東京03へシティボーイズから都移し
東京03official YouTube channelに空気階段との合同コントが上がっていました。
さらについこないだのラジオ「東京03の好きにさせるか」のゲストがアルコ&ピースでした。
これらの内容を観ていくと東京03の立ち位置が東京の若手のコント芸人を束ねる重鎮的な扱われ方になってきているのをひしひしと感じます。もう東京03自体が若手のトリオコント芸人ではなく芸歴的にもキャリア的にも中堅的な立ち位置であるという事です。アルファルファやプラスドライバー時代から観ている東京03好きからすると感慨深いものがあります。
そして、そうなると思い浮かんでくる東京のコント芸人のレジェンド的存在
シティボーイズです。
お互いトリオコントで演劇的な手法と密室芸的な種類の笑い、東京の色合いというか風味というかそれを雰囲気として体現している振る舞いと佇まい、そして洗練された長尺での大人向けなネタで彩られる単独ライブの動員数はもはや芸人のそれとは一線を画す程の領域に達しているという点でかなり近いものを感じます。元々シティボーイズが人力舎に居たことも含めてお互い意識もしあっていると思います。
共通点の多い2組ですがそれを大竹まことさんは東京03のラジオに出演した際、自認し本人達に言及しています。「東京03は俺たち以上になると思うよ。いやなってほしいんだ。知の限界のような創造的な笑いを東京の芸人に見せてほしい。」この言葉の発せられた瞬間の世代交代の意味は美しさすらありました。
さて、そんな2組ですがざっくりと似ているとだけ捉えていても物足りないなと僕は思っていて、逆に本人たちも自覚しあっている程のトリオコントとして共通点が多い2組の違いを見ていく事で浮き上がってくる世代間での主流の笑いの変化というものがあるのではないかと感じているのです。今日はそれを言語化出来たらなと思います。もしよかったら東京03好き、シティボーイズ好きな方はお付き合いいただけると幸いです。
トリオ芸の役割分担
まず、話がいきなり飛んでいると感じるかもしれませんが能や狂言の世界にはシテ(使手)という用語があります。
シテとは主役の事であり、その一曲を勤める人という意味があります。演出家を置かない能や狂言ではシテがその役割を兼ねる為、舞台上の諸役はシテの演出に沿った演技をします。またシテに対する相手役や脇役のことをアド(挨答)と呼びそのアドが集団で登場する場合、統率する一番目のアドをオモ(立頭)と呼ぶそうです。(その次のアドをニのアド、または小アドと呼び分ける場合もあるそうです。まぁ僕も伝統芸能に詳しいわけではなく今回の事を語りたかったがために調べてみた程度ですので微妙に違ってたらすいません。)
なぜこの話をしたかと言うとこの役割分担はトリオコントにも当てはめれるかもと思ったからです。
東京03の主役であるところのシテを飯塚さんに置いた場合
その相手役を担当するアドの統率をはかるオモは角田さん
その次の二のアドもしくは小アドを豊本さん
が担当していると分けて見ると少しわかりやすくなる気がします。
ツッコミ、大ボケ、小ボケという役割分担がそのまま当てはまります。
ではシティボーイズはどうでしょう?
ツッコミで宣材写真でも中央の立ち位置の大竹さんがシテで異論は無いと思いますが、その次の相手役を統率しているオモは誰でしょうか?大ボケという点では斉木さんになる気がしますが統率という意味では大竹さんと対峙してボケ側の空気を舵取りしているのはきたろうさんのような気がします。またきたろうさんは小ボケ的な事はしますが豊本さんがたまにやるその目立たない役割を利用して全ての流れを覆して大オチを担当する演技の仕方は斉木さんの方が担っていたりする事が多いです。オモと小アドがどちらでも当てはめる事が出来てしまいます。
このようにシテ、オモ、小アドのバランスで考えようとした時に東京03とシティボーイズで微妙に役割分担のあり方にズレがある事がわかります。この似ていると感じていた2組の間の微妙な違いの中にトリオコントの核心的な部分と世代交代の中で時代と共に変容している何かがあるのではないかと僕は感じているのです。
もっと個人で掘り下げて見てみましょう。
表面的な役割分担ではなくその人本人の気質と言うか性分、笑いの取り方などを見ていくともっと掴めるものがあるかもしれません。
大竹まこと→?
