見出し画像

田中裕二のヤバさの構造

本日27日くも膜下出血、脳梗塞と診断されていた爆笑問題の田中裕二さんが退院されたそうです。
大事を取って1ヶ月程度休養するとの事なので心配でしたがひとまず安心です。

以前田中さんがコロナを患ってお休みになられた時もレギュラー番組に数々の代役の方が出演していて、そのたびに「田中さんは替えが効かない存在だなぁ」と痛感させられました。おそらく今回もそれをまざまざと感じさせられる事になりそうです。

田中さんって不思議な存在です。
正直お笑い芸人としての立ち位置もボヤっとしていて爆笑問題というコンビの中では「じゃない方芸人」に分類されると思います。
「ツッコミ」「進行」「いじられ」「演技力」もちろんどれをとっても一流のテレビタレントとしてその才を兼ね備えていると思いますがそれらの能力のどれかが抜きん出て達者かと言われると他にもっと専門的にこのどれかが得意だというタイプのタレントは思い当たりそこと比較すると田中さんは非常にプレーンな数値に留まっていると感じます。

ただ居なくなるとどこか不安になる。


これはタモリさんが「笑っていいとも」をやっていた時に人間ドックや白内障手術で休んだ時の感じと似ています。いつも何となく観ていて風景と化したタモリという存在が日常から消えるという不安。漠然とした正体の無い違和感。田中さんにも知らず知らずのうちにその感覚を植え付けられていたのかもしれません。

とまぁ、ここまでなら田中裕二という芸人さんに関して考える時大体触れられる範囲の話だと思います。実態があるようで無い。メディアに出ることで虚像として存在しているタモリさんに近いタイプの芸人さん。しかし僕は田中裕二という人間にはもっと底知れない何かを感じてしまうのです。具体的に先に言っておくとこの「もっと底知れない何かを感じてしまう」こと自体に何か理由を求めてしまっています。それが何なのか。

長々となってしまいましたが今回はそれについていろいろ考えて言語化してみたいと思います。僕の個人的な考えの整理であるので共感出来ないかもしれませんがご興味あればよかったらお付き合い下さい。いち視聴者の勝手な田中裕二考察(と呼べるようなものかわかりませんが)ですので田中さんがお好きな方は一緒にいろいろ思い巡らせれたら嬉しいです。


まず田中さんが「タモリさんのようなメディアで虚像化するタイプのタレント」だとして、違う点を上げるとしたらやはり田中さんはコンビでありツッコミであるためタモリさんよりいじられたりします。

それは「チビ」だとか「カタタマ」だとか分かりやすい見た目や身体的特徴のいじりから「バツイチ」とか「意外と頑固な性格」や「たまに出る天然」などパーソナルな部分のいじり、そして伊集院光さんなど近しい人物などから「変人なのは田中さんの方」「急に毒舌になる時がある」「実はサイコパス的な気質」「何も考えていない」などの一周まわったキャラいじりなどかなりそのバリエーションと守備範囲が広いのがわかります。

特にこの「何も考えていない」いじりは田中さんの面白さの真骨頂であり爆笑問題好きな方にはおなじみの「情熱大陸 田中裕二」がその面白さの際たるものだと思います。

他にも「干されて草野球しかやってない頃、楽しくて仕方なかったと発言」「売れる前の下積み時代にコンビニでバイトをしていたらどんどん出世してしまい太田光代さんにこのまま芸人を辞めるのではないかと心配される」「雑誌クイックジャパンに特集を組まれるも何の引っかかりもない普通の話を延々しまくる」「NHKのニッポンの教養という番組で人間とは何か?という哲学的な議論になった時、田中さんが話に参加せずボーっとしているその様子が映りそれが一番人間を体現していた」などなど。これらを並べてみても芸能人であるどころか世間一般的な自意識としても大事ななにかが欠落しているのがわかります。

ここらへんが田中さんの一番ヤバいと言われている部分なのだと思います。

この自意識や承認欲求、自己顕示欲などの低さ。こういった「何も考えていない」という気質自体が田中さんの「実態は無いけどメディアで虚像化させるタイプのタレント」という状態にするための中核的な要素なのだと思います。

ただここで思うのはこの手の「何も考えてない」いじりを受ける芸人さんは他にも何人かいて別段田中さんだけ特別なわけでは無いということです。特にコンビの「ネタを書いていない方」とされる芸人さんはこの「何も考えてない」いじりを受けやすいです。ではなぜ田中さんだけがここまでその「何も考えていない」という要素をはらんだまま虚像として大きくなれたのか?もちろんそれは相方の太田さんの存在と爆笑問題のキャリアがそうさせたという部分はあるのですがそれを踏まえた上でやはり個人的にまだ田中さんへ感じる「底知れぬ何か」の答えにはなっていないです。


