ふかわりょうが克服した小心者
ふかわりょうさんと岡本夏生さんの裁判が話題になっていましたね。
この件について、どのくらい経緯を把握しているかによって感触や印象や意見が変わる話だなぁと思います。僕個人としては「キス芸」だとしてそれが判決でこのような結果になるのも当然だと思うし、またその前段階としての金銭トラブルの件、岡本夏生さんの5時に夢中降板の件なども何となくではありますが流れをテレビやネットの画面上で見聞きしていた上で今現時点でこうなったんだなぁ…とうすらぼんやり感じるという状態です。キス芸についての部分は判決という形で断定されているものがありますが、いち視聴者としてどちらが悪いとか、合っているだとかは判断しようとそもそも強く思っていないところがあります。
なぜならばと理由を付けるとしたら、一面からしか捉える事が出来ないからです。メディアの中でエンタメとして提供されていたものが発端となってリアルの部分(コミュニケーションなどの問題としては自分の身近でも起こりうる可能性がゼロではない用例として)に介在してきたように感じる話題ではあるけれど、だからこそエンタメとリアルをどこで切り離すかという線引きが各々自分自身に任されている事になるので、この件はそれくらいの距離感に個人的にはなります。逆から捉えればエンタメというものがリアルというものの上に立脚しているため、どういう事情で成り立っているかの把握が憶測になってしまうという事です。そういう意味ではこの件は渡部さんがクリーンなイメージだけど不倫をしていたという話の報じられ方と構造は近いと思います。それを観て知ってなにかを感じ個人間で議論を進めるのは自由ですが、タレントという職業のイメージというものをどこまで商品にするかは実は決まっていないところがあるためメディアを通されて提示されているもの自体が曖昧領域そのものであるという感覚が重要であると思います。
さて、その上で自分の中で整理したい感覚があります。
それは「ふかわりょう ってこうだよなぁ…」
というそれこそ漠然とした感覚についてです。
今回の件でそれを嘲笑や揶揄や冷笑や批判をしたいわけではもちろん無いのですが、正直この一連の流れを含めてのこの今の状態が傍観者としてもの凄く「ふかわりょう感」を覚えてしまったのです。
そして自分で思っておきながらこの
「ふかわりょう感」って何だろうな?
とも思ったのです。
今回はこの僕が個人的に感じた「ふかわ感」の正体について言語化をしてみたいと思います。ふかわりょうさんがお好きな方はもしよかったらお付き合い下さいませ。
ふかわりょうの面白さ
ではまずその「ふかわ感」の出所であるふかわりょうという芸人はどういう芸人なのか?
結論から先に言ってしまえばふかわさんは「密室芸」の人だと思います。
「密室芸」とは外で公開できない芸という意味の言葉なのですが、僕個人としてはそれがある程度開かれた場所だったとしてもその提示している笑いの種類がいわゆる立川談志の言うところの「業の肯定」的なものを感じる笑い、言葉を選びかねるんですが「エグい種類の笑い」だと感じればそれは密室性だと捉えています。価値観自体やその表現されている角度やタイミングなどによって何を業とし、何をエグいかという定義そのものは観る人によっても変わるので断定は出来ないのですが端的に言えばそういった見る人を選ぶ笑いです。そしてそれは現代的な文脈で言えば「場所を選ぶ笑い」です。
例えばダウンタウンは環境に寄ってもその提示されている笑いの質そのものにはあまり変化は無い様に感じられます。それは若い頃の放送コードと比べたら選ぶ言葉のチョイスや、ゴールデン番組と深夜のガキ使でのダウンタウンも違いはあるのですがその核心部分に置ける面白さの着地点にそこまで大きな変化は無いのではないでしょうか。
また明石家さんまはどうでしょう?さんまさんはキャラクターこそかなり強固にデフォルメされパッケージングされてはいますが、それは絡む相手が大御所か若手かで風味が違うし関西ローカルのメディアに出演している時は多少変化があるように見受けられます。しかしながらそれもやはり「明石家さんま」という面白さの着地点にまではそこまで変化が無いのです。さんまさんは実はダウンタウンやビートたけしとかよりはキャラの立ち位置はズラしたりするのですがそれでも「笑い」にちゃんと着地しようとします。そしてそれは「大衆」的な層に向けてです。
