「搾乳動画」にまつわるエトセトラ
少し前の話ですが、とある記事を見て、非常に考えさせられました。
最近YouTubeに雨後の筍のようにアップされている「搾乳動画」についての記事で、「搾乳動画」は「性教育コンテンツ」の体裁を取っているが実際には「ポルノコンテンツ」としての機能を持つと紹介。YouTubeに規約違反の問い合わせを行うとポリシー違反で削除されたと報告した上で、似たような動画は無数にあるので厳しく取り締まってもらいたいと述べるNEWSポストセブンの記事です。
「搾乳動画」ってなあに?
そもそも「搾乳動画」ってなあに?という心がきれいな方のために説明します。
「搾乳動画」とは、搾乳器の使い方を口頭で説明しながら実演するもので、搾乳器の使用前後や搾乳中、直接あるいは搾乳器越しにちらっと乳首が見えるところがポイントです。
出演するのは授乳期間ではない若い女性がほとんどですが、実際に母乳が出る女性や熟女などさまざまな女性が参入しています。
「搾乳動画」の再生回数やチャンネル登録者数の増加はすさまじく、1,500万回以上再生されているもの、チャンネル開設から1週間もしないうちに登録者数が20万人を超えるものもあります。
成人向けコンテンツを扱う個人や会社が、他の収益化可能なサイトやプライベートSNSの導線として投稿していると考えられ、AIのディープフェイクで顔をかなり修正しているであろうものも多いです。再生数稼ぎだけでなく、身バレ防止の目的もあるのでしょう。
私が気になったのは主に2点、
「コンプライアンス」と「包括的性教育」の脱法的な隙間を突いた搾乳動画というコンテンツの発想力
多数の「搾乳動画」がアップされることに「危機感」を感じる、「搾乳動画」が削除されて欲しいという主張の背景にあるもの
順にまとめたいと思います。
「コンプライアンス」と「包括的性教育」の脱法的な隙間を突いた搾乳動画というコンテンツの発想力
1点目に関しては、
本当に発想力の面白さ、ついでに再生数の多さから否応なくわかるエロの強さにただただ爆笑してしまいました。
そもそもの話ですが、
YouTubeはアダルトコンテンツに厳しく、コミュニティガイドラインは、性的満足を与えることを意図した露骨なコンテンツを禁止するポリシーを設けています。
Google A Iの判定により男性の乳首でも動画が削除される可能性があるためか、 近年のYouTubeでは江頭2:50など男性芸人も乳首を隠すようになっています。男女問わず乳首が映った映像は性的コンテンツ、乳首は性的な器官であると判定されうる状況のようです。
その一方で、性教育や一部の芸術作品、特定の民族の文化や歴史的な価値など、エロ以外を主たる目的とし、必要性や文脈が明確である場合に限り「性的満足を与えることを意図した露骨なコンテンツではない」と判断され、例外として許可されています。
近年では、「性教育は人権教育」という価値観の包括的性教育を啓蒙し、学校教育に取り入れるべきとする動きもあるため、その流れも汲んでいるのかもしれません。
ある種のリベラルな人たちは、「性教育はエロではない、性教育は人権教育だ」と主張しがちですが、個人的には性の問題から猥雑さを漂白することはできないと思っています。
私が気になるのはむしろ、性が持つ猥雑さを否認する潔癖症的な性教育の背景にあるものです。
言語の前にある欲望、周縁化されたものの再帰
エロやオカルトには、それ自体が近代社会や近代家族が周縁化する、アンコントローラブルで動物的な欲求という面があり、だからこそ、過剰にコントロールしたい欲望を持った人間たちも湧きます。
やや唐突ですが、人間と動物を大きく分けるものの一つに言語の有無があります。
社会構築主義者は人間の社会を言語の後に存在するものとして捉え、言語は支配と従属の「ヒエラルキー」を作り出し、社会集団の間の権力関係を固定すると考えます。
近年一部のフェミニストが言葉狩りのように「ステレオタイプの脅威」を説き、特定の表現にクレームをつけることを「ジェンダー平等の達成」の役に立つと主張する背景にある価値観も、この社会構築主義と言語中心主義のようなものの産物です。
一部のフェミニストにエロが嫌われるのは、エロが非論理的で言語化できない、言語の前からある人間の動物としての欲望であり、その欲望は社会構築主義の価値観の根幹を破壊するからです(もちろん、持たざるものの単純なコンプレックスなどもあるでしょうが)。
YouTubeに大量投稿される「搾乳動画」が痛快なのは、
「性教育はエロではない、性教育は人権教育」という包括的性教育の思想を逆手に取った、隙間産業的でたくましい商魂の清々しさ
「エロ」という近代社会や近代家族が周縁化するものが、「教育」という社会規範の皮を被って再帰する形になっていること
なにより、
「搾乳動画」はエロと性教育を重複なく分けることは不可能であるという事実を突きつけること
にあります。
多数の「搾乳動画」がアップされることに「危機感」を感じる、「搾乳動画」が削除されて欲しいという主張の背景にあるもの
2点目に関して、
NEWSポストセブンの記事の内容、YouTubeに多数の「搾乳動画」がアップされることに「危機感」を感じ、「搾乳動画」の取り締まり強化を望むことについて考えたいと思います。
NEWSポストセブンの取材班は、わざわざYouTubeに規約違反にならないのか問い合わせを行い、ヌードや性的なコンテンツに関するポリシー違反で削除されたことを報告。似たような動画はまだまだ無数にYouTube上にあるので厳しく取り締まってもらいたいと主張します。
また、この記事の中でライターの河合桃子氏は、「搾乳動画」を「これらの動画は視聴者の性的満足を目的とし、収益を得るために作られている可能性が高い」としたうえで、「『教育的なコンテンツ』を装って、搾乳という女性にとってデリケートな行為を性的に消費している動画が多数出回っていることに、危機感を感じます」と主張します。
「搾乳動画」に被害者はいるのか?
