23世紀の愚痴
「今、生きてる人間にあまり興味がない」と嘯くと、どういう意味なのか分かりかねて困惑する顔が見える。
実際問題、僕の興味はずっと先にあって、そのずっと先の未来、もしかしたら僕がもう生きていないかもしれない未来の世界で、どう生き残るか。そればかりを考えている。
テレビの出現はラジオスターを殺した。でも、テレビスターだって、人はすぐに忘れてしまう。昨日まで当たり前のように毎日テレビに出ていた人が、ある日を境にかき消されるようにいなくなっていく。それでも世界は回っている。
僕の肉体は色々な事情があってわずかな時間で滅んでしまう可能性が高いが(まだ不老不死を諦めたわけではない)、この文章は残る。僕が大量の文章を書き残しているのは、これから生まれてくる未来の読者のためだ。まあ、流石に僕でも読みきれない量の文章を、未来の読者がどうやって読むのか興味はある。とはいえ、今の読者だって、過去数年分の記事をAIを使って読もうとしても不思議はない。
幸運にも、今生きている人たちは非常に大きな歴史の転換点にいる。
AIはコンピュータを過去のものにするだろう。
以前、僕は母校の電気通信大学のホームカミングデーで、「コンピュータのなくなる日」という講演をしたことがある。
その講演の中で、僕はパイプ椅子の写真を出した。
「これを見てなんと答えるか。誰だって椅子だと思うだろう。鉄だと思う人はいない。同じように、コンピュータがコンピュータのように見えるのは、それがまだ、材料として浸透していないことを意味する。我々は全力でコンピュータが人々の意識からなくなる日を創り出していかなければならない」
とかなんとか。
しかしその日は刻々と近づいている。
AIが代わりにコンピュータを操作してくれるなら、どうしてあの複雑極まりない、不愉快な機械を直接こねくり回さなければならないのか。
若者の間ではすでにCapcutというアプリで動画編集するのが常識らしい。
どうせ簡易的なものだろうと思ったら、これが世界最高レベルに出来がいい。
YouTubeとかTikTokとかのショート動画を、どんなに手間をかけてあんなに凝ったエフェクトで作ってるのだろうと不思議だったのだが、なんのことはなかった。Capcutを使っているだけだ。
字幕は自動的に作ってくれるし、テロップに対するアニメーションやエフェクトも目眩がするほどたくさんある。
以前、テレビ番組を何本か作ったときに、朝8時に編集室に出かけて行って、翌朝8時までかかって編集する現場を見た。
僕はプロデューサーの立場だったから、付きっきりでいなくていいですよ、と言われたものの、面白そうだから付き合ったのだが、たった30分の番組を編集するのに、丸24時間かかる理由がわかった。
ディレクターはソファで寝ていた。
文字通り、グーグーイビキをかいて寝ているのである。
そこに編集マンが声をかける。
「山田さん(仮名)、できました」
すると、山田ディレクターは寝ぼけ眼で目をこすりながら「アイッ」と掛け声をかける。
数秒の動画が再生される。
そこで山田ディレクターがポンッと喉を鳴らす。
編集マンがピタッと止める。
「3コマ戻してカット、あと、人物のシルエットから虹みたいに枠出して」
そう言うと、山田ディレクターはまた眠りにつく。
編集マンが隣のデザイナーに話しかける。
「この人物のシルエット抜いて、そこから枠を重ねるみたいに虹色で7層重ねて」
デザイナーは「分かりました」とだけ答えて、画像編集ソフトを開く。手作業なのだ。
デザイナーが小一時間ほどで作業を終え、またディレクターを起こす。
「その色ダメ、緑、黄色、赤、青にして」
またディレクターが眠りにつく。
確かに、こんな仕事のやり方だったら眠りながらやらないと仕方がないだろう。編集マンとデザイナーは眠るわけにいかないので、三交代のシフト制だ。変わりはいくらでもいる。そういうロジスティクスになっている。代わりが効かないのはディレクターだけだ。それさえも、途中から引き継ぐことすらある。
ここで行われていたことが、Capcutは全自動でできる。
日本最大手の編集室を持っていたイマジカが、編集室事業を縮小するという。
確かに、昔は何億円もする編集機が必要だったのが、スマホで簡単に編集ができるようになったんじゃ、商売あがったりだ。やめたくもなるだろう。
僕は長い間、「動画の編集作業」を楽しいと思ってやっていた。