さて、その上でふかわりょうはどうなのでしょう?そういった「面白さ」や「キャラ」というものが上記される王道のお笑いタレントと比べるとだいぶ環境や状況によって変容している事がわかります。「シュールの貴公子」「ヘタレすべりキャラ」「アーティスティックなDJ芸人」「猛獣コメンテーターを仕切る情報番組の帯司会」などなど。これらはこうして並べてみるとその「面白さ」や「キャラ」が全然違うアイコンである事に気付きます。
そしてふかわさんはその横断するジャンルの境界線上で「場所を選ぶ笑い」をさりげなく、しかし堂々と提示してみせるのです。ここにふかわさんの芸の凄みがあると感じます。
これは長い時間をかける事により大胆な手法を通用させているので、観る側もつぶさに捉えようとしなければ見落としてしまうような要素です。なのでここで順を追ってふかわさんのその変容と密室性を見てゆきましょう。まずはデビュー当時のシュールの貴公子と呼ばれたネタについてです。
ふかわりょうのネタ
ふかわさんと言えばやはり「小心者克服講座」でしょう。
このネタで世に出たと言えますし、そしてふかわりょうという芸人の面白さはこのネタに詰まっていると言っても過言では無い代表作的なネタだと思います。いわゆるあるある一言系のネタでエンタの神様などでシステムが量産されたようなフォーマットなのですが、それよりも早くこの時代にここまでの完成度で仕上げている事自体にパイオニアとしての革新性がありましたし、何より今でもセレクトさえしっかりしていれば充分通用するお笑いのネタとしての普遍性があります。これをデビュー直後に編み出して成立させていた事にまずふかわさんの芸人としての凄みはあります。
そしてこのネタは正統法の「あるあるネタ」と「一言ネタ」というものから実は少しずつズラしていてその両方の美味しいとこ取りをしている事にさらなる凄みがあります。いや、むしろタイミング的にふかわさんのこのネタから二分していると言ってもいいのかもしれません。
まず正統法の「あるあるネタ」とは何か?
それはつぶやきシローさんの漫談だと思います。
つぶやきさんは日常の中で起きる事をベースにそしてそれをあの栃木訛りの辿々しい喋りで繋げていきそのまま発想を飛躍させたり妄言的な展開をさせたりする事で共感を軸に親近感を抽出し笑いを生んでいきます。これをもっと妄言を強め着眼点自体をひねくれさせたのが長井秀和さんで、ツッコミと屁理屈の要素を強めたものが安井順平さんだと思います。
そして正統法の「一言ネタ」とは何か?
それはヒロシさんのスタイルのネタだと思います。
ヒロシさんもあるある的な日常の共感を誘うワードやシチュエーションを散りばめてはいるのですが、こちらはどちらかと言えばそのキャラクターの方が先行していてヒロシという男の悲哀を軸に笑いを誘っています。これをさらにその一言に辿り着かせるフォーマットを量産したものがだいたひかるさんで、一言に辿り着かせるフリの部分とその引っ張り方に世界観を加えたものがナオユキさんです。
この2つに種類を分けた時、ふかわさんはそのどちらになるでしょうか?
どちらとも言える気はしないでしょうか?
そうなのです。「小心者克服講座」は実は「あるあるネタ」と「一言ネタ」そのどちらにも真正面から分類出来ない座標軸上にいます。
「あるあるネタ」にしてはそのワードやシチュエーションこそ共感を覚えますがよく聞くとそこに独自性がありないないに突入しているものもあります(「さっきの選挙演説マイク入ってなかったぞ」「この表札かまぼこの板じゃない?」等)。
そして「一言ネタ」にしてはその淡々と進め言葉を羅列してゆくフォーマット自体は一言ネタのそれなのですが、その背景にふかわさん本人のキャラクターを投影させている成分は薄く、そもそもこれはふかわさんは本人が喋っているというていでも無ければそこに強いキャラ演出を施してお決まりフレーズを連呼したり(「ヒロシです」「どーでもいいですよ」等のブリッジ)もしていません。根本的な事を言えばこのネタはダンスの先生という設定のコントであり、キャラ芸人がお客さんに直接語りかけているスタイルでは無いのです。
もっと言えば
「あるあるネタ」として分類するならその共感の精度をさらに高めたいつもここからがスタイルとして近く
「一言ネタ」的な形式を大喜利の羅列として捉えた場合バカリズムのフリップを使うようなコントが近いと思います。
しかしこのどちらのスタイルも登場はふかわさんの小心者克服講座以後になります。やはりこの「あるあるネタ」とも「一言ネタ」とも言えるスタイルの草分け的存在となったのが小心者克服講座なのです。
