甘ったれの自己顕示と政治化する医療の間で ―『トランスジェンダーになりたい少女たち』感想
遅ればせながら、アメリカのジャーナリスト、アビゲイル・シュライアーの『トランスジェンダーになりたい少女たちSNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』を読んだ感想をまとめたいと思い記事を書くことにしました。
この本は昨年12月に角川から『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』というタイトルで出版される予定でしたが、告知された際、「トランスジェンダー当事者に対する差別を扇動する」という抗議の声があがり出版見合わせになりました。
その後、今年4月に産経新聞出版から『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』として出版された際には、「トランスジェンダー当事者に対する差別を扇動する」という抗議に加え、産経新聞出版や複数の書店に「取り扱い書店への放火を予告する脅迫メール」が届き、大手書店を中心に予約や取り扱いが中止となりました。
6月の現在においても、丸善ジュンク堂のデータベースhontoでは書籍データが抹消されており、紀伊國屋書店でもオンライン店舗とも在庫がなく注文もできない状態になっています。(参考:版元ドットコム)
ヨドバシやTUTAYAオンラインなど、初動で取り扱い中止されていたものの現在は購入可能になっている書店もありますが、HMVではなぜか18禁本扱いになっているなど、よくわからない対応になっている書店もあります(思春期の「トランスジェンダー」について書かれた本なのに思春期が読めないようにするのは意味がわかりません)。
『トランスジェンダーになりたい少女たち』本の感想
まず、個人的にこの本の主張のキモであると感じるのは、
過保護で甘やかされて育った上位中産階級白人の少女たち特有の思春期問題
本来医療やメンタルヘルスの問題として論じられるべき領域が政治的問題となることの問題
政治的問題が教育問題となることと、モラトリアム期のアイデンティティ問題
の3点です。
また、この本がヒットする、あるいは焚書の対象になる背景には、
欧米の子供へのトランス医療二極化の問題
GID型とアンブレラ型のトランスジェンダーの利益対立
という2つの対立問題もあるかと思いました。
〈欧米の子供へのトランス医療二極化の問題〉とは、
子供への思春期ブロッカー投与やホルモン投与、手術推進にストップをかけるイギリスやスウェーデンなどヨーロッパと、州ごとにアクセルとブレーキが異なり、双方に宗教や政治の影響と対立が見えるアメリカ、子供へのトランス医療に関しては欧米で二極化しています。
シュライアーが批判するのは、子供への思春期ブロッカー投与やホルモン投与、手術を推進するアメリカのリベラルな医療および教育や政治、サブカルチャーです。
〈GID型とアンブレラ型のトランスジェンダーの利益対立〉とは、
①性別違和を継続的に持ち続け、ホルモンや手術により異なる性に近い外観に移行・維持し、移行した外観の性に埋没して生きようとする「性同一性障害(GID)」的なトランスジェンダーと、②性の二元性に対して違和を持つノンバイナリーや「自認する性」に一貫性や継続性を持たないジェンダーフルイドなども包摂する、国連も採用するアンブレラタームとしてのトランスジェンダーでは、求める医療の傾向や、望む制度のあり方が異なります。
「性自認」との向き合い方や社会でどのように受け入れられたいかも異なるため、当事者同士で対立することがあります。日本の性同一性障害特例法に関する反応でもこの傾向は見受けられます。
〈1〉過保護で甘やかされて育った上位中産階級白人の少女たち特有の思春期問題
まず、この本を読み最初に抱いた感想は、「思春期の少女の性」というコンテンツは国や政治思想問わず圧倒的なのだなというものでした。
この本は、一部の活動家からは「トランスジェンダー当事者への差別を扇動する」と批判されていましたが、内容を読む限り、GID(性同一性障害)的なトランスジェンダー当事者を差別するものではありませんでした(アンブレラ型のトランスジェンダーに関しては、個人的には範囲が広く実質的な定義が不可能と感じるためなんともいえないというのが正直なところです)。
