黒柴的パンセ #5

思考するときは、「牛」になる

諸兄らは、「考える」とか、「思考する」というとき、どういう状況でそれを行うことが多いだろうか?
人によっては、1人で小部屋に閉じこもり、外からの刺激を遮断して、じっくりと考えを練る、いわゆる「缶詰」という状態を好む人もいるだろう
また、オープンテラスのカフェで、道行く人を観察するまでに至らなくても、それとなく眺めながら、緩い雰囲気の中で、思考をめぐらす人もいるだろう

黒柴は、1人で散歩や街ブラなど徒歩で移動する際に、いろいろと思考することが多い
古代ギリシアの哲学者グループに「逍遙学派」というものがある
彼らが「逍遥(散歩)」と呼ばれる説には、いろいろとあるようだが、黒柴は「思考する」ということと「歩く」ということは、意外に相性が良いと感じている

黒柴の散歩中の思考方法は、以下のような感じだ
街ブラをしながら、何か気になることを見つけたら、その気になることと関連しそうな項目を、頭の中の引き出しから一つ取り出してきて、その定義や他の事象との関連性などについて、いろいろと考えてみる
答えを必ず出す必要はなく、適当にこねくり回して、何かアウトプットを得たら、それをまた頭の中の引き出しにしまい込む
そして、また別の気になることを見つけたら、頭の中の引き出しから・・・を繰り返す
つまり「牛」になるというのは、「食べてすぐ横になると牛になるよ」ということではなく、反芻動物のようにネタを取り出しては噛み砕いて、また仕舞い込むという、思考動作を繰り返すということである

ここで重要になるのが、如何にして思考のネタを集めるのか?ということだ
正直なところ、インプットはなんでも良いと思っている
テレビの情報番組や、映画も良いし、旅行やテーマパークなど日常とはかけ離れた体験も、ネタの宝庫だと思っている
ただ、やはりというか、お手軽にネタを仕入れるという点では、読書が一番かなと思う

19世紀の政治家ビスクマルクは、「賢者は歴史から学び、愚者は経験からしか学ばない」と述べたと言われている
この言葉だけだと、今一つ分かりづらい(前半と後半の対比が合っていない)ので、この言葉を以下のように定義し直す

賢者は他人の経験からも学ぶことができるが、愚者は自分の経験からしか学ばない

ここで述べる他人の経験(含む他人の価値観、他人の考え)を得るために、書籍を読むということが重要なのだと思う
しかし、本を読むのはかなり時間が必要だし、いちいち書籍を購入していたら費用も馬鹿にならない
そのため、黒柴は、月に1~2回ほど大型書店に足を運んで、いろいろな分野のフロアで平積みになっている本を、一通り眺める
眺めた結果、ピンとくるものが合ったら、とりあえず手に取って目次を読み、気になった箇所を斜め読みする
思考するためのネタ集めとしては、この程度でも十分であり、さらに気になるようなら、その書籍を購入することもあるが、それは月に1冊あるかないかである

そして、集めたネタを元に、週末に散歩しながら黒柴は「思考する牛」となる

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