ではその「何も考えていない」いじりを受けるタイプの芸人さん何人かと田中さんを比較して何が見えてくるか考えてみましょう。

比較①

まずはオードリーの春日さんです。

春日さんも田中さんと同じように主にラジオなどで若林さんから「何も考えていない」といういじりを受けています。春日さん自身も過去「太田さんよりも田中さんとの方が気が合いそう」と発言していることからわかるようにその「何も考えてなさ」を自認してネタ化させています。メディアにも多数出演しすっかりキャラが認知されている状況の中でのいじりなので春日さんもまた田中さんと同じような「実態は無いけどメディアで虚像化させるタイプのタレント」だという状態だと言えると思います。

しかし田中さんと比較した時にそこまでその虚像感は強く無い気がします。
なぜなら春日さんはその虚像感を最初から「ネタ化」させている存在だからです。

若林さんの作ったズレ漫才は普段の春日さんのズレたツッコミをキャラクターとして肥大させボケとして扱っている立脚の仕方をしています。つまり春日さんは「何も考えていない」のですがそれはそのキャラのための前提として作っておくべき「何も考えていない」状態であり、春日さんという真っ白なキャンパスに若林さんが様々な角度からその「何も考えてなさ」をボケとして扱ってツッコんでいるという図式がオードリーというコンビのあり方なのです。なので春日さんは若林さんから発注されたキャラに乗っかった上で「何も考えていない」を実践しているわけであり実は少し構造としては二重になっています。「春日」というキャラのために「何も考えていない」わけで、その性質のため春日さんは身体を張る企画を断らなかったりすべらない話などのお笑いの実力を試す現場でも活躍したり、発注を受けたものに対して「何も考えていない」を実践するためかなりの無理難題に挑戦していくという特性があります。これは田中さんと全然違います。

ちなみにこのコンビバランスはツービートに似ていると思います。きよしさんも春日さんのような無鉄砲さとたけしさんにいじられるための自我の立脚をしています。


このように比較してみると田中さんの「何も考えてない」というヤバさとの違いがわかりより底知れなさが浮き彫りになります。

比較②

では春日さんより身体を張ったりしないロンドンブーツ1号2号の亮さんはどうでしょう?

亮さんは「何も考えていない」というよりも「何もしていない」という感じの扱われ方だったと思います。いじられるポイントも「天然」とか「滑舌」など「ポンコツ」的ないじりが目立ってましたが役割としては一応ツッコミですし今の状態としてもロンドンハーツに亮さんがいない事のどこか不安な感じは「虚像化するタイプのタレント」であったという逆説的な証明にもなっていると思います。

亮さんは田中さんと比較した時の大きな違いは実権を握っていないという事でしょうか。

やはりロンブーと言えばドッキリ企画だと思います。そしてそのターゲットとしての矛先は亮さんに向けられる事も少なくありませんでした。なので亮さんは常にうっすらドッキリをかけられてもいいようなタレント性を保持しています。それは淳さんと対比した時の好感度であったりコンビとしてのパワーバランスであったり言葉にするのは難しいのですが何となくの「ドッキリかけられてもいい感」です。亮さんがたまに言われる「いい人」というアイコンは本人のその意識によるものが大きいと思います。なので実は亮さんはコンビの初期の頃はネタを書いていたり、進行の役割をしていたりとイメージよりもしっかりした部分も担当していましたがその役割をいつのまにか淳さんに奪われる事も込みでお人好しだというタレントイメージとして成り立っています。

ここまでのお人好し感は田中さんに無いですし、なにより進行という役割を田中さんは番組でも漫才でも担っていてその主導権は基本的に保持しています。亮さんはその部分に置いて田中さんと大きく異なります。ちなみに亮さんから「いい人感」を抜いた存在はウエストランドの河本さんだと思います。井口さんに愚痴を吐かれ文句を言われるために「何もしていない」という立脚の仕方をしています。


比較③

では進行役もやったりした上で亮さんほどの「いい人感」を保持しているわけでも無いハライチの澤部さんはどうでしょう?

澤部さんはハライチのトークや岩井さんのエッセイやインタビューなどでもたびたび「明るい人気者に見えるけど中心は空虚で人に合わせているだけの実体は無」などといじられています。これはかなり田中さんの特徴と近いです。

しかし田中さんと比べると澤部さんの方がコンビの中では目立っているという点で違います。

澤部さんはハライチのフォーメーション的にはかなり前線に立っています。その上で進行をやったりツッコミをやったりしつつ、ガヤを入れたり盛り上げ役をやったりしています。爆笑問題の中でこれをやっているのは太田さんです。炎上芸的な側面があるのが岩井さんの方なので気付きにくいですが澤部さんは太田さんからそういった気質やボケる必要性を抜いた上での振る舞い方をしていて実はよく聞くとエピソードやコメントの角度やたまに吐く毒や共演者への絡み方は太田さんと似ている側面が多々ありむしろ技術としては太田さんに近い振る舞いである事がわかります。田中さんはここまでこういう形で前に出ません。

澤部さんにもっとコント的な要素を足したのが日村さんだと思います。というかバナナマン自体がかなり太田さん的な気質がある2人であり、設楽さんのサディスティック性を残したままフォーメーションとしては日村さんのような位置にポジショニングを取っているのが太田さんという認識でいいと思います。


比較④

空気階段のもぐらさんはどうでしょう?