まずは大竹まことさんです。
シティボーイズの中心的人物でありツッコミ担当。歯に衣着せぬ発言と振る舞いで破天荒な暴走キャラ、毒舌タレントと認知されていると思いますがコントの中では一番の常識人でありまた一番観客の側に立って観ている人の代弁とその世界観の中でバランスを取っている立ち位置の人です。メディアに出た時の過剰性はある意味での自分のパブリックイメージを把握していてそこに寄せていこうとする感覚のパフォーマンスである事が感じ取れます。
この大竹さんのポジショニングはツッコミであるという役割としては一見すると飯塚さんと同じに感じますが、僕は気質としてはむしろ角田さんに近いんじゃないかと思います。
角田さんは大ボケの役割ですが常識人の範囲から出ているわけではありません。「常識人として暴走している」というボケのあり方をしていると思います。誰もが普段思っているような共感力のある感情を大声に乗せて過剰に発露したり、また自分の発言や失敗を俯瞰してて自己回収気味に提示して笑いを誘います。コントの中でも観客の代弁とは言い難いですが一番観ている人の立ち位置に近いのは角田さんです。ボケとツッコミのあり方の違いにより見え方が変わっていますが「パブリックイメージを把握していてそこへ過剰性と共に自分を観客の方に寄せていく」という気質は大竹さんと角田さんはかなり似ていると思います。逆に言えば飯塚さんは観客とのバランスは取ってはいるけどこういった過剰性は少ないと思います。
斉木しげる→?
では次に斉木しげるさんです。
斉木さんはシティボーイズの中で一番張りの演技をしていると思います。簡単に言えば一番堂々としています。それによってコントの演劇性をグッと深め強靭な世界観を構築すると同時にその雰囲気を維持したまま行動として最もわけのわからない事をさも当たり前かのように平気な顔をして遂行します。下手したら笑わせようともせずただ普通の事を言ってるだけで佇んでいる事もあり天然でもありながら本人がその事を自覚してほっといている為なんとも言えない面白い空気だけはずっと醸し出され続けるというシティボーイズがシュールと言われる理由のようなものを体現し続けています。板尾さんやピエール瀧さんのような居るだけで絵面や空気を変えてしまうタイプの演者です。
斉木さんに一番近いのはやはり豊本さんなのではないでしょうか。
豊本さんはもともと飯塚さんとのコンビのアルファルファ時代はメインのボケを担当していたためそのボケ方が掛け合いの中で行われる会話劇的でありトリオになった過程でもその要領で小ボケの担当へスライドさせています。なので豊本さんは初期の東京03でそのメインのボケから小ボケに移行させるための微妙な調整をしていた記憶があります。アルファルファ時代は割とキャラクター性を感じさせないナンセンスな発想の言葉のボケがメインだったためトリオになった時、角田さんの性質と反比例するような人物像と方向性を見定めていた印象です。結果「何を考えているかわからない人物のリアリティ」という演技体型に落ち着いたと思います。アルファルファでやっていた大喜利性の高いナンセンスなボケ方を極めて現実的な描写に留めるといった仕上がりです。この佇まいの芸自体が斉木さんとかなり近いです。大ボケと小ボケの違いはあれどコントの雰囲気を形作るための重要なピースであります。角田さんはこのシュールさは持ち合わせていません。
きたろう→?
