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ミシュランなんかにゃわかるまい。俺のジェダイ神殿、埼玉屋

この店について敢えて言及することをずっと避けてきた。
本当に素晴らしいものは、素晴らしいままそっとしておくべきものであり、誰にも言わず心の奥にしまっておくものだと思っているからだ。

とりわけこの店は、無神論者の僕にとって宗教的聖地に限りなく近い。
神道における伊勢神宮、仏教における天竺、ジェダイの騎士におけるジェダイ神殿、それが埼玉屋だ。

グランメゾンパリという映画を見に行って、ミシュランとかほんと意味ないなと思いを新たにした一方で、どうしても思い出されるのはこの店のことだった。だから思い切って書いてしまおうと思う。消すかもしれん。それくらい、このお店は僕にとって特別であり大切な店なのだ。

コロナ前は客の半数以上が外国人旅行者で、どこでこの店の情報を知ったのかと聞いたら、恵比寿ガーデンプレイスにあるウェスティンホテルのコンシェルジュに、「東京で一番うまい焼き鳥屋はどこか」と聞いたらここを案内されたのだ、と言っていた。

だからタクシーがどんどん横付けして行くのである。

コロナが過ぎて、ウェスティンのコンシェルジュが代替わりしたのか、最近はそういう明らかなインバウンド客というのは見ないのだが、時折ゴールデン街で観光客に同じ質問をされたら、迷わずこの店を推す。

実際に行った連中が、あまりのことに感動してゴールデン街に戻ってきて「最高の店を紹介してくれたお礼に奢る」と言ってくれた。それくらいすごい。

この喜びよう

大切な人との会食には必ずこの店に行く。
MITの石井裕先生も、水口哲也さんも、埼玉屋のファンである。

奥が大将。我が師である

埼玉屋がなぜ素晴らしいのか。
全ての料理が美味しいのはもちろん、彼らが家族ぐるみで全力で客をもてなすこと、価格も含めてサービスし尽くすこと、誠実であること、それらが全て組み合わさった芸術サーカスを構成しているからだ。

これは世界で唯一無二、この店でしか味わえない芸術である。

店に入る前から心構えが書かれている。新たなる食の喜び!

そして店に行くたびに、新しい何かが加わっている。決して立ち止まらない。至高のメニューの数々。常連になればなるほどのめり込んでいく。

ここの大将の接客哲学が素晴らしい。その内容を書くのは野暮なのでそんなことはしないが、後にも先にも「野暮だからそんな話をしない」と思えるほどの鉄人はここの大将だけである。

僕は本当に大切なお客さんをもてなすときは、この店に昼の12時から並ぶ。
昼の12時くらいから並ぶと、「トップ」という特別なポジションになれる。つまり、一番に並ぶということだ。場合によっては10時くらいから並ぶ。平日でも関係ない。これは儀式なのだ。

名探偵コナンとシティハンターのプロデューサー、諏訪さんと

4時のオープンまで、4時間ある。ここの行列に並びながら、本を4冊書いた。書くたびに大将にプレゼントしていたのだが、あるとき、大将が僕の本を読んでこう言った。

「こりゃね、俺の人生そのものだよ」

こんなふうに僕の本を読んでもらえるのか、と感動した。
自分が何気なく書いた本が、大将の心に深く共鳴し、"わかってもらえた"という体験は、普通ない。

この店では料理の写真を撮ることは固く禁じられている。
野暮だからだ。

高校の同級生の女子たちと飲みにきたとき、「こんなに並ぶの?」と驚かれた。

「でも大丈夫。いざ食事が始まったら、話しをする余裕なんかないから」

行列に並んでいる間に近況報告を済ませてしまう。
ここの売りはなんと言っても「レモン」

レモンサワーである。
究極のレモンサワーと言ってもいい。

普通の店では原価割れして絶対に出すことができない完璧なレモンサワーだ。

このレモンサワーを真似しようとした店は数あれど、誰一人として完全再現には至っていない。同じ材料を使っても無理なのだ。

他にも、アブラ、シロ、上レバー、タン、そして究極のネギマ。常連でも年に一度、お目にかかれるかどうかわからないハンバーグなど、とんでもないメニューが目白押しである。

特に冬、この季節には最上級の「にごり酒」が飲める。
このにごり酒が飲みたくて、僕と映画好き仲間の樋口真嗣で成田の蔵元(成田空港からさらに電車で一時間くらいかかる)まで行ったことがあるくらいだ。

