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#MeToo時代の情報リテラシー 〜「連帯バカ」にならないために〜

伊藤詩織さん、李琴峰さんが、裁判資料の目的外使用で話題になっています。

伊藤詩織さんは初監督映画『Black Box Diaries』において、「裁判以外の場では一切使用しない」と誓約した映像や音声を活用しているとして、元代理人の西廣陽子弁護士らに映画の内容変更を求められました。

李琴峰さんは11月20日の「トランスジェンダー追悼の日」に、「李琴峰「トランスジェンダー追悼の日」アウティングされ声明」という記事をnoteで発表し、これが裁判で知り得た係争相手の個人情報を拡散していると話題になりました。


#MeTooと手続き的正義の問題

10月21日、ジャーナリスト・伊藤詩織さんの元代理人らが伊藤さんの初監督映画『Black Box Diaries』の内容変更を求めていることがわかりました。

元代理人の西廣陽子弁護士によると、映画に「裁判以外の場では一切使用しない」と誓約したうえで提供されたホテルの防犯カメラ映像や、タクシー運転手の姿や証言、捜査に関わった刑事や弁護士らとの会話が無断で使われているということです。
それが事実であれば、裁判資料の目的外利用であり、取材源の秘匿が守られていないという人権上の問題や、ジャーナリストの職業倫理的な問題があることになります。

『Black Box Diaries』は日本での上映は未定であるものの、国際的に注目を集めています。
世界各国の映画祭に出品され、ブリュッセルの欧州議会庁舎で一部の欧州議員が出席して先行上映も行われています。

東京新聞の記事での伊藤詩織さんの主張は、

  • 刑事や西広弁護士との音声は「声は変えた」

  • 西広弁護士とは撮影の承諾書を取り「米国と日本でのリーガルチェック(法務確認)は受け通っている」

  • 刑事とは連絡が取れず

  • タクシー運転手については「実家とも連絡が取れず、亡くなったのでは」

というもので、読んだ瞬間思わず「運転手を勝手に殺すな!」とツッコミを入れてしまいました。
「連絡が取れない」という刑事やタクシー運転手に対して、どのような手段で連絡を取ったのかはわかりませんが、肖像権やプライバシー権を持つ相手に対して「亡くなったのでは」と一方的に判断し、無断で姿や証言を公開することは、他者の尊厳を踏みにじる行いではないでしょうか

大前提として、監視カメラにはたくさんの人の個人情報が映っています。ホテルの監視カメラですから、他の宿泊客のプライバシーも記録されています。
営利施設が性暴力被害者の裁判のために映像や音声を提供するということは、他の宿泊客のプライバシーやホテルとしての信用と性暴力被害者の無念を天秤にかけたうえで、被害者に協力してもらえたものと考えるのが妥当です。
性暴力は被害にあった人の心理的負荷も大きいだけでなく、立証しにくい犯罪ですから、たくさんの人や施設の協力が必要になります。

しかし、「裁判以外の使用はしない」というと誓約が反故にされるような事例が続けば、今後性暴力被害者のために監視カメラ映像などを提供してくれる施設が減る可能性があります。
信用を毀損することが容易に考えられる相手に、職業倫理として守るべき情報を預ける判断はできないでしょう。

私は以前から、

  • #MeTooは、その構造からして手続き的正義が遂行されていない。

  • 「加害者」と疑われた人は、裁判など正規の手続きを踏むことなく、デマや虚言によって名誉を貶められることがある。

と#MeTooを批判していましたが、それによって自称フェミニストや自称リベラルの人たちから攻撃されることはあれど、まともな主張として受け入れられることはありませんでした。
手続き的正義を忘却することによって、「加害者」と目される人以外までも権利が侵害されるという事態は、#MeTooを無批判に信用する社会において、起こるべくして起こった人災であるように思います。

裁判で負けた相手の個人情報をばらまくことは連帯すべき「正義」なのか?