そして最後にきたろうさんです。
きたろうさんは実に不思議な立ち位置です。小ボケの担当でいながら一番その場全体の笑いの空気をコントロールしています。シティボーイズのコントの大竹さんが作る過剰性と斉木さんが作る演劇性を緊張感と捉えた場合その張り詰めた細い糸をチョキチョキ切っていくのがきたろうさんの緩和術の凄さです。時たまですがコントの中で「この人だけ演技してないんじゃないか?」と感じる事すらあります。それぐらい自然体で面白さを誘発させてきますしそしてそれはかなりテクニカルな事だと思います。演技なのにボケがボケに見えないし聞こえない。かと言って全く何も考えてないようにも思えないという複雑な意識体型をしています。おそらく笑わせるためには笑わせないようにするという事を感覚的に理解しているしその声の出し方などかなり身体的に染み込ませているのだと思います。
これはもちろん飯塚さんと同じ役割と気質です。
飯塚さんの場合はその笑わせ方のコントロールし方がツッコミという技術を駆使して行うためそういう点ではきたろうさんと真逆なのですが、飯塚さんのやっている事はフリに対するリアクションやコメント芸としての大喜利性をフレーズに収める能力などとは違いどちらかと言うと対象に対する「いじり」的な要素が色濃く出ています。ようは「揚げ足取り」的な部分があって明確にボケてないのにツッコミという形式に当てはめて気付かないようにいじっている瞬間が多々ありそれを自分たちの持ちネタであるコントにも応用している形になります。なので飯塚さんは演技という点に置いては一番自然体でありそれはツッコミ(に見せた対象への発露)に感情を乗せてゆくリアリティにかなり比重を置いてそこを中心に全体の演技体型を構築しているという事がわかります。その部分において声の出し方含めて身体的に染み込ませています。豊本さんはここまでその場全体の笑いの空気に対して自然体ではありません。
角田、豊本、飯塚とのポジション比較
さて、こうして個人個人を見ていくとむしろ気質としては表面的な役割分担とはポジショニングが異なる事がわかってきます。これを踏まえて当てはめるとつまり
大竹さん→角田さん
斉木さん→豊本さん
きたろうさん→飯塚さん
というような図式が出来上がり、先程の能や狂言の役割分担と比べるとツッコミである大竹さんが大ボケの角田さんに、大ボケである斉木さんが小ボケである豊本さんに、小ボケであるきたろうさんがツッコミである飯塚さんに、というようなシト、オモ、小アド、の役割が隣に一つずつスライドしているのが分かります。
時代によるトリオコントの質の変容
この東京03とシティボーイズの役割分担の変容とはどういう事なのでしょう?
僕はここにひとつの仮説を立ててみたいと思います。
それは
「コミュニケーションに置ける関係性と会話の比重が時代によって変化した」
という事です。
少し難しいような言い回しをしてしまいましたがようは面白さの種類が時代の中の人間関係と共に少しずつ変わってきているという感じです。
コントは、時事ネタそのものを喋る事で取り扱ったりする漫才と違ってそれを切り取って表現するので時代性を風刺したり時には世の常の普遍性をはからずとも体現してしまう事があったりします。その性質によって2組の時代それぞれの人間模様の違いが現れていると感じます。
シティボーイズのコント
シティボーイズは関係性に比重が置かれていると思います。