しかし、「搾乳動画」に被害者はいないはずです。
搾乳動画がなんだかエッチだとしても、具体的な個人の名誉を毀損する行為や誹謗中傷する行為には当たりません。
若い女性や授乳期間中の女性が連れ去られ無理やり搾乳動画を撮影させられているような状況でも、リベンジポルノでもなさそうです。
「不快だ」という意見が出るのはわからなくもないのですが、「被害」ということは不可能ですし、「危機感」を抱くようなものでもないように思います。
「搾乳動画」はエロと性教育を重複なく分けることは不可能であるという事実を突きつけると先ほど述べましたが、それはつまり、「エロい=性教育でない」とはいえないということでもあります。
仮に、子供がなんだかエッチな搾乳動画を性教育動画と間違えて見てしまったとしても、一定の教育的な価値を提供していることに変わりありません。
ライターの河合桃子氏が、YouTubeで搾乳動画が多数出回ることによってどのような「危機」が訪れると考えているのかは、記載がないのでわかりません。
なので今回は、「イメージの毀損」「動物であることへの忌避感」という2つの補助線から類推・想像したいと思います。
「女」というイメージの毀損
私は社会構築主義者ではないですし、共感能力が低くそこそこアスペ傾向も強いので、ある集団に対するステレオタイプなイメージが自分の個性と置き換えられ自尊心を失うという社会構築主義フェミニストの恐怖や屈辱の感覚は理解しがたいのですが、このような社会構築主義フェミニストの考え方に即せば、
ことを想定し、不快・不安を覚える、ということになるでしょう。
ステレオタイプ批判とブランディングの親和性
人間は論理的であるより情動的です。
人間の記憶は情報と情報をつなぐ結節の集合体であり、ある情報にリンクする情報のネットワークを任意に構築することができれば想起されるイメージも変わる。というのはブランディング的な発想であるとは思いますが、「搾乳動画」に危機を感じたり削除を願うことから導かれるのは、「搾乳動画」は「妊婦」「産婦」というイメージを毀損するという前提があるということです。そのため、まず、「搾乳動画」が「妊婦」「産婦」など特定の属性を貶めるものか否かを審議する必要が出てきます。
個人的には「女」というイメージも、「妊婦」「産婦」というイメージも、多様なものを包摂しており、「搾乳動画」が「妊婦」「産婦」など特定の属性を貶めるとはいえないと考えますが、「搾乳動画」に危機を感じ、積極的に削除を求める人たちはそうは考えないのでしょう。
それにしても、ある種の「ステレオタイプ批判」と「ブランディング」が結果的に同じ手法を取ることには、逆説的に、フェミニストが最も「女の動産的価値」に重きを置くような皮肉を感じてしまいます。
人間と動物の間で
先程私はYouTubeに大量投稿される「搾乳動画」の痛快さとして、「エロ」という近代社会や近代家族が周縁化するものが、「教育」という社会規範の皮を被って再帰する形になっていることをあげました。
「搾乳動画」への危機感、積極的に削除を求める行動の背景にあるのは、もしかしたら、「エロ」と目されることによって社会の秩序から周縁化されてしまうという恐怖なのかもしれません。
搾乳がそこはかとなくエロい行為として捉えられる、搾乳する人がそこはかとなくエロい存在と認識されることで、自らが否認する「近代社会や近代家族が周縁化するエロ」が再帰し、近代社会市民としての自己コントロール能力を剥奪されたような無力感を感じる、という構造です。
エロと性教育を重複なく分けることは不可能で、人間という動物から動物的な欲望を漂白し、構築しなおすことも不可能です。
しかし、哺乳類、人間という動物が「人間」と「動物」の間で引き裂かれるモラトリアムを発症する事例は後をたたないようです。