先月は忙し過ぎて全く埼玉屋に顔を出せなかったのだが、昨日は久しぶりに年賀のご挨拶に伺うことができた。

そしてやっぱり昨日も最高の夜になった。
なんて素晴らしい場所だろう。

読者諸兄にもぜひ訪れていただきたい。
京浜東北線で、秋葉原から20分の東十条南口から坂を下って右に曲がればすぐ。

最初は「遠い」と思うかもしれないけど、これがあら不思議、一度通うと遠く感じなくなる。むしろ、埼玉屋に向かう京浜東北線の車内から、すでにワクワクのエンターテインメントが始まっている感じがするのだ。

そして帰りはもっと早い。記憶がないうちにあっという間に家に着く。
その上、ここが肝心なのだが、安い。
申し訳ないくらい安い。

でもこの「安さ」も含めて、大将が考える「芸術」の構成要素なのだ。
大学生でも楽に払える。一人数千円で信じられないくらい楽しい思いができる。ここまで書いちゃうと申し訳ないが、本当にすごいのだ。

コスパ、みたいな安っぽい概念で捉えないでほしい。これは、「大衆酒場」という道を極めた、芸術の一つの到達点なのだ。

外国の人にも間違いなくお勧めできるが、基本的に出てくるものが、牛、豚、鶏肉なので宗教的な問題で食べれない人がいるかもしれない。なんせ「やきとん」屋だから仕方ない。

「埼玉屋」という名前だが、これは初代が埼玉出身のため。というか、「やきとん」という文化は埼玉が発祥なのだ。

しばらく見ないうちに、大将も女将さんもいい歳になられていた。

大将が元気なうちに、ぜひこの至高のサービスを楽しんでいただきたいという思いで、絶対に書くまいと思っていたこの至高の店を推薦したい。

ミシュランの星は、一つ星が「近くに行ったら寄るべし」二つ星が「遠回りしてでも寄るべし」三つ星が「来店すること自体が旅の目的になる」というものだが、埼玉屋はこの基準ではその全てを上回る。

敢えて言えば、「来店することが人生の目的になる」とでも言おうか。

「グランメゾンパリ」を見て、同じようなセリフが出てくるが、全く違う。断言してもいいが、パリの三つ星レストランと比べても埼玉屋の方がはるかにすばらしい。ミシュランは来るな。タイヤだけ売ってろ。

ミシュランは、頭が悪いことに、そもそも金額で線引きをする。
客単価1万円以下の店を測るビブグルマンという基準があるが、「価格以上の満足感があるかどうか」というアホみたいな基準で測っている。いくらなんでも失礼だろ。

ちなみにミシュラン東京を俺は評価してない。ミシュランを崇拝してる奴らも俺は馬鹿だと思ってる。パーカーポイントもそうだが。俺が知ってる本当にうまい店はどれもミシュランに発見されてない。もしもミシュランの「覆面調査員」とやらが埼玉屋に来たとしても、最高のサービスは受けられない。日本には「常連になっていく」と言う独特の文化がある。それを無視して点数だけつけると言うのは、「金でなんでも解決」しようとする西洋的発想だ。この発想について、一言で言えば品がない。誠意がない。金しかない。9000万円払ったって許してくれないものは許してくれない。

「金さえあればなんでも買える」と言うのは成金の卑しい妄想に過ぎない。世の中には誠意を尽くさなければ手に入らないものがある。例えば埼玉屋のタタキだ。埼玉屋はメニューにあっても、頼ませてもらえない。金を倍払うと言ったら、怒って追い出されるだろう。この店の通貨は誠意と敬意なのだ。

俺は埼玉屋さんに通った回数は100回じゃ効かない。10年以上通ってる。大将とパリで飯を食いに行ったこともある。一時期は毎週土曜日に4時間以上並んでいた。それでも、今でも俺は「これ、注文させていただいてもよろしいですか」と聞く。すべてのメニューが貴重品なのだ。

パリのマレ地区にて

高くて美味いのは当たり前(まあ美味くない店に星ついてるケースも多いけど)。

でも安くても、高くて美味い店より遥かに美味い。これこそが芸術と呼ぶべきものではないか。

俺は一人のプログラマーとして、予算が無尽蔵にあったとしても、無能な10万人月の"エンジニア"どもがまともに動作させられないシステムを構築する例をいくらでも見てきた。

本物のプログラマーは、費用対効果でものを考えない。常に最高の結果を出す。当たり前だ。自分しかできないのはそれなんだから。

なぜ、食い物に同じ考えが通用しないと思うのか。

もっと言えば、食い物というのは、結局、仕入れである。
仕入れとは何か。

人格だ。

グランメゾンパリで唯一評価したいと思えたのは、キムタクがパリの市場で最高の材料を手に入れるのに苦労するシーンだ。意外と、このシーンを描いた作品は少ない。というか、初めてかもしれない。飲食もの映画の金字塔といえば伊丹十三の「たんぽぽ」だが、それですら食材の仕入れについては言及していなかった。