フォルムで目立っていますが実はフォーメーション的にはかたまりさんの奇人エピソードにより前線に立ってる感は薄くその点では田中さんに近いと思います。その上でクズエピソードなどから感じ取れる「感情や向上心の無さ」は「何も考えていない」と捉える事も出来ます。

しかしやはり田中さんとの違いはその「クズキャラ」などの自分を下げるエピソードを自発的に出すか出さないかであると思います。

もぐらさんはいじられた時に抵抗せずむしろそこに寄せる事で面白くあろうとしています。それは自我の介入を虚像に反映させないという原理でもあると思いますしそれがボケとツッコミという違いはあれど田中さんの「何も考えていない」という気質と近いと言えるわけですが、しかしそれはもぐらさんの方がようは「何も考えていない」事に積極的であるという事の表れであり田中さんほどの「本当に何も考えていない」という場所に留まれていない事を意味しています。「クズ」を「キャラ」として提示している段階で本質的な「クズ」では無くなるという身も蓋もない話なわけです。

仮に田中さんが「クズキャラ」をするとしたらラランドのニシダさんのような仕上がりになると思います。ツッコミやお笑いとしてのしっかりとした役割は担いながらいじられた時の寄せ具合には積極性が薄いという感じです。(そこがニシダさんの「クズキャラ」のリアルさとして面白いところだと思います。ニシダさんは本質的には「クズ」というよりどちらかと言うと「ひきこもり」的な気質だと思います。)

ちなみにもぐらさんからニシダさん的な「クズキャラ」の要素を抜くとバイきんぐの西村さんみたいになると思います。西村さんも「何も考えていない」ことに積極性があります。

比較⑤

さてここまで色々な「何も考えていない」いじりをされる芸人さんと比較してきてわかってきた事は、田中さんは「何も考えていない」事で春日さんのように身体を張りもしないし、亮さんのようにドッキリをかけられてもいいように好感度も保持しないし、澤部さんのように前へ出ないし、もぐらさんのようにクズキャラにまでは突き抜けません。つまりお笑い的には「本当に何もしていません」。いや、何もしていないわけではもちろん無いのですが、他の芸人さんと比較した時に「何も考えていない」事により「笑われる」という状況を理解し受け入れるという意識や芸人としての自我があまりにも無い事が浮き彫りになるのです。

この事でわかるのは、やはりタモリさんとの類似性です。

タモリさんも芸人としての自我を抜いています。座右の銘が「適当」であり、自分の好きなものの話をするだけで笑わせようとしていない時があったり、毎日生放送であるいいともでの進行を続ける事により無鉄砲さや好感度や前へ出る精神やあえて現状を受け入れすぎる積極性などを排除していっています。タモリさんも「何も考えていない」と思います。時代や立ち位置により田中さんほどそれをいじられたりはしませんがその気質によって「実態は無いけどメディアで虚像化させるタイプのタレント」のはしりとしてその道を邁進しています。

ですが田中さんとタモリさんも違う部分があります。
タモリさんはピン芸人です。
なので田中さんよりツッコミだけの役割に留まりません。
ボケる事もありそしてその「何も考えていない」ベースから来るボケや発言や振る舞いに対して自己言及的に説明をする事があります。

田中さんはこれをほとんどしません。
というかこれをやるのは太田さんです。
太田さんの場合は「何を考えているか」の説明を笑い抜きでしたりします。
田中さんはタモリさんですら行う「何も考えていない事の説明や表明」すらしないのです。
ようは自己言及をしないという事です。

これはいよいよ本当に自我の実態が無くなってきました。

爆笑問題 田中裕二とは本当にこの世に存在するのでしょうか?