自分、他者、そして世界、それらが関係しあうその中で繰り広げられる会話劇。そしてさもその現実が存在するかのような表現を舞台上で行います。いわゆるコントというもののベタな設定や展開をさらにひと捻りした上でそれを演技性を駆使してより現実的に近づける「”日常の中の非日常”ではなく“非日常の中の日常”」を描いています。そしてシュールやナンセンスやペーソスをお笑いとして表現しようとした時「事実は小説より奇なり」というような事象に到達する瞬間が多々あったと思います。笑わせようと思った時に笑わせないようにするというコントに置ける演劇性というものはリアリティに近づけるあまり限りなくリアルになってくる。現実や日常そのものがある側面ではおかしくある側面では悲しくまたある側面ではそのどれでもないというような荒唐無稽である事そのものを気付かせてくれるものでもあると感じます。シティボーイズはそのおかしみそのものを演じ続けています。まさしく「思想のない演劇」より「粗相のないコント」です。ナンセンスな世界に生きるのは他ならぬ現実世界の我々であるという事でありその自分以外とどう関係してゆくのか?どう捉えてゆくのか?が肝の部分になっています。
東京03のコント
東京03は会話に比重が置かれています。
シティボーイズに比べるとその設定の現実感はグッと我々の日常の生活そのものを描いていると思います。もちろんその中に着眼点や展開や構成としてシュールやナンセンスやペーソスが孕まれているのですがそれはシティボーイズのように世界観そのものを覆って包み込むような不条理劇ではなく、本当に我々がその日常の中で感じる些細な心情や感情の襞のようなものを掬い上げてそれを丁寧に紡ぎ合わせる作業をしています。そしてそれは物凄くリアリティがあると同時にコントが到達する地点は日常のそれとは全く別の場所であり、会話を積み上げていく中で少しずつ掛け違えてゆくボタンはいつのまにか私達が普段目にしている日常のそれとは同じようだけど全く異なる人間関係を構築してしまいます。関係性を会話によって決めていくわけです。選択しなかった未来がこんなにもナンセンスでそれが今生きる現実とすぐ隣り合わせであるという事を物語ってくれます。関係性の一歩向こう側、それらを自分含めて言及する事で現状を確認してゆくというのが肝が部分です。
こうして言語化するとシティボーイズも東京03も感触としては現実の人間関係とそのコミュニケーションを反映しているわけですがその規模感というか描いている範囲、作業工程の順序などが違う事が感じ取れます。
この違いの理由はなんなのか?
これは「ツッコミの立ち位置と役割の変容」では無いでしょうか。
ツッコミ=時代の主観
ツッコミとは観客の代弁です。その立ち位置の変容は時代の主観の変容です。
つまり「世界そのものに対して常識的であろうとする意識でもって過剰性を駆使してツッコんでいた大竹さん」が、役割としては一番外側の大ボケの立ち位置に置かれ「過剰に常識的であろうとする事で暴走してしまう世界の住人の角田さん」になったという事の象徴的な表れではないでしょうか。
上岡龍太郎さんの番組によく呼ばれていた大竹さんは東京と大阪の違いについて「ポーズが通用するかしないか」という論点で語っていました。ポーズとは社会生活を営んでいく上での格好、振る舞いであり、誇張すればそれは演技です。その枠組みに収まりきる事の違和やもしくははみ出る事の共感を大竹さんはツッコミとして指摘していたと感じますしまた自分でも体現しようとしていた。そしてそれが本質的であると捉える事のできる時代でもあったのだと思います。
ただそれを今の時代に全力でやるとどうでしょう?