ところが、本当にうまいものを出そうと思ったら、仕入れが圧倒的に重要なのだ。当たり前だよね。

AIで言えば、最高のGPUを何個持っているか。最高のGPUが最大限活きるマシン構成になっているか。そのための部品をいくつ揃えられるか。

去年のSIGGRAPHでマーク・ザッカーバーグがジェンスンに「GPUをもっと売ってくれ」と懇願しても、ジェンスンはニヤニヤ笑いでかわしていた。「お前に売るGPUはもうない」というわけだ。

去年と一昨年、日本企業はGPUが調達できなくて煮湯を飲まされた。日本中がGPUが足りないために国際的競争力が激しく奪われた。明らかに経産省の失策(GPUより量子コンピュータに投資した)だが、今年からやっとまともなGPUがABCIに入る。やっと勝負できるが、もう敵は数千歩先を行っている。

同じように、牛肉にしろ豚肉にしろ、仕入れがものをいう。
いい肉を仕入れるには、市場の人との人間関係を深く構築しておかなければならない。

なぜ東京は「老舗」が強いか。
市場の人との人間関係を何代にも渡って構築しているからだ。

「あそこに下手なものは出せない」と思えばこそ、最高の食材が回ってくる。なぜ、地方から東京に出てきて焼肉屋をやろうとすると失敗するか。食材が調達できないからだ。

これは寿司屋も同じだ。
なぜ寿司屋で修行する必要があるか。
市場の人間との人間関係を構築するためである。
だから訓練トレーニングではなく「修行」というのだ。
テクニックだけあればいい寿司屋が開けるわけではない。
人間関係がなければ、最高の食材は手に入らない。
最高の食材がなければ、最高の食材を活かすテクニックも磨けない。

埼玉屋がなぜ最高か。
埼玉屋は常に最高のサービスを提供するからだ。

天、地、人。
いうまでもなく運を引き寄せるのも、強固な地盤を築くのも、その起点は人だ。

なぜ新興のレストランが、「産地直送の肉」を使うのか。
品川の食肉売り場でいい肉を売ってもらえないからだ。

「いい食材」は金では決して手に入らない。
だからミシュランの基準は間違っている。

「貴族が食うものがいい飯」という西洋的価値観に汚れている。
日本は殿様だろうが武士は儒教が中心だから精進料理がメインで、肉を食うと言っても鶏肉くらいしか食わなかった。あって兎肉だ。

いろんな食材を食ってきたのは、武士階級以外の人々だ。
だから和食というのは、美味ければ美味いほど、庶民の味に近づく。蕎麦がいい例だ。

ミシュランの星がつくような価格帯の蕎麦屋というのはあまりない。あったとしても、蕎麦そのものは大して美味くない。ミシュランは恥ずかしげもなく蕎麦屋にビブグルマン(コスパ良し)の評価をつける。いくらなんでも失礼だろ。お前ら蕎麦のことなんか何も知らんじゃないか。お前らにかえしの何がわかる。水回しの何を知ってる。何でもかんでもバターで同じような味にして食ってる連中が、日本人の食生活なんかわかるものか。コスパとかしょうもない基準で人の店を測るなと言いたい。

「いい食材」は決して高い食材のことを言うのではない。最高の食材を言うのだ。

そしてそれは、値打ちがわからない人にはいくら札束で頬を引っ叩かれても、絶対に売ることはない。市場の人間だってプライドがある。嫌いな奴にいい食材なんか売りたくない。その違いもわからないんだったら、ゴミみたいな食材を売りつけてもどうせわからない。わかるやつのところにだけ、本当にいい食材が渡るようになっている。

グランメゾンパリは、その点だけはリアリティがあるし見どころがある。
(むしろ二級の食材で二つ星を取り続けていたキムタクは天才すぎると思うが)

「日本人は行列が好きだ」と言われる。
そんなことを言う外人や、外人かぶれの日本人は、根本的なことを理解していない。

なぜ俺が埼玉屋に4時間並ぶのか。
それは、「大衆居酒屋」と言う芸術を構成する上で、大金を払えない以上、そうするしか店に対する敬意を表現する方法がないからだ。

こちらが襟をただせば、それに相応しいもてなしをしてくれる。
それこそが店と客との対話を仕上げる瞬間なのである。だから、「トップ」は特別なのだ。

埼玉屋についてもっと知りたい人はこのクロアチア人YouTuberの動画を見よう