11月20日、芥川賞作家の李琴峰さんが「李琴峰「トランスジェンダー追悼の日」アウティングされ声明」という記事をnoteで発表しました。※
(※注:現在noteでは運営により記事削除されたようで、読むことができませんが、李さんのFacebookと公式サイトでは読むことができます。)

この記事では情報の拡散や裁判のカンパなどを求める一方で、訴訟相手の実名や居住地が記載されています。
裁判で知り得た個人情報を相手の許可無くインターネット上に公開することは「ドキシング」といわれるサイバー攻撃の一種です。

また、李さんがnoteで声明を発した同日には、李さん含む小説家51名が「LGBTQ+差別反対声明」を発表したことも話題になりました。

この声明には「すでに社会的に弱い立場に立たされている人々に対し、文学がその生の可能性を狭め、差別や抑圧、排除に加担することはあってはならないと、私たちは信じています。」とありますが、連名し連帯を表明した50名の作家の方たちから、李さんのドキシング行為に対する声はあがりません。

李さん個人の声明と51名の小説家による「LGBTQ+差別に反対する小説家の声明」は異なるものなのだから無関係だ、という主張も見えません。

李さんは「LGBTQ+差別に反対する小説家の声明」の中心人物の一人ですし、小説家の声明ではトランスジェンダー含むLGBTQ+の人々に「連帯と支持」を表明しています。
ですから、トランスジェンダーであることをアウティングされたことを表明した「李琴峰「トランスジェンダー追悼の日」アウティングされ声明」と「LGBTQ+差別に反対する小説家の声明」、この2つの声明をまったく無関係であると言い切ることは難しいでしょう、
しかし、50名の作家たちや「LGBTQ+差別に反対する小説家の声明」のアカウントからも李さんのドキシング行為に関するアクションはありません。

文学は、ときに差別や抑圧、排除といった人間の暗い一面を描くこともあります。しかし、すでに社会的に弱い立場に立たされている人々に対し、文学がその生の可能性を狭め、差別や抑圧、排除に加担することはあってはならないと、私たちは信じています。文学がLGBTQ+を含むすべての人に開かれたものになるよう、私たちは文芸業界、出版業界、及び同業者に理解と協力を求めます。
私たちは差別に加担しない文学環境を望みます。

LGBTQ+差別に反対する小説家の声明

「すでに社会的に弱い立場に立たされている人々に対し、文学がその生の可能性を狭め、差別や抑圧、排除に加担することはあってはならない」という言葉は、自分たちが連帯を表明する相手にだけ発揮されるものなのでしょうか。
李さんが係争相手の個人情報を拡散すること、それを知っても沈黙したまま連帯することは、差別や抑圧、排除に加担することにはあたらないのか。
個人的には法や権利は俗情と切り離して考えるべきだと考えますが、李さんに連帯した作家の方たちは、法や権利をどのように考えているのでしょう。

毎日新聞の記事によれば、山内マリコさんは
「『#MeToo』運動の広がりなどで、社会課題に対して声を上げることが重要な時代になった。声明でその輪を広げることで、差別のある世の中に抵抗できたら」
と話しているようですが、社会課題に対して声を上げる過程で不確定な加害エピソードや個人情報が拡散されることについてはどう考えているのでしょうか。

「連帯者」としての責任

伊藤さんや李さんの行動は、自分の主張の正当性を訴えるため、それによって賛同を得たいために、他者の権利を侵害し無断で情報を公開することです。

なにかの事例で「被害者」になったからといって、自分以外の人の権利を蔑ろにしてはいけません。
それは道徳や感情次元の問題ではなく、法と権利の問題としてです。
加害者にも権利はあるし、被害にあったからといって他者の権利を侵害する権利は与えられません。
「被害者」であるという立場に甘えて他者の権利を踏みにじる自由は、他の人の人権と衝突します。

これは、「被害者だ」と名乗り出た人の問題であると同時に、彼彼女らと「連帯する」と簡単に表明する人たちの問題でもあります。
他者への想像力がない人、他者にも権利があるということを想像できない状態の人を無批判に祭りあげることは、基本的に無責任なことです。
また、連帯するだけで責任は負わない、問題があるときは黙ってやり過ごすというスタンスは、はっきり言ってフリーライドに近いです。

「被害者」に共感して「加害者」を裁く権利を得たような気分になる。
なんだか正義っぽいものにフリーライドすることは、さぞお気持ちが良いのかもしれませんが、脳みその風通しは良くても、社会の風通しは最悪になりそうです。

一次情報にも当たらず、「かわいそう」「許せない」と、情動にまかせるまま「共感」や「連帯」をする前に、「意見」と「事実」を切り分け、「事実」に対して誠実になり、情報リテラシーを育むべきであると思いますし、そうでなければ「被害者を担いで鉄砲玉にする」以外の「連帯」の形は取れないままでしょう。

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シバエリ
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