そうです。コントの中での角田さんになりますしそれはボケとして扱われるのが容易に想像できるのです。
つまり昔はツッコミだった気質の人は今は声の大きいボケとして扱われるという事です。
きたろうさんはその大竹さんの過剰性の隙を突くように自分はボケとして振る舞いながらもその核心を突いていたように思います。きたろうさんはその「ポーズを取る」事の外側に向かうのではなく「ポーズを取る」事のスタートラインに立たないという感じです。そしてこれは現代的な文脈で語ると飯塚さんの行なっているツッコミのような表現になるわけです。小ボケの方がいじり的なニュアンスを含んだままイニシアチブとしてツッコミの役割を得る事が出来るわけです。
ただ違いはその「ポーズを取る」スタートラインに飯塚さんは立たない事で対象に対して「いじり」的な核心の突き方を行なっていますがきたろうさんのようにそれをボケとして発言しているわけでは無いのでどうしても「ツッコミとしてのポーズを取る」事にはなってしまうという構造からは逃れる事が出来なくなっています。
それは時として「上手くいじられる」という一周回ったコミュニケーションを行使しなければならないシチュエーションにどう対峙するかという課題が常に横たわっている事の現れでもあります。誰かをいじる事は誰かにいじられるという事でもありそこには社会生活の中で繰り広げられる延々と続くコミュニケーションの理不尽さがこの世界にはナンセンスとして覆いつくされている事の確認でもあると思います。
また「ポーズを崩さない」事によりツッコまれるのを辞さない構えで世界観を強固にしていたポジションの斉木さんが、「ポーズを崩さない」事でツッコまれる事を若干拒む消極性で空気感を調整するポジションの豊本さんになっているのも興味深いです。
ふたつのコント風景の消失点
これが僕の思う
「コミュニケーションに置ける関係性と会話の比重の時代による変化」です。
「関係性」とはそのポーズの中に置ける自己と世界との対峙であり
「会話」とはその対峙の中で行われる世界と自己のやり取りである
とするならば
シティボーイズはその自己と世界の対峙の中でナンセンスを描き
東京03は対峙する相手とのやり取りの中からナンセンスなこの世界とそこに居る自分を描こうとする。
この「関係性」と「会話」のどちらに重点を置くかで描かれる視点が
「自己と世界」なのか
「世界と自己」なのか
ナンセンスのあり方が異なるのだと思います。
その比重が時代によって変容した事の表れをシティボーイズと東京03ははからずとも縫い合わせて繋いでいるのだと感じます。高度経済成長期前後の肩書きや資本にアイデンティティを奪われる事への反発がディスコミュニケーション的な感性の賞賛へと結びついていった時代から、ネットの躍進に伴い情報化社会の進んだ中でお互いがお互いを監視し合うような状態がコミュニケーションの形式に正解を求めてしまう全体の雰囲気に向かっていく時代へと、その流れを両者コントというものに内在化させている気がします。そしてそれはトリオという人数だからこそ集団の最小単位として社会に生きる我々の群青劇のそのクオリティを精錬させることができているのではないでしょうか。
「関係性」に置けるナンセンスな世界を描くコントはチョップリンやラーメンズ、THE GEESEなどに受け継がれていると感じます。
「会話」に置けるナンセンスはまたどこへ連鎖してゆきそしてそれがどういった形で構築されてゆくのか非常に楽しみです。
ちなみにですが東京03の「会話」に置けるナンセンスの極地を密室性とともに高く表現されているのは東京03第8回単独ライブ 機微 で披露された「放課後」というコントだと個人的には思います。
ネタバレになってしまいますがこのコントはいじめ問題の当事者の自我を笑いの主軸に置いて描かれています。こう書くと重々しいテーマに聞こえてしまいますが仕上がりとしてはとてもポップで笑えますし普通に面白いと思います。ですがはからずともその関係性の中でのコミュニケーションに置いて会話によりその歪な自我が露呈するというなかなか毒々しいものをコントととしてさりげなく仕上げていると感じます。そしてその中で豊本さんの立ち位置がとても重要です。時代によって変化する主流の笑いの次の中心点は豊本さんのこの「ポーズを取り続けたまま会話をする事で自我そのものが変容してしまう」という点をどう描くのかがひとつの課題になりそうでとても興味深いです。
長々となってしまいましたが、これらが僕の感じている東京03とシティボーイズとの世代間での主流の笑いの変化です。大竹さんの唱える知の限界とはこういったコミュニケーションに置ける関係性と会話、そして自己と世界の対峙、社会生活を営む我々が目にする現実を紡ぐ街中で騒めく人間模様を含む森羅万象そのもののような気がしてきました。これらがどう現在進行形で繋がってゆくのか2組の関係性自体がまたコント的でありとても楽しみに感じます。
最後に特に意味は無いですが豊本さんの歌と斉木さんの歌をセットで並べて終わりにしたいと思います。
こうして見ると人の「面白さ」そのものに変化というものはあまり無いのかもしれません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?