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正直な気持ちを言葉にしてみる

少し前に、X(Twitter)のアカウントを消しました。
そこそこひどい鬱と忙しさで、フェミニズムに心底嫌気がさしたことが大きいです。

私は、自分のフェミニズム活動や頭のおかしなフェミニズム批判を、「奉仕活動の便初掃除」「公道近くの臭くて汚いどぶさらい」くらいの気持ちでやっていました。


自分の身を削って時間を費やしてもメリットなんてそもそもない。

ただ、忖度して自己利益のためだけに生きている奴らが嫌い。

権威主義が嫌い。

事実に基づかない思い込みによる女性差別が嫌いで、平等と自由が好き。

自己保身のダンマリ、責任を引き受けず社会や周りのせいにする、被害者意識による受動攻撃、事実から目を背けている奴らが気に入らないし、そういうものは結局女性の権利を阻む反フェミニズム的なものだと思っているからフェミニストをやっていたのだと思います。

扇状的なストーリーで共感や連帯感を煽る仕草は吐き気がするほど苦手で、事実ベースで物事を判断することにしか興味がないし、忖度やお友達ごっこもできない性格。まあ、私が問題のある性格なのは事実でしょう

ひとつ弁明すると、私は基本個人主義者だけれど、誰かと共同で何かをすること自体は嫌いではないし、チームワークの重要性や有益性も知っているつもりです。一人で獲得できる成果より、信頼できる人たちと適宜連携してアイデアや意見を出し合ってブラッシュアップさせたほうが最終的に大きな成果になることは身をもって知っています。

人と協力することは、最終的な成果を大きくするだけでなく、個人の負荷や損耗も軽減できるので、ものごとを進めるうえでは一人よりも信頼できる仲間がいたほうが良いというのは基本的には事実だと思います。

ただ、私がフェミニズムでそれをやらない、できない、やろうとしなかった理由は、フェミニズムで頭がおかしくなる人が多すぎるため、下手に友達をつくることすらリスクだと思っていたところが大きいです。
共感ベースで傷を舐め合い利権を分け合う「お仲間」は当然ながらいらないですし、尊敬できる人や信頼できるフェミニストを見つけることもできなかった(あまり積極的に見つけようともしなかった)。
それはまあ、鬱になった一因だと思っています。

個であることの負荷や損耗に対する脆弱性と、頭のおかしな奴に背中を刺されるリスクを天秤にかけたとき、前者をとる選択肢しか考えられなかったし、未だに考えられないことは、私の弱さでしょう。

まあ、個であることは負荷や損耗に対する脆弱性というデメリット以上に、しがらみのない自由という圧倒的なメリットを持っていますし、自由は責任と孤独が伴うものなので仕方ないのですが。


染色体不問のオリンピック然り、世の中は事実よりも社会正義とセットになった利権がお好きなようで、道徳的優位性は他者を恫喝する道具に成り下がっています。
世の中は本当に汚くていけ好かないものですね。

何よりも、そんなどうしようもないクソッタレな事象をどうにもできない自分自身の無力さ加減に腹が立ち、呆れ、嫌で嫌で仕方がなくなって、気づけば鬱になっていたのですからどうしようもありません。

圧倒的なクソを蹴散らす気持ちが戻ってきたらまた何か書くかもしれませんし、クソに飲み込まれてこのまま消えるかもしれません。

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シバエリ
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