短編小説・長雨
雨が降ると、私はカイに会いに行く。私はお酒がやめられない。死んでしまったカイの元へ、早く行かなくてはと思う。ままならない自分に翻弄されて生きる女の子の話。
【長雨】
雨が降ると憂鬱になる。
耳の奥で波の音がする。
私は服を着て、雨の中に出かけていく。
灰色の空。
灰色の海。
私はじっと海を見つめる。
カイは死んでしまった。
私が殺してしまったのかもしれない。
そうじゃないと言う人もいる。
でも、「お前が殺したんだ」という声が聞こえる。
それは自分の声なのか、誰かの声なのかよくわからない。
現実と幻覚が入り乱れて記憶はすべて曖昧だ。
私は雨の中で缶ビールを傾ける。
カイが死んだ時、お酒は二度と飲まないと誓ったのに、私はお酒を飲んでいる。
通夜の晩にも葬式でも私はお酒を飲み続けて、ほとんど記憶が残っていない。
私は泣きわめいたり、大声で笑ったり、死体に飛びついたりしたらしい。
「みっともないな」
「どうしようもないよ」
「あれじゃあ旦那が浮かばれないな」
「お前が死ねばよかったんだ」
私の耳の中にはたくさんの声が残っている。
でも、それは本当の声なのかわからない。
どちらにしても大好きなカイは死んでしまった。
私の唯一の味方。
朝起きると、私は不安になってすぐにカイの顔を見にいった。
「おはよう」と私が言うと、彼はいつも挨拶を返してくれる。
けれど、わずかな声の硬さで私にはわかる。
私はまたやってしまったのだと。
「ごめんね」
私は泣きそうな気持ちになって謝る。いや、もうすでに泣いているのだ。
「ごめんなさい」
「別にいいよ」彼は言う。
カイはもう私という人間に疲れ果てている。
今度こそ捨てられるかもしれない。
恐怖が頭を取り巻き、私は拝むように謝る。
母にしたように。
「ごめんなさい」
「許してください」
「もうしません」
母は、決して私を許してはくれなかった。
私は泣きじゃくる。
呼吸を詰まらせ、気が遠くなりそうになる。
それでも私は許されなかった。
私は罪深い子供なのだ。
「もう、いいよ。そんなに謝らないでよ」
カイは決して声を荒げるようなことはない。
だからと言って、私は許されるべきではない。
「私は何をしたの?」
せめてもの罪滅ぼしのつもりで私は彼に聞く。
カイはぽつりぽつりと話し始める。
「店の中で大きな声を出して暴言を吐いた。それから隣の客に絡んだ。僕にもね」
「それから?」
「それから店を飛び出して、全速力で走って、車の下に逃げ込んだ」
「バカだよね」
私は自分に呆れる。
「僕が危ないから出ておいでって言うと、僕の手を引っ掻いて、僕に飛びかかって、耳を噛んだ」
「本当にごめんなさい」
私は恥ずかしくて消えてなくなりたい気持ちになる。
でも、耐えなくてはいけない。
これは毎回、お酒のあとで繰り返されるゲームなのだ。
「別に大したことじゃないよ。それより…」
「それより?」
「君は人の弱いところ見つけて、的確に傷つく言葉を言ってのけるんだ。そういう才能があるよ」
「わかってる」
私はそういう才能を持っていることを自分で知っている。
「でも、それはやめた方がいいよ。自分も傷つくから」
「うん。ごめんなさい」
目から大粒の涙が流れる。
カイに触れて許しを請いたいけれど、彼に拒まれることが怖くてできない。
私は惨めったらしく泣き続ける。
「もういいって。それより鏡を見ておいでよ」
私はお化けのように立って洗面所に向かう。
どんな顔か見なくても想像はつく。
唇の脇と頬骨の付近に痣ができている。
私は酔うと自分を傷つけてしまう。
電柱やガードレールに顔を叩きつけてしまうらしい。
私は何をしたいのか、自分のことが怖い。
「今日は歯が欠けてなかった」
私はこれ以上、カイに疎ましく思われないように明るい笑顔で言う。
キュウちゃんに会ったのは、まだカイが生きている時だった。
私はキュウちゃんのベッドに潜り込んで眠るのが好きだ。
キュウちゃんと一緒にいると安心する。
きっと、彼もまたろくでなしだから。
だけどキュウちゃんは飛び抜けた才能を持っている。
だから裏切り者だ。
「ねえ、キュウちゃん、今日は海に行ってきたんだよ」
私は冷たい足を彼の足に押し付ける。
ふとんの中は温かい。
私は少し眠る。
それからキュウちゃんとお酒を飲みに行く。
