忘れられない、10月22日14時06分
(2021年10月22日 記)
私の家には、5年前に亡くなった祖母から電話がかかってくる。
祖母の家から電話がかかってくると、私の家の電話機のディスプレイには、「バーバんち」と表示される。母がその電話に出ると、祖母と同じ家に暮らしている祖父や母の兄嫁たちの声がする。
80歳で他界した祖母は、癌の悪性リンパ腫の宣告を受けてから約12年生きた。私が20歳のとき、振袖の前撮りの帰りに着付けとヘアメイクをしたまま電車に乗って、がんセンターに晴れ姿を見せに行った数週間後。10月22日14時06分に、祖母は二度と戻らない世界旅行へと出かけた。
旅行が好きで、年中どこかの国へ行ってはお土産を買ってきてくれたり、その国で撮った写真を見せてくれたりした。行った国の国旗が描かれたピンバッジを集めるのが趣味で、たまにお裾分けをしてくれた。
祖母が永遠の世界旅行に出かけてから、祖父たちの家から電話がかかってくる度に「バーバんち」と表示され続けるディスプレイ。
ディスプレイに出る文字を変えるのはそんなに難しいことではない。けれど、母は変えない。電話機の操作が苦手な母ではあるが、セールスの電話を着信拒否にする設定は難なくこなすので、覚えれば簡単に変えられるはずだ。けれど、母は5年経った今でも表示を変えない。
祖母が他界して間もない頃は、「バーバんちって画面に出るからバーバからの電話だと思っちゃって。バーバじゃないって分かってるんだけど、どうしても一瞬思っちゃって。それで、ああ死んじゃったんだってなって、悲しくて」と、祖父たちの家から電話がかかってくる度に涙を流していた母。
生前、祖母からは「果物貰ったんだけど食べる?」といったたわいのない話から、「こんなこんなでさ、どうすればいいかな」といった相談事、「こんなことがあって」といった日常の出来事で聞いてほしいこと、「編み物で分からないところがあって」など、何かと頻繁に電話がかかってきていた。家事の手を止めて何時間も電話をしていた母の姿が今でも目に浮かぶ。
ディスプレイを見て涙するのならば、それならば、もう「ジージんち」とかに変えればいいのに、と当時の私は思っていた。
あれから5年。25歳になった私は、やっと分かるようになった。母は「変えるのが面倒で変えない」のではなくて、「変えたくないから変えない」のだ。
「バーバんち」というディスプレイの文字を見たいのだ。もう、バーバから電話がかかってくることは無いけれど。その電話に出ても祖父や兄嫁たちの声しか聞けないけれど。「バーバんち」に電話をかけても、バーバはもう出てくれないけれど。
祖母が亡くなったあとも、祖父の病院の付き添いの依頼や「これもらったんだけど要る?」など頻繁にかかってくる「バーバんち」からの電話。その電話をとる度に、母は必ずディスプレイをじっと見つめる。
母は、祖母と最期の言葉を交わすことが出来なかった。
最期の数日、モルヒネを投与され、意識が混濁し、うわごとを繰り返すようになった祖母。祖母のことが気がかりで何日もほとんど寝ていなかった母。そんな母は父に連れられて「一回帰ってちょっとだけ寝てくる」と言って、当時20歳だった私と23歳だった兄を病室に残して帰って行った。
二人が帰ってから数十分後のことだった。それまで言葉にならないうわごとだけを口にしていた祖母が、突然しっかりと目を開けて、私と兄の顔を見て「あれ?お母さんは?ゆかちゃんは?」と喋った。ゆかちゃんとは、私の母のあだ名である。「ちょっとだけ寝てくるって一回帰ったよ」と私は答えた。祖母は「そう」と、穏やかに微笑みながら返事をした。母がいたことに気づいていたんだ、私と兄がいることに気づいていたんだと衝撃だった。
それからだった。
それから数時間の間ずっと、祖母は酸素マスクを外したがり、座る力が残っていないのに座りたいとベッドの上で暴れた。ほとんど力は残っていないはずなのに、全力で押さえてやっと押さえられるくらいの物凄く強い力だった。私と兄と看護師の三人がかりで押さえつけた。ごめんね、と私は聞こえているのかもう分からない祖母に向かって泣きながら何度も謝った。「なんで意地悪するの?」と泣きながら問う祖母の声が、今でもずっと耳から離れない。
父と母が数時間後に戻って来ても、親戚たちが集まって来ても、もう喋ることは無かった。うわごとを繰り返し、夢を見ているような穏やかな様子だった。最後のモルヒネが投与されてから少し経って、祖母はただ眠っているだけのように、静かに息を引き取った。
今日も「バーバんち」から電話があった。祖母は亡くなったけれど、電話機のディスプレイの表示に「バーバんち」と表示が出る限り、そこに生きている。生き続けている。
(2023年10月22日 記)
今年の春、親戚たちと集まって屋形船で花見をした。カラオケのついている屋形船で、歌いたい人は各々好きな曲を歌っていた。
母は普段、そういう場で歌う人ではないけれど、美空ひばりの「川の流れのように」と「愛燦燦と」をデンモクで入れた。
親戚たちは「いや!美空ひばりは難しいよ?!」「美空ひばりはよっぽど上手くないと歌えないよ?」と言っていたが、私には母が美空ひばりを歌いたい理由が分かった。
美空ひばりは祖母の大好きな歌手だった。祖母がまだ元気に出歩けていた頃、祖母と出かけた先にたまたま美空ひばり館があって、2人で一緒にそこに入ったこともあるほど、祖母は美空ひばりの大ファンだった。
27年生きてきて、母が真剣に歌う姿を初めて見た。この場で歌っている理由も検討がついた。「こんなに楽しくて賑やかな場に祖母がいないのが不思議だ」と直前の会話で言っていたから。母が歌っている姿を見て、その理由がすぐに分かって、私は一人で泣きそうになっていた。
バーバ、聞こえてる?母が美空ひばりを歌っているよ。バーバがもうここにいないから、母は美空ひばりを歌って、バーバを思っているよ。
川の流れのように日々は過ぎていって、祖母が亡くなってもう7年が経った。「もう7年」という気持ちと「まだ7年」という気持ちの両方がある。
未だに祖母のことを人に話すと泣いてしまう。言葉に詰まってしまって、どうしても面と向かって話す時は「そのとき色々あって」と濁してしまう。でも、それでもいいと思えるようになった。祖母を思い出して泣いて、そうやって生きていくことを祖母はきっと笑顔で見ていてくれるだろう。
二度と戻らない世界旅行に出かけた祖母は、死後の世界に逝ってしまっても、生者の記憶の中で生き続けていて、私や母や親戚たちがそこに祖母が存在していたことをしっかりと覚えている。
住む世界のチャンネルが変わっても生きている者が覚えている限り、祖母はこの世界に、形はないけれど思い出や記憶として、まだ存在している。