でも、毎日のようにしょうもないYouTube動画を出し続ける(このモチベーションは、単に生存確認みたいなものであって、内容に意味があるわけではない)のは結構面倒くさいなと思っている。ところがCapcutは僕が「面倒臭い」と思っていた作業をほとんど代行してくれる。ちょっとポップすぎる気もするが、時代はポップなのかもしれない。
これで編集室の必要性はさらに下がった。
多分、もう編集室はいらないという話になるだろう。遠からず。そうすると、編集マンはどうすればいいのか。Capcutを使う人になればいいのか。
こないだゴールデン街で、漫画家の友達が「見てみてー!こないだの旅行を動画にしたのー」と見せてきた。「編集とか初めてやったからよくわかんないんだけど」と付け加えてきたが、僕はそのクオリティに驚愕した。
もちろん、売れっ子漫画家だから他の人よりセンスはあるにしても、普通に面白いし普通によくできてる。こんなのを動画編集の素人が出してくるってのは、もう時代が変わったと言うことだろう。
Capcutの強力な機能のいくつかは、AIによって実現されている。
自動的に字幕を起こしたり、テロップを入れたりするのもお手のものだ。
子供の頃、ずっとこう言うことがしたかった。
今の子供は恵まれている。まあ僕が子供の頃だって、昔の子供よりは恵まれていたのだろう。
つまり、未来は、子供の子供、そのまた子供たちによって作られていく。必然的に。AIではない。
だから、子供の子供がどう生きていくかに興味がある。今から200年後、23世紀だ。その時代にも、人は文字を読んでいるのだろうか。
文字の歴史は古く、少なくとも我々は1000年くらいは文字を読んでいるはずだが、全ての人が文字に触れるようになったのは、かなり最近だ。
紙が発明されたのは、紀元前3世紀だが、広く普及したのは江戸時代頃。17世紀から19世紀にかけて紙が普及した。と言うことは、実は人類が誰でも紙にアクセスできるようになって、まだ200年ほどしか経っていない。
だから、今から200年後に紙があるかどうか心配するのは、それほど滑稽なことでもないのだ。
ちなみに、この「紙はいつ生まれた」とか「いつ普及した」と言うことに関して、いつもなら自分で検索して調べるのだが、今日はChatGPTに音声で聞いたことをそのまま書いた。僕の記憶とも齟齬がないので概ね合っているだろう。
図書館が広く一般の人でも入れるようになったのは、19世紀後半から20世紀初頭。最初の市民図書館の一つはイギリスのマンチェスターにあるチャタム図書館で、1653年に作られたらしい。日本では仙台の青柳文庫が1831年が起源とされる。
これもChatGPTに言われたので、念の為調べたが、ざっと検索した限りでは間違いはなさそうだ。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajsls/23/2/23_49/_pdf/-char/ja?utm_source=chatgpt.com
さて、つまり図書館は少なくとも360年前からあり、存在している。
図書館を作った人々は200年後、300年後のことを想像していはずだ。もしかしたら永遠に、図書館は必要とされるものと考えていたかもしれない。
図書館の存在が、人々の知的能力を引き上げるのは、ほとんど自明に思える。
図書館が充実している街とそうでない街では、明らかな学力差が生まれる気がする。そもそも、本が身近になければ、興味が湧かない。
なぜ今、慢性的に動画が流行っているか。
iPhoneが登場し始めた頃、親たちがiPhoneに子供の相手をさせたからだ。
子供の頃から最も身近な自分を楽しませてくれるものは動画であり、動画の中のYouTuberたちだった。それが大人になれば、そのまま動画が最良のコミュニケーションツールになるのは必然である。
我々世代にとって、それはテレビアニメだった。我々の頃、アニメは貴重品だった。週に一回しか話が進まない。たった正味20分の話がもどかしい。今、見ようと思えば一晩で1クールのアニメを消費することができる。
これから生まれてくる子供たちにとって最良の相手は明らかにAIになるだろう。AIは子供を裏切らない。都合のいい嘘をつかない。虐待しない。そんなふうに作ることができる。
だからAIは新しいメディアなのだ。
この「AIは媒体である」と言う認識を持てるかどうかが、大切なことだ。そして、「媒体」と言う言葉を、どこまで深く理解するかだ。