キュウちゃんと一緒なら、朝起きた時もそれほど不安にならない。
キュウちゃんもお酒を飲んだ夜のことは何も覚えていないから。
「ねえ、キュウちゃん、昨日のこと覚えてる?」
「さあ、覚えてねーなー」
キュウちゃんは覚えていても覚えていなくてもそう言う。
「でもよ、こんなのあるぞ。ほら」
キュウちゃんは長い鎖の先に付いた黒いゴム製の弁を宙にぶら下げてみせる。
「何それ?」
「わかんね。たぶんトイレのタンクの中のやつ」
私たちは笑う。
キュウちゃんは素敵な盗癖を持っている。
キュウちゃんの部屋に初めて泊まった日、私はカイと顔を合わせることができなかった。
でも、そのうちカイの枕元で、キュウちゃんの話をするようになった。
新しくできた友だちの話。
「よかったね」カイは言った。「僕が一緒に遊んであげられればいいんだけど」
私は熱を含んだカイの熱い首筋に抱きついた。
「いいの。カイはいてくれるだけで」
そんなカイに私はひどいことをたくさんしてしまった。
罪悪感と疲れと不安と苛立ちで、自分だけが辛いような気になって、私はだんだんシラフでカイの顔が見られなくなった。
会社から帰ると、私はカイと壁を隔てて一人でお酒を飲んだ。
酔っ払うと私は、隣の部屋のカイに会いにいった。
「よっ!」と私が陽気に言うと、カイは「いらっしゃい!」と陽気に言った。
「ごめんね」
私はカイのベッドの中に潜り込む。
「何が?」
「わからないけれど、本当にごめんなさい」
「謝ることなんてないよ」
「そうだよね。ごめん」
カイが病気になる前も後も、私は彼に謝ってばかりいた。
それと同じ数だけ、カイにひどいことをした。
お酒をやめようと何度思っても、お酒をやめることができなかった。
病院の帰り、カイが余命短いことがわかった日も、私はカイを居酒屋に誘った。
カイはカウンターでお酒のグラスを持ってぼんやりとしていた。
その横で私はお酒を飲み続けた。
カイにどんな言葉をかけたのか覚えていない。
わかっているのは、死んだ方がいいのは自分だということだ。
私は最低な人間なのに、でも、まだ怖くて死ぬことができない。
カイを車椅子に乗せて海に行った。
海に行きたいと言ったのはカイだったのか、私だったのか覚えていない。
雨がっぱを着たカイは、雨に打たれて海を見つめていた。
灰色の、暗く悲しい海だった。
「ただ海に帰っていくだけのことなんだ」カイは言った。
カイの名前は「海」と書く。
「カイが死んだらすぐに私も行くからね」
私は缶ビールを片手に言った。
それなのに、私はみっともなくまだ生きている。
私ができるのは、海を眺めながらお酒を飲むことだけ。
それからキュウちゃんに慰めてもらいに行く。
「ねえ、キュウちゃん。私、人を殺しちゃったの」
「マジで?」目をつぶったままキュウちゃんは言う。
「うん。あのね。酔っ払って駅にいたの。電車に乗ろうとしてホームに向かうんだけど、でも、すごい人混みで、思うように進めなくて。私、だんだんイライラしてきて。そしたらね、後ろの家族づれのベビーカーが私の足に当たって、振り返ると、ベビーカーを引いていた母親が、はあ?っていう顔で私を見ているわけ。隣の父親もすごい目つきで私を睨んでてて。私、頭にきて、ベビーカーで寝ていた赤ちゃんの足を掴んで、ハンマー投げみたいにぐるんぐるんって振り回して投げてやったの」
「ひーっ」キュウちゃんが言った。
「そしたらね、ちょうどホームに電車が入ってきて、フロントガラスに赤ちゃんがぶつかって、グシャッって。お母さんが半狂乱で泣き叫んで。たくさんの人が集まってきて。ねえ、キュウちゃん。私、そんなことやってないよね?」
「やってないのか?」
「わからない。でも、朝起きたらそういう記憶が残っているの」
「なんだよ。驚かすなよお」
「最近、一人でお酒を飲んで寝ると、必ずそういう夢を見るの。すごくリアルなの。赤ちゃんのお母さんの表情とか叫び声とか、掴んだ赤ちゃんの足の感触とか、手に残ってるの」
「そりゃ、お前。本当にやっちゃったからだろ」
「うん、そう思ってね。慌ててテレビつけてニュースを見たりね、SNSで情報を拾おうとするんだけど、でも、そういう事件は見当たらないの」
「当たり前だろ」