ですがこれだと革新性は確かに感じられますが上記したような「密室性」がいまいちピンと来ないかもしれません。しかしそれは先程述べたように観る側がつぶさに捉えなければ見落としてしまうような手法で大胆に展開されているからこそここまでキャッチーに浸透していると言えるでしょう。このネタは人前でお笑いのネタとして披露されるパターンでなく楽曲として制作されているバージョンのものがあります。もしよかったらそちらを聞いてみて下さい。
いかがでしょうか?ネタの時と比べるといささか言葉の棘が強くなっているように感じられはしないでしょうか?もちろん笑えるしよりセンシティブな仕上がりになっているのですが、お笑いのネタとしてふかわさん本人があの表情と佇まいとあの音楽で演出されて披露されている時のそれより何処か突き放し気味、ストレートに相手を傷付けにいっているような文脈が感じ取れます。特に最後の一言は何処か背筋が凍るような何とも言えない感情の揺さぶりのある言葉で締めくくられていてその味わい深さとともに好きです。
もともとこのネタは「日常でよく耳にするフレーズ」から着想を得て作られているそうです。そこから「気が小さいのを克服する」というテーマにズラしていく事で大喜利性が増していったという形なのだと思います。なので昔の小心者克服講座から現在に辿るように観ていくと明らかに対象への攻撃性が上がっていっているのに気付きます。その証拠に初期の頃は「お前〜じゃない?」的な他者を断定的に突き放す言い回しが多用されていません。というか他者の存在が気薄です。
そうです。つまりあの雰囲気に誤魔化されていますが明確に「他者に対する加虐性」が小さいながらも示されています。しかもそれは大衆性を帯びるほどにです。そのサディスティックさに我々は共感し笑いを発生させていますがそれはよくよく考えると今の時代の「誰も傷付けない笑い」と言われているようなカテゴライズと真逆に位置するものです。しかも表面的にはそう認識されていないところがあり、極めて高い確信性でバレないように遂行されているエグい種類の笑いであると思います。この堂々とした「業の肯定」的な笑いに受け手が麻痺してしまう事も込みでふかわりょうという芸人の「密室性」は凝縮されていると思います。
またこの小心者克服講座が有名なためあまり知られていませんが、ふかわさんの他のネタも丁寧な言語感覚の解体とそれを淡々と進行させる演出によりその面白さをゆっくり噛み締めるような味わいが楽しめます。「納豆の作り方」「ピーターの血豆占い」「ボクサー」などのネタが特に好きです。シュールという形容が超現実主義からきている事を再確認させてくれるような日常生活の延長線上に我々は混沌を矛盾として抱えたまま処理している事が潜在意識レベルで咀嚼出来る良質な作品を多数生み出していました。
ふかわりょうのトーク
さぁ、ここまで考えてみてきてふかわさんのそのネタに置ける「密室性」はなんとなく把握できてきたような気がします。しかしながらこれだけでは、その「ふかわ感」の説明には少し足りないと感じます。なので次はトーク部分です。
ふかわさんはネタでの高い密室性を大衆の中で堂々と披露する事によりその浸透度を駆使して知名度を上げデビュー後すぐにタレントとして認識されるのですが、その売れ方はいわゆる一発屋と呼ばれるようなパターンの中で展開されていたと思います。当時はアメトーークなどでまだそのカテゴライズで紹介されて視聴者が一発屋という用語として把握する前段階だったと思うのでその事自体にあまり気付かれてはいませんが、同時期に似たような注目のされ方をしていたつぶやきシローさんや猿岩石の有吉さんなどはその時期を振り返ると明確にそして半ば自虐的に自身を一発屋であると認識しながらトーク展開をさせるのに対してふかわさんは視聴者の受け取り方も含めてそこにカテゴライズされてはいません。
ふかわさんは小心者克服講座で認識されたのちにバラエティに出演してゆく中で徐々にいじられキャラやすべりキャラ的な扱われ方にシフトチェンジしてゆきます。これはブレイクにより高まったカリスマ性的なものが切り崩されるような形で上手くバラエティ対応出来ない事自体をタレント化させていたように感じる方も多いのではないでしょうか。というのももちろんありますが本芸の密室性が大衆的な部分で提示してもそもそも分かりやすく処理されないため「すべり芸」としてパッケージングする他ないというのが要因として大きかったとも感じます。なのでこのキャラクターがふかわりょうという芸人の最もパブリックなイメージなのだと思います。