多くの人が、言葉という媒体を深く考えずに使っている。
言葉という媒体の潜在能力を無視しているのだ。
言葉は、お金よりも遥かに強い。時には核兵器すらも超える力を持つ。そのことを忘れている人が多い。
同様に、AIという媒体もまた、非常に強い力を持っている。文明を永久に変容させるほどの強大な力だ。
なぜなら、AIは最強の媒体である言葉を操ることができ、さらに言葉だけでなく画像や動画、音声までをも操ることができる。
言葉や動画、音声によって人々の行動様式は簡単に変化する。
ある時代は、お昼の情報番組で取り上げただけの食材が全国のスーパーの店頭から消え去るなんてことが実際に起きていた。
嘘か本当かもわからないのに、ある時はオクラを食べればがん予防になると言い、翌日には茄子を食べればボケ防止になる、みたいなヨタ話をお昼からやるものだから、テレビに齧り付いていた専業主婦たちは、こぞってそうして紹介された食材を求めた。
この話は、媒体の持つ複雑な連鎖関係を示している。
まず、オクラが癌予防に良い、と言う情報を、テレビ番組制作スタッフがどこからか仕入れる。全くのでっち上げかもしれないが、とにかく何かを仕入れる。次に、それをテレビで見た主婦たちが、オクラを夕飯に出したくなる。実際に効果があるかどうかは実はどうでもよく、「オクラはガン予防にいい」と言う話を、夕飯の時に家族でしたいのだ。
実際、僕の実家の食卓には、毎晩のようにみのもんたが取り上げた食材が並んでいた。テレビに影響を受けすぎている。今と違って、主婦はインターネットにアクセスできない。その方法がないではなかったが、大半の主婦はインターネットの存在など知らなかった。まさに、平成元年ごろのごく普通の日本の食卓である。
重要なのは、「オクラは体にいい」と言う情報そのものが媒体になっているところだ。なんの媒体なのかといえば、「家族団欒」と言う設定を盛り上げるための道具である。
本当にオクラががん予防に効くのだとしたら毎日オクラを食べればいい。
この話のオチは、笑顔でがん予防だ認知症ケアだと言って昼の番組で言われるがままの食事をしていた家族のうち、両親二人と祖母一人は全員ガンになり、祖母は認知症になって死んでいったと言うことだ。
別にお昼の情報番組がデタラメだと言いたいわけではない。日本人の1/3は必ず癌になるだけだ。ちなみにこの三人は三人とも癌が原因で死んではいない。両親はまだ元気に生きている。
ただ、「癌予防になるらしい」と夕食を盛り上げる媒体として、オクラが使われただけだ。
同じことは、AIにも起き始めている。
僕は最近、見知らぬ土地に行くとまずChatGPTに店を聞くようになった。
ChatGPTの勧める店は少ない。少ないが、確かに食べると美味しいのだ。
ChatGPTが普及したおかげでGoogleの検索トラフィックが激減しているらしいが、それも無理のないことだろう。
調べ物をするときにわざわざGoogleで、アホみたいにずらっと並んだ検索連動広告に引っかからないよう注意深く行動するくらいなら、最初からChatGPTを使った方がいい。
実際、最近の検索連動広告はほとんど全部詐欺まがいにすら見えてくる。
ひどいと思ったのは、「capcut」で検索すると出てくる「capcut公式」と言うリンクで、これがスポンサーサイトなのだが、真っ赤な偽物サイトに誘導されるのである。まあFacebookも似たようなものだ。
この手の誤誘導、誤クリックが今のインターネット経済圏を全体的に支えていると言う現実は、21世紀初頭がまごうことなきディストピアであることを示している。
ディストピアに住む我々は、意外と日々それなりに幸せを感じているが、それはオルダス・ハクスリーの描いた「素晴らしき新世界」そのものかもしれない。
200年後、23世紀。僕はどんな愚痴を言ってるのだろうか。
いつまで経ってもバーナード系ヘの航路が開拓されないことに文句を言ってるのか。公共AI利用料が値上がりしたことに嘆いているのか。
抗老化促進剤の配給が遅れて肌が50代に戻ってしまったことに憤っているかもしれない。まだ職場の人間関係に悩んでいる人に何かを言ってるのかもしれない。
まあそうしたインフラができるまで僕が生き残っている保証はないが。
どちらにせよ、僕が興味があるのは今の生活ではなく、23世紀の人々の愚痴だ。僕の頭がまともなのはせいぜい後10年くらいだから、一日一日を大切に生きて頭を使っていきたい。