「私が人を殺すわけないって、自分のことが信用できないの。耳元に色んな声が聞こえてくるの。まだ生きていたのかとか。死ねばいいのにとか。色んな声が聞こえてくるの」
ねえ、キュウちゃん。私、もうヘトヘトなの。
カイのお母さんには、お葬式以来会っていない。
お母さんもきっと寂しいだろうし、カイの大切な人だから仲良くしなくちゃいけないってわかっているけれど、私は後ろめたくてカイのお母さんに会いに行くことができない。
「カイの世話をしてくれて、どうもありがとう。大変だったでしょう」
カイのお母さんは私の手を握って、そう言ってくれた。
やさしいカイのお母さん。
カイは自分が死ぬことを知っていたんだと思う。
その日、カイは元気だった。
「よし!久しぶりに餃子を作ろう」カイは言った。
「餃子なんて食べれるわけないよ。ほとんど何も食べれられないんだから」
「いや。今日は食べられる気がする」
私たちはベッドの中に材料を持ち込んで、一緒に餃子を作った。
カイが元気だった頃、私たちはよく一緒に餃子を作った。
「嘘つき。食べるって言ったじゃない」
私はカイが餃子を一個も食べられなかったことが、頭にきて、悲しくて、怖くて、焼き上がった餃子を一つ一つ、カイに投げつけた。
私は酔っ払って寝てしまった。
朝起きるとカイは死んでいた。
カイの枕元には餃子が散らばっていた。
冷たくなったカイはうっすらと目を開けていた。
「カイ…」
私はお酒を飲みながら、カイの周りに散らばった餃子を一つ一つ食べていった。
「ごめんね」
私はおでこにかかったカイの髪をかき分けた。
昨日まで柔らかかった髪は、人形のそれのようにごわごわして硬かった。
「カイ、ごめんね」
私は餃子を食べ終わると、再びベッドに潜り込んで眠った。
どのくらいの時間が経ったのかわからない。
次に目が覚めてもやっぱりカイは死んでいた。
私はやっとベッドから出て病院に電話をかけた。
すごく怖くて、ガタガタと震えてしまった。
私はバスに乗って海に向かう。
白いビニールのレインコートを着てお化けみたいに。
フードまですっぽりかぶってバスの座席に座っていると、乗客の人たちがジロジロと私を見る。
私はくすくすと笑ってしまう。
通勤に使っていたバッグの中には缶ビールが入っている。
カイが死んでから会社には行っていない。
私のことを置き去りにして、時間はどんどん進んでいってしまう。
私がダメな人間だということをもっとなじってほしいのに、母は二年前に死んでしまった。
妹も死んでしまった。
父と呼べる人は、もうとっくに私の前から消えてしまった。
まわりの人が死んでいくと、自分が薄まっていくような不思議な感じがする。
私のいる世界は、もうすっかりすり減ってしまって、向こうの世界が透けて見えているのに、私はまだ向こうの世界に行けない。
砂浜に立つと、波の音が聞こえる。
カイが呼んでいる。
「ねえ、キュウちゃん。上手に死ぬにはどうしたらいいんだろう」
「さあなあ」
「キュウちゃんは、死にたいって思ったことはないの」
「キュウちゃんはない」
キュウちゃんはふとんをかぶって目をつぶっている。
「キュウちゃん、私、死にたいのに死ねないの。死のうとするとすごく怖くなるの」
最近、私はキュウちゃんの前でよく泣いてしまう。
キュウちゃんがそれを疎ましく思っているのはわかっている。
「キュウちゃん、ごめんね。こんな話ばかりして。すぐに泣き止むから。だから、私のことを嫌いにならないで。キュウちゃん、ごめんなさい」
涙は止まらない。
どんどん私の中から溢れ出していく。
やがて嗚咽に変わり、私は息を詰まらせる。
「キュウちゃん、ごめんね」
「キュウちゃん、何か言って」
キュウちゃんはずっと黙っている。
この人は本当にキュウちゃんなのだろうか、私はわからなくなってしまう。
キュウちゃんの顔がぜんぜん知らない人の顔に見える。
「ねえ、キュウちゃん。私、キュウちゃんがお酒よりも悪いことしてるの知ってるよ。だから、お願い。私にもそれを分けてほしいの」
「ダメだあ」
キュウちゃんはとろんとした目をして言う。
「キュウちゃん、お願い」
「あれは、ダメだああ」
キュウちゃんの顔がどんどん崩れていく。
キュウちゃん…。
私はキュウちゃんの肩を揺さぶる。
キュウちゃんは砂のように崩れていく。
キュウちゃんっていう人間は、本当にこの世に実在したのかな。
私は?
