見出し画像

死の臭い

かれこれ20年近く憂鬱な気分に支配されているプロメンヘラ(なんて不名誉な称号!)の私だが、この常に付きまとうこの鬱屈感の正体が「死臭」と言われると、妙に腑に落ちる感覚がする。
思えば、思春期以降はいつも身近に「死」があった気がする。
それこそ、すぐ手を伸ばせば届く位置に。

それは私にとってはごく当たり前の状態だったが、どうやら健常な精神の人間にとってはその感覚が理解しがたいものであるらしい。
これまでは「まあ理解してくれる人だけ理解してくれればいいし?」というスタンスで生きてきたが、超メンタル健康優良児の夫と結婚したからには、多少は己の状況を言語化する努力も必要である。

そこで、私はあえてこの漂う死臭の原因を探ってみようと思う。
とはいえ、がっつり取り組むと致命傷を負いかねないので、今回はほんの入り口だけ。


私は1年前までカウンセリングに通っていて、そこで「自我状態療法」というものに取り組んでいた。

簡単に説明すると、トラウマ等心理的問題への治療法の一つであり、対象者の心の中にある感情的な自己(=パーツ)に働きかけることにより、表面化していない問題にアプローチするものである。
もしピンとこなければ、「脳内ポイズンベリー」の脳内会議を思い浮かべてほしい。自我状態療法は、この脳内にいるキャラクターへのアプローチだ。

自我状態療法を受けていたころの私には、実にたくさんのパーツが存在した。少年から大人のお姉さん、幼児まで年齢性別もバラバラだ。
彼らはびっくりするほどキャラクターが立っていて、私自身では到底思いつかないような言動をしてくれるのが非常に面白かった。

「いやいや、言うて自分の中にあるパーツなんだから所詮自分の想像の範囲内を出ないでしょ?」と思われるかもしれないが、彼らは本当に想像の斜め上をいく発言を平気でするのだ。これはきっと、自我状態療法を経験した人でないとわからないかもしれない。
漫画家や小説家が「キャラクターが勝手に動き出す」という表現をたまにしているときがあるが、ひょっとしたらこれはパーツが好き放題喋りだすのと通ずるものがあるのかもしれない。

治療を受けていた頃は、呼びかければいつでもパーツと対話することができた。
私はことあるごとにパーツたちに声をかけていたし、時には創作のヒントにもなり、この頃はいつも以上に筆が乗っていたようにも思う。
とにかく、あの頃の私にとってパーツたちは至極身近な存在だった。

最後にパーツに呼びかけたのは、一体いつだっただろうか。
ひょんなきっかけでカウンセリングに行かなくなり、そのうちパーツに呼びかけることも辞めてしまった。


謎の体調不良が続いている、今。
久しぶりにパーツたちに会いたくなって、私はかつてパーツたちが集まっていた部屋を訪れてみた。
階段を降り扉を開けた先には、いつものようにパーツたちが集まって好き勝手している、はずだった。

「おーい」
呼びかけても呼びかけても、そこに広がるのは絶対的な静寂。
ふと部屋の端に視界を向けると、そこにはかつてのパーツたちの残骸が、ひっそりと折り重なっていた。

なんとなく、そんな気はしていた。
いつからか、私の中から何かが消えた気配はしていた。

苦楽を共にしたパーツたちの残骸の山を目の当たりにしても、どこか他人事というか、実感を伴った悲しみが湧き上がってこないのが不思議だった。
ただの物体としてその残骸を見つめているような、そんな感じ。
きっと、心の防衛機能が働いているのだろう。

今、彼らの喪失を。
彼らをこの手で殺してしまった事実に向き合える程の気力体力は、生憎今の私に残っていなかった。


以前Twitterで「アダルトチルドレンは、親に殺された子供の頃の自分を背負いながら生きていて、その酷い死をどこかで受け止め弔いをしない限りいつまでも死の匂いを背負いながら生き続けることになる」といった趣旨の呟きを見つけた。
もしかしたら、これまでの私は気付かないうちに無数のパーツたちを見殺しにしていて、その死骸から漂う臭いが常に付きまとう鬱屈感の正体なのかもしれない。

葬り去ってきた「自己」への、弔い。
今の私はそんな人生の一大プロジェクトに取り組めるほどの余力はない、けれども。

それでも、積み上がった無数の死骸に一つ一つ向き合い、きちんと弔っていくことでしか、この死の臭いを浄化させていく方法はないのだと、切に思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?