比較⑥

僕はここまで考えてある芸人さんの存在を思い出しました。
この人は田中さんに限りなく近いかもしれません。

立川談志師匠です。

この動画で談志師匠は「人生に意義は無い」と言っています。
この人ほどそれをここまで考えて説明していた上でそれに相反するような振る舞いでもってそれらの言語化を全て帳消しにすることで状態としての「何も考えていない」を体現した人物はいないのではないかと思います。

「参議院議員選挙全国区に出馬し当選するも沖縄開発庁政務次官に任命されその記者会見に二日酔いで出席し「公務と酒、どちらが大切なんだ」と聞かれ「酒にきまってんだろ」と言い放つ」「柳家小さんとも幾度となくトラブルを起こし破門された回数は80回を超える」「ビートたけしのTVタックルに出演するも覆面マスクを被りほとんど何も喋らず最後に一言「納豆がうまい」と言って終わる」「喉頭がんで亡くなった時各スポーツ誌に「談志が死んだ」と回文になるような見出しを記者にお願いしていた」などなど。

「何かを考えている」事を帳消しにするかのような「何も考えていない」振る舞いの数々。

もちろんのことそれはお笑いとしての表現であり他ならぬ「業の肯定」の全身全霊での体現であるわけですが、それと同時にこれらの行為はもはや笑えるかもよくわからないくらいの「業の肯定でありながら否定でもある」という域に達してもいると思います。

これだけ向き合って考えて理解し語って説明してそしてそれらを振る舞いで全部台無しにする。というところまで含めてプラマイゼロの「業の肯定」。というか「業として存在」するという感じ。談志師匠は一人芸なのでタモリさんのようにこうするより他なかったのだと思います。つまり「何も考えてない」と「何かを考えている」を一人で同時にやっている。そしてはそれはタモリさんと比較した時「何も考えてない」事への自己言及的説明よりも、「何かを考えている」事の帳消しの振る舞いの方に比重がかかっていることが感じ取れます。その点で揺り戻しの結果ではありますが「何も考えてない」という状態としては一番田中さんに近いのではないかと感じます。


爆笑問題はコンビ芸です。
太田さんは「何かを考えて」そして語ります。それは談志師匠と対峙出来るほどです。それと同時に振る舞いとしても破天荒であろうとします。しかしそれは先人たちの築いてきた理論や作品や概念の中での行為でしかないと気付いていてやはり自分は談志師匠ほどの揺り戻しを生む振る舞いには達していないといつも悩み続けそしてその思いの吐露すら自己言及的に説明したりします。ただ、その横で田中さんが「本当に何もせず本当に何も考えていない」のです。この一点のみで全ては覆ります。それは伊集院光さんのよく言っている「なんでも切れる刀を収めておける鞘ってすごい」という事であるわけですがそれがことお笑いの本質的な部分にも介在させる事が通用してしまう凄みがあります。太田さんの「面白さとは何なのか?表現とは何なのか?自分の存在とは何なのか?」という普遍的な問いかけと体現を「面白さとか知らない。表現とかわからない。自分の存在とか考えたこともない」と普遍的に問いかけず体現もしない事で帳消しにしてしまうのです。それは談志師匠が一人でプラマイゼロにさせていた「業の肯定」の証明運動を田中さんは役割分担としてその「帳消しにさせる」スイッチだけ持っているような状態です。

なので田中さんはどんなに太田さんに罵倒やほぼ人格否定に近いいじりを受けようともその「何も考えていない」という部分を手放さなかったし逆に言えばその「何も考えない」という事だけ精度を保っていれば「業の肯定」として成立することが太田さんの横にいるだけで体現できるわけです。つまり太田さんが憧れどうしたらそこに達するのかと考え続けている立川談志という表現者に状態として一番近いのはむしろ田中さんの方であるということです。

そしてここまで書いてやっと僕の一番言いたかった事に辿り着けます。
田中さんが「底知れぬ何か」を秘めている理由。
 

 
つまり田中さんはそれを、ちょっとわかって やってるという事です。

 
 
ここが田中さんのヤバさの核心部分。
この自覚こそが田中裕二のヤバさの構造です。


 
田中さんは

「お笑いとか人生の意義とか、そんなもん考えない方がよっぽどお笑いっぽいし人生有意義だろ」

と感覚としてちょっとわかってるんです。
舐めてるんです。
舐めてるけどそれでむしろ成立しちゃってるという絶妙なバランス。
 


これは田中さん以外の全芸人、いや全人類がフリになっちゃってます。
ここに辿り着いた時に広がっている圧倒的な無と、その無を業としてちゃっかり肯定させる無以外のおびただしいほどの有が犠牲となって存在しているのです。

 
最後にその田中さんの「何も考えてなさ」によって引き起こる状態としての業の肯定の最大公約数をお伝えして終わりたいと思います。

談志師匠と太田さんの対談を収めた「笑う超人」というDVDです。ここに田中さんは出てきません。その中で談志師匠と太田さんはもの凄く中枢に迫った論理的かつ抽象的な芸談、人間とは何かという普遍的な問いかけ、表現、などあらゆる事を話した後終盤に(この動画では46:50のとこ)談志師匠がこうコメントします。

「じゃぁ君(太田さん)が落語をやったところでめちゃくちゃに下手くそでな。言ってることは面白いけど、落語をやらせると田中にはかなわないwww」

いいなと思ったら応援しよう!