翌日、キュウちゃんはしばらくスタジオに籠るからと言って、部屋を出て行った。
「ここにいたきゃ、いてもいいよ」
そう言って、キュウちゃんはベッドの上に鍵を放った。
私はコンビニにお酒を買いにいく以外、外には出なかった。
私は自分の部屋にずっと戻っていない。
カイが死んだ時のまま、部屋は凍りついている。
部屋にはカイのものがたくさん残っている。
まるで今でもカイがそこに住んでいるように。
「別に特別なことじゃない。僕だって逆の立場なら同じことを言ったと思うし、やったと思う」
カイはそう言ったけれど、彼は決して私のようなことをするはずはなかった。
カイは私の神様だった。
カイは私に安らぎを与えてくれた。
彼と過ごした日々は、私にとって夢のようだった。
それなのに、私の中には悪魔が棲んでいて、人を恨むことをやめなかった。
母が決して私を許さなかったように、私もまたカイを許さなかった。
「何だ。この部屋は!」
一週間ぶりに帰ってきたキュウちゃんは部屋の匂いにむせた。
「お前、風呂入ってないだろ。部屋がすっぺーよ。酸っぺえ匂いがするよ」
キュウちゃんがカーテンと窓を開けた。
「雨…」
ずっとカーテンを閉めていて、夜も昼も気づかなかった。
「海に行かないと…」
私はベッドから出た。立ち上がると、ひどい目まいがした。
「おいおい、大丈夫か。顔が真っ青だぞ」
「うん。行かないと…」
「お前、海に行くな」
「ダメよ。カイが待っているんだから」
「カイは待っていねーよ。そんなことより、飯を食いに行くぞ」
「カイは待ってるわ」
私は床に落ちていた服を拾って玄関に向かった。
目の前が真っ暗になった。
「もう。風呂ぐらい入れよなぁ」
結局、私はキュウちゃんと居酒屋のカウンターに座っていた。
私は頬杖をついて、熱燗を飲んでいた。
「おい、これを食え。これも」
キュウちゃんはお母さんみたいに私にご飯を食べさせようとした。
「なんてね、私のお母さんは料理なんてしなかったけど」
「おめーだって、しねーじゃないか」
私は笑った。
「料理はカイの方がずっと上手だったの。何でも。私なんて一つもかなうところがなかった。何の才能もないし、アル中だし、暗いし。どうしてカイは私なんかと一緒にいたんだろう」
「さあな。あいつは割と変わってるところがあるからな」
キュウちゃんはカイのことを、私なんかよりずっと前からよく知っている。
「ねえ、私、カイに暴力をふるっていたのよ。ぶったり、ひどいことを言ったり。エサみたいに菓子パンを投げてよこしたり。着替えをしてあげなかったり。それなのに、カイはずっとやさしいの」
「あいつはそういう奴なんだよ」
美しいカイはずっと酸っぱい匂いがしていた。
私の目からはすでに涙が流れている。
自分で犯した罪なのに同情を誘うようなことをする自分を、私は軽蔑している。
「私、何度も警察に通報してって、カイにお願いしたのよ。じゃなければ病院に入院してって。お願いだから私の前から消えてって。そうしないと、いつかあなたを殺しちゃうかもしれないからって」
「でも、お前はカイを殺さなかったろう?」
「いいえ、違うわ。私はカイを殺したのよ。だからカイは死んだの」
「お前はわかってないねー」
「何が?」
「人間ってもんをわかってない。カイは最後までお前と一緒にいたかったから、一緒にいたんだよ」
「違うわ。カイはやさしいから、私を一人じゃ放っておけなかっただけよ」
「お前ねえ。いくらカイがやさしいからって、同情だけで死の直前まで一緒にいれると思うか?そんな人間、一人もいねえよ」
「だったら、尚更、早くカイの近くに行ってあげなきゃ。私にはそんなことしかしてあげられないもの」
「お前さあ、死ぬのもいいけど、もう少し気楽に生きてみなって」
キュウちゃんは急に立ち上がると、下着ごとズボンを下ろした。
「お客様っ!」
店員が慌てて駆け寄ってくると、キュウちゃんはズボンを上げた。
