のことが心配だったが、私はあの家にいることがいたたまれなかった。
 東京で生きていくのは大変だった。でも、手に職を付けて自活する、という目標というか意地があった。私は母のようにはなりたくなかった。私は必死に働いて授業料と生活費を稼ぎ出し、美容学校を卒業した。
 歯車が狂いだしたのは美容師になって三年が過ぎた頃だった。お客も付きはじめ、仕事が楽しくなっていた。私は毎日遅くまで働き、閉店後に時間を割いて技術を磨いた。そんな私に影は音もなく忍び寄ってきた。
 まず恋人と思って付き合っていた男の借金が発覚した。別れればよかったのに、私は男を自分の部屋に住まわせ、貯金のほとんどを使って借金の肩代わりをしてしまった。返済しきれなかった分の借金は、二人で真面目に働けば、すぐに完済できると思っていた。
 でも、男は働くどころか、借金を増やしていった。夜遅く帰宅すると、男はたいてい酒を飲んでいた。そして、暴力を振るった。
 仕事先の店にまで金融屋から催促の電話がかかってくるようになっても、私は男を諦めなかった。
 男から謝られ、安易な夢を熱く語られ、泣言を言われて頼りにされると、私の感覚は麻痺し、あと少し私が頑張ればこの人は何とかなるのではないかと思った。
 必死に金を作り続け、気づくと私は美容室を辞めて、風俗の世界に足を踏み入れていた。男は私に多額の借金と喪失感を残して消えた。
 借金をさっさと返して、一刻も早く美容師の仕事に戻ろうと思った。でも、やっと借金を返し終わる頃には、私の中で何かが完全に壊れてしまっていた。私はさらなる痛みを欲するようになっていた。
 その合間にも縁を切られたはずの父は、金の無心のときだけ電話をかけてきた。理由はたいてい母の入院だった。
 「今度は長引きそうなの?」私は聞いた。
 「は?」今度は父が聞き返した。電話の向こうから風の音が聞こえた。
 「お母さんの、入院、今回は、長引きそうなの?」私は言葉を区切って、内容を繰り返した。
 「しらね」と、父は吐き捨てた後、「まったく、あの女には金ばっかりかかりやがる」と口の中でごもごもとひとりごちた。
 「そう、また少しお金を送っておくね」私は言った。
 短い沈黙があった。
 「今回は手術するかもしんね」
 父はぶっきらぼうに早口で言うと、また黙り込んだ。きっと、嘘をついているのだろう。
 私は百万円の束に手を伸ばして、一万円札の角をぱらぱらとめくった。
 「そう、大変ね。今回は少し多めに送ってあげられると思うよ」
 言ってしまってから悲しくなって、私は窓の外に目を向けた。
 ラタン造りのリゾートチェアとテーブルに数羽のすずめがとまっていた。こんなセレブな場所にすずめだなんて、まるで私みたい。無邪気に跳ねたり、小首を傾げるすずめのしぐさを、私は微笑ましく見つめた。
 「おまえは帰ってこないのか」父が言った。
 そういえば、私は初めての男が父だったことを思い出した。
 「そうね、忙しいから。でも、お正月には帰れるといいな」
 父はその言葉をハッと笑い捨てた。私は家を出てから一度も帰っていなかった。
 私はやわらかく人差し指をくの字に曲げた。
 私は子供の頃にセキセイインコを飼っていて、こんなふうに指を曲げてインコの胸の近くに差し出すと、インコはぴょんと私の指に飛び乗った。
 黄色い羽をしていて、名前をピーコといった。私がピーコと呼ぶと、ピーコは首を傾げた。私はピーコがのった指を顔に近づけて、ピーコの胸の毛の中に鼻を埋めるのが好きだった。やわらかくって、小鳥の匂いがした。ピーコはたまに私の小鼻をかじった。痛いのに、私はいつも笑ってしまった。
 実家にはピーコと撮った写真があった。ピーコが私の鼻をかじっていて、私の頭の上にお母さんの顔があって、その上にはお父さんの顔があった。きっと幼い弟が撮ったものなのだろう。みんな、何がおかしいのか大笑いしていた。
 また電話の向こうから風の音が聞こえた。父は漁師らしい頑固な沈黙を続けていた。
 家は港のすぐ近くで、海風に飛ばされてしまいそうな小さな小屋だった。家の外では魚を干すための洗濯バサミが、いつもカラカラと音を立てていた。写真はその小屋の煤けた柱に画鋲で止められていた。
 私は再び、耳をすませた。レースのカーテン越しに見える人工ビーチに、父のいる漁港の海の景色を重ねた。
 飛び立っていったのか、すずめの姿はいつの間にか消えていた。
 私はくの字に曲げた指を顔に近づけて、ピーコの胸の毛に鼻先を埋めた。
 「ねえ、お父さん」私は父に話しかけた。「今度引越した部屋にはね、小さな庭があって、毎朝、チュンチュンって、すずめが遊びに来るんだよ」

読んでくださりありがとうございます。 小説は無料で提供していますが、サポートいただけましたら、とてもうれしいです。 気合が入ります( ^∀^)