この本で紹介されている「トランスジェンダーになりたい少女たち」とは、近年欧米で急増した10代の少女たちであり、そうした少女の家族への取材(約50家族約200人)によって、米国の社会状況と医療の実態が論じられています。
この本で紹介されている事例を読む限りでは、近年米国で急増した「トランスジェンダーになりたい少女たち」は、性的マイノリティでいる事、トランスジェンダーを自認することが進歩的なアイデンティティの顕示になっている上位中産階級の白人少女たちであり、過保護で甘やかされて育った子供の反抗期か、「性自認」の問題に加えて双極性障害や自閉スペクトラム症、摂食障害など他に精神疾患やメンタルヘルスの問題を抱えている状態の子供のように見えます。
また、シュライアーの「思春期の少女の性を守りたい」というような保護者の視点や、(自らをトランスジェンダーだという)少女たちにできることとして挙げている「子供にスマホを持たせない」「引っ越しする」などをはじめとしたパターナルで保守的な「対策」には毒親っぽさとともに嫌悪感を抱きます。
それらを踏まえても、「トランスジェンダーになりたい少女たち」は社会問題としてそこまで騒がれるべきことなのか?と疑問を感じました。
正直、美容整形にのめり込む若者と同じようにも見えますし、自己決定による選択の結果に責任が伴うと考えれば、思春期に急に「トランスジェンダーになりたい」と言い始める少女たちの選択の責任は彼女たちにあるとしか言えません。
社会やインターネットコンテンツやインフルエンサーのせいにする前に、若い世代の情緒面の成熟度が低下しておりZ世代の18歳は情緒面の成熟度はX世代の15歳と同程度だと嘆く前に、スマホを取り上げて娘の交友関係を強制的にリセットさせる前に、周りからの影響を受けやすい少女に「責任能力」について建設的に教えることが親の役目ではないかと思い、読んでいてとてもげんなりしました。
しかし、思春期に急に「トランスジェンダーになりたい」と言い始める少女たちに双極性障害や自閉スペクトラム症、摂食障害など他に精神疾患やメンタルヘルスの問題を抱えている場合が多いということに関しては、ただ患者の発言を「肯定」するだけではなく、適切な医療ケアが必要であるとも思いました。
また、「リベラル」な学校教育が生徒の「性自認」だけを尊重し、ただ患者の発言を「肯定」するだけの医療と連携して、精神疾患やメンタルヘルスの問題といった「性自認」以外の問題にタッチしないまま、オバマケアによって安価になったホルモン治療や手術が勧められてしまうというという状況があったというのなら、それが問題になるのは当たり前だとも思いました。
〈2〉本来医療やメンタルヘルスの問題として論じられるべき領域が政治的問題となることの問題
この本の主張として最もアクチュアルだと思ったのは、医療の問題が政治の問題にスライドすることによって起きる医療の弊害についてでした。
シュライアーによれば、現在米国心理学会が患者に対するケアガイドラインとして設けている「ジェンダー肯定ケア」は、実態として、精神科医が思いやりや共感を超え患者の主張をそのまま認めなければならないような状態になっているようです(なお、イギリスやスウェーデンなどでは「ジェンダー肯定ケア」の見直しが始まっているそうです)。
ホルモン治療や思春期抑制剤の副作用やデメリット、性別移行は長期継続が必要になることは、当事者に十分に伝えられるべきでしょうし、子供が「性自認」以外の問題、特に双極性障害や自閉スペクトラム症、摂食障害など精神疾患やメンタルヘルスの問題も抱えているなら、「ジェンダーを肯定する」以外の医療やケア、サポートも必要になるでしょう。
少なくとも、「生物学よりポリティカル・コレクトネスに導かれたガイドラインが患者にとって最善なのかどうかは疑問を抱く価値があるだろう。」という彼女の主張が「ヘイト」であるとは思えませんでした。
性別違和を精神疾患で治療すべき精神の不調と捉えたり、「ジェンダー肯定ケア」を批判する医師や研究者が仕事を奪われたり免許を剥奪される。
当事者の主張を肯定しなければ「差別」「ヘイト」とされる政治化した医療によって医療水準に低下が起こっているなら、必要なのはキャンセルではなく医療のあり方についての議論でしょう。
監訳者で精神科医である岩波明氏の「DSMにおける診断名や診断基準の内容が純粋な医学的なデータというよりも、社会的、政治的な要因に影響されることが見られている。」という言葉もとても重いです。