でも結局、私たちは店を追い出された。
私とキュウちゃんは歩いた。
繁華街の外れの公園に入ると、カップルたちがたくさんいた。
「よし!ここで宴会しよう!」
そう言うと、キュウちゃんは近くのコンビニまで走っていって、公園の広場の地面にお酒の缶を積み上げた。
「さあ、飲もう。大騒ぎしよう!」
キュウちゃんは暗闇のベンチでキスをしているカップルたちに向かって言った。
「キュウちゃん、やめようよ。みんなに迷惑だよ」
「何言ってんだ。酔っ払ってる時のお前はもっと迷惑だぞ」
「酔ってる時の話なんてしたら、舌噛んで死んでやるから」
「お前は酔っ払った自分を毛嫌いしてるけど、俺はそんなに嫌いじゃないよ。むしろ、シラフのお前より好きだ」
「そんなはずないよ。みっともないことばっかして」
「そう。どうしようもないことばっかすんの、あんたって。なんて言うかバカみたいで人間臭いよ、しかも幼児。どんくせーし。でも、それがお前のいいところなんだぞ」
「もう、くさい、くさいって」
「お前、まじで風呂に入れよなー」
私たちは缶ビールを開けた。
それから後のことはあまり覚えていないけど、最後にキュウちゃんに殴られたことは覚えている。
「お前が酔っ払っても記憶をなくさないように、こうだ!」
そう言って、キュウちゃんは笑いながらげんこつで、私の頬を殴った。
私たちは殴り合った。
何がおかしいのかわからないけれど、私はゲラゲラと笑いが止まらなかった。
「殴り合うって、楽しいだろ?」
「うん!」
「生きてるって感じするだろ?」
「うん!」
朝起きたら、ありえないほど顔が腫れていた。
でも、悪夢は見なかった。
キュウちゃんは部屋にいなかった。
私は久しぶりに自分の部屋に帰ってみようと思った。
ドアノブを回すと、扉は開いた。
キュウちゃんはベッドの中にいた。
でも、痩せて半分くらいになっていた。
きっと、悪い薬のせいだ。
「キュウちゃん…」
私はキュウちゃんのボウズ頭を撫でた。
キュウちゃんは大きな目を開いた。
それから元気なふりをして笑顔を作った。
「久びさだなっ!」
「うん」
私は殴られて体中にできたあざを、時間をかけて一人で治していたのだ。
「キュウちゃん、海に行ってきた」私は言った。
「何だ、今日は雨か?」
「ううん。カイにお別れを言ってきた。それから、ハローワークに行ってね、仕事をもらったの」
「なんだ。すげーな」
「無線タクシーの配車をするコールセンターなんだ。夜勤だから、キュウちゃんともあんまり飲みに行けなくなっちゃうなーと思って」
うつむいて話す私の髪をキュウちゃんはかき上げて、顔を覗き込んだ。
「何だ、お前。酒をやめる気になったのか?」
「ううん。そうじゃないけど、お酒を飲むお金ぐらい、自分で稼ごうかなと思って…」
キュウちゃんを裏切っているようで、後ろめたくて、私の声は小さくなっていった。
キュウちゃんは私の頭をぽんぽんと叩いた。
「じゃあ、俺からも話がある。お前、俺と別れろ。好きな奴ができた」
キュウちゃんは言った。
私はキュウちゃんを見た。
「いいけど。私たちって付き合ってったんだっけ?」
「まあな、その辺は微妙だけどよ。とにかくお前、もう勝手に俺の部屋に入ってくんな」
キュウちゃんはカイのかつての恋人だった。
そのことはキュウちゃんと話しているうちに知った。
キュウちゃんと出会ったのは、カイとよく行った居酒屋だった。
私とキュウちゃんはカイを愛していた。
カイが少しずつこの世から消えていく不安を、体を寄せて慰め合っていた。
やせ細ったキュウちゃんももうすぐ消えてしまうのかもしれない。
私はきっと仕事をすぐにやめてしまうのだろう。
でも。
「ねえ、キュウちゃん。夏になったら海に行こうよ。私、赤いちっちゃなビキニを着けてあげる」
「おっ!いいね。行こうぜ!」
私は笑っている。
キュウちゃんも笑っている。