しかしこの変容のさせ方にこそふかわりょうという芸人の特異性があるとも感じます。上記したようにふかわさんはデビュー直後にリズムネタ的なもので一発屋のような売れ方をした上でバラエティ番組の席に座っています。そしてつぶやきシローさんや有吉さんのようなブレイクの落ち着き方にはなっていないのです。いわばその切り替えがめちゃくちゃ早いと思います。なんだったらある程度最初から切り替えを予定していたのではないかと感じるくらいその移行がスムーズに感じます。
ふかわさんのバラエティ上の「すべり」「いじられ」「天然」「めんどくさい」扱いのキャラは一見するとよくある雛壇芸人の団体芸での種類のひとつであるように感じるのですが、それがピン芸人としてここまでパーツ的に機能している事に珍しさがあります。ふかわさんのこういった扱いをされた時の振る舞いはコンビ芸人のネタを書いていない方のポジショニングを意図的に行っているような要素が強く感じられるのです。バカリズムさんや土田晃之さん程いじられないように固めていなければ、永野さんやカンニング竹山さん程の振り切って単身で場を制するところまでは行きません。あくまで「対峙する相手や場に対してそういった扱いを受ける事を想定している」と言った感じです。そしてその扱いを受けた後ふかわさんは自分自身を含めてその状況に「一言ネタ」で処理を施すのです。
これこそが小心者克服講座というネタでデビューした芸人の正しいトークへの応用方法であると言わんばかりにややこしい構造に自身の芸を組み込んでみせるのです。「他者に対する小さいながらの加虐性」をテレビタレントとしての自分に向けるのです。この1人ボケツッコミ的な状況をセッティングするためのジワジワとしたサディスティックな変容はあの当時の一発屋的なブレイク芸人でふかわさんだけが成立させていたように思えます。
またこのキャラが成立する範囲というものも把握するのが上手かったと思います。つまり自分より立場が上の人と絡む時にこそ自身への加虐性が輝きを増すため、ウッチャンナンチャン、タモリ、東野幸治などの先輩タレントとの距離のはかり方が絶妙だったと。そしてその中でも重要度の高かった「内村プロデュース」という番組が終わりを迎えた時にふかわさんはまた変容していきます。
ふかわりょうのタレント性
ここら辺でタレント性というものの自己プロデュースにかなり大胆な演出を施していきます。
自身の冠ラジオで割と切り込んだ話題を選択してゆくのです。それはネタの時のシュールなスタイルやテレビなどでのポップないじられキャラなどとは一線を画す生身のふかわりょうという人間の価値観を提示する極めてリアルなものです。
特にメディアに対する意識そのものへの言及が鋭かった印象です。それは対峙する既存の大きなものを漠然と相手にすると言うよりは一人一人のリテラシーについて疑問を投げかけるような物言いに近いトークが多かったと思います。この動きを「嫌いな相手にダメージを与える一言だ」と形容してみるのはいささかアイロニーが過ぎるでしょうか?
ふかわさんのこのモードは主にラジオで再度カリスマ性を構築し直すかのような回帰の仕方を静かに遂行させていました。同時に再度音楽活動に力を入れ出したのもこの頃だったとも思います。なのでテレビのふかわさんとのギャップめいたものが徐々に深まっていった感覚も同時にあります。個人的に最も印象に残っているこの時期にこういった角度で提示していたタレント性のひとつとしてラジオで「いじめについて」というテーマでメール募集をしてリスナーと共に考えるという企画です。
テレビでいじられキャラ的な提示をしているふかわさんがこういったテーマでなおかつここまで掘り下げて話をする事の意味と意志とさらにそこにも業の肯定的なものを感じます。この放送の中で重要だなと思ったのはやはり「他者へ対する加虐性」というものへの意識をキチンと語っていたところだと思います。
なおかつこの辺りの時期のふかわさんはタレントとしてテレビに出演した時「いじられキャラの向こう側」のようなゾーンに突入していた事も記しておきたいです。特に印象に残っているのは「爆笑問題の検索ちゃんでの罰ゲーム」「深夜時代の飛び出せ化学くんでの振る舞い」「ヘキサゴンでの紳助さんとの絡み」「リンカーンの説教先生での地球に優しい笑い」などなど。面白いんだけどこれをストレートに笑っていいのか迷ってしまう人が多いのではないかというくらいの殺伐とした空気を提示していました。自虐的なのにもはやそれは他者を含めたこの場そのものをイジっているだろうと言われんばかりのサディスティックで密室性の高い芸でそれもまたあの時期のふかわさんにしか出来なかった代物でした。この自虐イジリ芸は「アウトデラックスでのマツコさんとのトーク」で一旦昇華されます。