この本が日本での出版において理不尽な出版見合わせや卑劣な脅迫の対象となり、未だに大型書店での流通がおかしなことになっていることそのものが、医療やメンタルヘルスの問題として論じられるべき領域が政治的問題となることの問題、学ぶことや議論することと恫喝的なアクティヴィズムの相性の悪さを象徴しているようにも思えます。
〈3〉政治的問題が教育問題となることと、モラトリアム期のアイデンティティ問題
この本の中で頻出する「思春期の少女の性を守りたい」という保護者の視点や反応には辟易しましたが、トランスジェンダーやLGBTの問題が政治的に重要なイシューとなっているアメリカのリベラルな学校の状況に対しては、少しだけ同情しました。
学校のゲイ・ストレート・アライアンス(セクシャル・マイノリティへの理解を進めるためのクラブ)が進歩的なアイデンティティの顕示になっているという状況そのものが、「差別反対」の主張がある種のマウンティングや自慢の種になっているという現代社会の歪な問題であるとも思います。
加えて、子供が親に打ち明けずに学校の中では別の性や名前で過ごし、出生児の名前で呼ぶことを「デッドネーミング」、誤った人称代名詞でその人を指す事を「ミスジェンダリング」といったようにハラスメントや虐待として扱われることは、社会的性別移行において必要とされる社会の関与(当事者以外のコスト)がけっこう大きなものであることを実感させられます。
社会的性別移行は社会における活動であり、他者の承認が必要になる。
他者に寛容になるべきということは理解できますが、求められる承認のレベルが高すぎるというか、前述した医療の問題含め、当事者が気に入らない発言はすべて「差別」「ヘイト」となってしまうような状況には違和感を持ってしまいます。
「自認」の性に移行してからどのように生きたいのか。トランスであることを周りに気づかれず「埋没」して生活したいのか、トランスであることをアイデンティティにしたいのかでも必要なケアやサポートは変わるでしょう。
「性自認」と言いますが、他者が存在する以上、「自認の性」は自己と他者の相互作用により受け止められ方が変化するものなので、「アライもそれ以外も、当事者の主張をすべて肯定する」というコミュニケーションモデルでは人間関係が破綻するのではないでしょうか。
現代は、アイデンティティが商品化された時代です。生産すれば売れる時代が終わり、生産者はありあまる製品の中で消費者にものを買わせる手段として「社会的欲求」や「承認欲求」、「自己実現欲求」を刺激することが常態化しました。
進歩的なアイデンティティの顕示としてトランスジェンダーであることを選択することも、自己肯定感を上げるために美容整形を繰り返すことも、アイデンティティの商品化としての医療の問題を含んでいますが、前者は政治と差別の問題、後者は消費社会と社会における美の脅迫の問題としてばかり語られます。
上記の差異が生まれる原因のひとつには、公的な「教育の問題」に包摂されているか否かがあるかもしれません。
アイデンティティの商品化としての医療が公的な「教育の問題」に包摂されること。また、政治的問題とイコールになった「教育の問題」によって、若者の医療とメンタルヘルスの問題がなおざりにされる状況があるのであれば、まずは教育のあり方を解きほぐす必要があるでしょう。
これは日本が「包括的性教育」を導入する過程でも注意すべきポイントであるように思います。
アイデンティティの危機問題としての学生運動や新左翼運動との親和性も改めて考えてみる必要があるかもしれません。
ただ、『トランスジェンダーになりたい少女たち』は、「親から見た視点」が強く、子供当事者の視点や親子関係の問題が不足(親の調査では、教育的虐待や経済的虐待、性的虐待などがあったとしても正確に反映されることはないでしょう)していることは否めませんでした。
なので、日本の現状の医療や法制度の問題と比較するため、
周司あきら、高井ゆとり『トランスジェンダー入門』
高井ゆとり編『トランスジェンダーと性別変更 これまでとこれから』
を読んだ感想もまとめていきたいと思います。
最後まで読んでくださりどうもありがとうございます。
頂いたサポートは、参考文献や資料購入にあてたいと思います。
『トランスジェンダーになりたい少女たち』も、『トランスジェンダー入門』『トランスジェンダーと性別変更 これまでとこれから』も「かわいそうでなんとかしようとする」きらいが強いし、定義とかゆるふわでよくわからんかったぞ?というところで読むのにけっこう時間がかかったので、
スキ・シェア・サポートなどで応援していただけると喜びます。