
長崎の空の下で(前半)
とある文章が、友人から送られてきた。
遠藤周作という小説家が書いた一節だった。
踏絵に足をかけていった人びとの話は、私にとってけっして遠い話ではなかった。むしろ切実な問題だった。<信仰>などと言うと縁遠い話になるのなら、<自分の生き方や思想・信念を暴力によって歪められざるをえなかった人間の気持>と考えてみればどうだろう。誰にでも痛いほどに分かる問題のはずだった。 踏絵の足指の痕は、他人事ではない。
彼が長崎で「踏絵」を見たのち、東京に帰ってから執筆した文章であるが、友人から送られてきたそれを読んだとき、僕は頭を強く殴られたような衝撃を受けた。
信念を突き通すこと。それは理不尽な構造や大きな権力に直面したときに、最も大きな力となる。信念に基づいた行動は、苦境に陥った自らのみならず、同じように苦しむ他者を助けることにも繋がる。
しかし過酷な状況に置かれたとき、誰しもが自らの信念を強く持ち、権力の下であろうと表立った行動を続けることができるのだろうか。世の中の理不尽さに対して、誰しもがNoを突きつけることができるのだろうか。はっきりと物を言い、大きな権威に抵抗することができるのだろうか。
従ってしまった人たちの内面をどう考えるか。
この世界に生きる一人として、他人の内面への想像力は切実な問題であった。自分以外の他者に寄り添うために、権威に立ち向かう言葉を形作るために、そしてそれを他者へと届けるために。
この問いは避けて通れなかった。
そんな大きな問いに対し、友人から送られてきた遠藤周作の文章からは一縷の望みを感じることができたのである。それは他人に寄り添う優しさ、更には弱さを直視する勇気ともいうのだろうか。
自らの信念を歪めざるを得なかった人間への想像力、そして、そんな他人を他人事とせず心に留め置く思慮深さ。
そんな文章を書く遠藤周作に、僕は興味を持った。その寄り添い方、在り方、言葉の遣い方。彼がこの文章を書くことになった長崎で、何を見て何を感じたのか。
更には遠藤周作の目を通して、長崎という土地にも関心を持つようになった。これまでの長い歴史の中で何が積み重なっているのか。人々のどのような思いがそこにあったのか。それを自分の身体で知りたかった。この目で見て、この心で感じたかった。
夜行バスで大阪から長崎。それは、二十六聖人が処刑のために大阪から長崎へと歩んだ道のりを同じであった。
↑後編です。