ふかわりょうのMC術
そしてそれが今現在の状態である情報番組のMCの側面に繋がってゆきます。
僕の記憶では上記のラジオでのメディアへの言及トークを含めひるおび等で時事に対してのコメンテーター的な仕事は今ほどその席に芸人さんが増えるより大分早くから勤めていたとは思うのですが、5時に夢中に関しては最初はその日限りのゲスト出演だったと思います。そして前述したような自虐イジリ芸が番組にハマった瞬間がありそのままMCに繋がっていった流れだったと思います。ゴールデン番組や芸人さんの多い雛壇などでのプロレストークで展開されてたふかわさんの「いじられキャラの向こう側」トークはローカルな現場で中尾ミエさんなどのひと世代以上離れた層に可愛げとして受け入れられたのかもしれません。
この起用によりふかわさんは自虐だけではなくコメンテーターをイジる側のコメント芸も発揮されていきます。
ふかわさんが自身に向けていた小さいながらの加虐性を含んだ言葉の精度を高めるために「自身の自我や存在そのものをイタいものとして提示する運動」を、芸人さん以外のタレントや文化人が「自身の自我や存在そのものをイタいものとして提示する運動(つまり番組の中でお笑いのプロじゃない人がサービス精神でボケてみてる発言)」に対してツッコミ的なものとして向けた時に、そのタレントや文化人がノってくるという相乗効果が発生し知的好奇心そのものに笑いという観点が持ち込まれるようなグルーヴが発生していました。このテンションでそれらを引き出しながらショーにする司会術は自身も若干いじられる事を許容しながらもメディアの中で疑念を含めた価値観を提示する事を厭わなかったふかわさんだからこそ成立させる事が出来たゾーンだと思います。
そして各曜日それぞれ色があったと思うのですが、その中でもやはり火曜日の岡本夏生さんとの掛け合いが一番「テレビ的」だったと個人的に思います。
岡本夏生さんは「額縁芸」の人だと思います。
芸人さんでもなければ文化人でもない岡本夏生さんは自身をタレントと位置付けてそう名乗ってます。タレントという職業がかなり広義の意味合いを持ちその領域自体が曖昧なものではありますがいうならばそれは多面性を持ってそれを商品とする生業ではないかと思います。つまり自身の存在とそのパブリックイメージを時に誇張し時に縮小し観客に提供する。そしてその提供先がラジオ等の音声に特化している人もいれば、舞台等の肉体そのものをメインの品にしている人もいます。岡本さんはそのフィールドが画面だったのではないでしょうか。派手な見た目と過激に聞こえる言動行動はその一瞬を切り取る画像や余白の想像を促す映像というものでこそ輝きを放つパフォーマンスを本人も意識してコントロールしていたと感じます。額縁芸の人は、ナインティナインや紳助竜介、コント55号、B21スペシャル、野性爆弾、ハリウッドザコシショウ、狩野英孝、フワちゃん、岡崎体育、等です。自分がどういう印象に映るかの把握能力が高い人です。
この岡本夏生さんのインパクトを形式としてコメンテーターという枠にパッケージングした事に5時に夢中のテレビ番組としての醍醐味が凝縮していたと思います。月曜のマツコさんとのシンクロ率の高い密室性も、水曜日の美保純さんとのキャラを構築し合う舞台性も、木曜の岩井志摩子さんとのどの角度からも下ネタに繋げれる文学性も、金曜日の中尾ミエさんとの年代によって感じ取れる芸能の重厚さのある伝統性も、火曜日の破壊力には及ばず週の中で一番テレビというものの特性を捉えて離さなかったし、またいじられタレントを経て言葉の精度を上げていたふかわさんとの掛け合いの相性は抜群だったと思います。
ただだからこそ背負ったものもあったのだと感じます。多面性を提示するサイクルの中である一面だけが大きくなりすぎる部分があるのが額縁性の特徴ではないかと感じます。どこまでをショーとするのかが曖昧になってくるためより過激により注目度を集める事が目的になってくる。これは岡本さんがそうというよりテレビもといメディアというものの本質的な特性です。
どういった経緯があったのかは憶測も含まれてしまうのでなんとも言えませんが、視聴者として観てきている部分だけで感じたのは、それを観て楽しんでいた我々にも要因はある気がするという事です。岡本さんのサービス精神と視聴者を惹きつける為の綱渡りが綯交ぜになったパフォーマンスとそこに対してツッコミを入れていたふかわさんの間合いやテンポを含めた一言芸は観衆の反応も込みでのサディスティック性の麻痺なのですから。ふかわさんはキス芸的な着地をそもそも避けるタイプだと思うのでそれをセレクトしたという部分に感じる何かはあります。
また同じ曜日に居た北斗晶さんという意味付けと流れ作りの出来る受け身の技術を持ったプロレスラーの存在も大きかったのではないでしょうか。ただそれらもやはりあくまで印象論の域を出ません。重ねて言いますがキス芸自体はよくはないです。しかしそこに至るまでの流れがどうだったかも重要でありそしてそれは観客や視聴者に提示されている段階に線引きあるのでそこに関してはなんとも言えません。どういった着地がベストだったかも自分が双方どちらの立場でも難しいなと感じてしまいます。そしてそれは観る側としても考えなければいけません。
ふかわ感の正体
さて、ここまでいろいろ考えてきてふかわりょうという芸人が少し捉えられてきたのではないでしょうか。自らの「密室性」を大衆的な場所で堂々とした提示をする事により、そのジャンルで印象付けをはかりそしてそれを足掛かりに隣接する別領域に移動をはかる。その繰り返し。
小心者克服講座というあるあるネタと一言ネタの礎も
「小さいながらの加虐性」を内包しているし
すべりキャラという自己にその一言を向けるためのトークスタイルも
「メディアに対する意識そのものへの言及」を憚らなかったし
音楽活動を再燃させ既存のお笑い芸人とは違う活路を見出すタレント演出も
「いじられキャラの向こう側」というパターン破壊を試みていたし
5時に夢中を始めとする文化人やタレントへのツッコミを有するMC術も
「テレビの中で観衆を含めてショーにする」事への加虐性が偶発的にも発生してたし
そうです。ふかわさんは常にこの両極端に感じてしまうような視点や思想や立場や感覚を常にハッキリとは分類せずにその着想だけは早めに取り入れて存在感を示すのです。ふかわりょうというパブリックなイメージの中心を探っていくとむしろその表層とは逆のニュアンスに辿り着く感触があります。しかしながらそれは裏表の関係ではなくどちらもふかわりょうという実態そのものであるし境界が極めて曖昧でありながらその一瞬一瞬の取捨選択だけがそこにあるセレクトこそが芸であり魅力なのです。
僕が感じている「ふかわ感」の正体とはこうした一瞬一瞬の選択そのものの事であり、それは時に間違いも含む、または今はまだ間違えているように捉えられてしまう、もしくはそう感じてしまう自分自身に対しての決断とそれによって引き起こる周囲を取り巻く空気感ではないかと思います。ただそれはやはり笑いやそれ以外の感情と共に美しい音色を奏でる事ももちろんあるしそれも忘れてはいけない事だと感じます。
キスに関してそれは間違いであったと思います。それは時代の空気がそうだからではなく、裁判の結果として見聞きし得る限りそもそもそういう事をしてはいけないと思います。男女芸能一般関係なく。ただだからといってそれをどちらが悪いのだと外野が判断し弾圧するように個人の事を小さいながらも加虐する選択は同じくらいしてはいけない、もしくはすると自身の心の中で他者に対する関係性のバランスは崩れてしまうかもしれない行為なのではないでしょうか。
ふかわさんの小心者克服講座は普段我々が思っていても言えない事を言えるようになるための講座ですが、ではなぜそれを思っていても言えないのでしょう?言わない方がいいと一瞬一瞬で選択しているからです。この講座はそんな一言が言えるようになりましょうという講座ですが、言った後どうするかまでは教えてはくれません。
この一言は自分が言っている一言なのでしょうか?
それとも自分に言われている一言なのでしょうか?
私達はふかわりょうに「お前」と言ってるのでしょうか?
ふかわりょうから「お前」と言われているのでしょうか?
お前が無意識の内に他者に向けてる加虐性、実はお前に向けられてない?
お前が無意識の内に他者に向けてる加虐性、実はお前に向けられてない?
自分と他者の狭間で揺れ続けている時、
Donna McGheeの「Mr.Blindman」が流れてきます。