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HARVESTELLAシナリオの意外性 

 HARVESTELLAのゲームシステムは確かに、優れているとは言い難いものだ。
しかしながら、少なくともそのシナリオは、私を驚かせ、プレイして良かったと思わせる新たな切り込み方をしていた。

 HARVESTELLA(ハーヴェステラ)は、2022年11月4日にスクウェア・エニックスから発売されたファンタジー×生活シミュレーションRPGだ。しっかりとしたレビューに関しては、以下のものを参照して頂ければ良いかと思う。


『ルーンファクトリー』シリーズで見られるような、農業生活とRPG的な冒険の融合を試みたタイトルの1つであり、美しいアートワークや音楽、ストーリーが賞賛されている。しかし、チープさの残る戦闘システムや人物グラフィック、生活部分とRPGのシナリオ部分との整合性の無さなどから評価を落とし、「駄作とまでは言えないけれど良作と声高に言えるような作品でもない」と言った評価が大勢であるようだ。
 はっきり言って、この評価は正しいと私も思う。刺さる人には刺さるが、人を選ぶ。私のように本作を楽しくプレイした人でも、「何かが噛み合っていない」ような感覚は多かれ少なかれ感じたのではないか。

 しかしながら、発売直後のレビューは未購入者に向けて書いている面が強く、メインシナリオが良いとは言っても「具体的にどこが良いのか」「何が優れているのか」はハッキリしない。
 このゲーム全体について良作であると声高に主張することは決してないが、

「このゲームのシナリオ部分単体は確かに優れている」

とは自信を持って主張したい。
 演出がチープなのは確かだ。しかし今日では特別珍しいものではない「プレイヤーの選択」を用いるギミックを、我々プレイヤーの「視点」や「立場」を誘導することによって調味し、シナリオ制作者が「我々自身に対して」有効にメッセージを伝えることに成功している。それは、「選択」を強いるゲームシナリオに対して私が以前から感じていた不服を抱かせなかったという点において——意外性を持っていた。そのことを簡潔に伝えられればと思い、キーボードを叩いている。


ゲームにおける「選択」は誰の意思によるものか?

 以下の感想は下記の記事から大いに影響を受け、参考にして、執筆されている。数年前の記事だが、初めて読んだ当時17歳だった私にはとても新鮮だったし、全面的にでは無いにしろ、今でもほとんどの部分で賛同できる。

 ビデオゲームの特徴の1つは、その「相互作用性(intaractivity)」であるということは、かなり以前から言われていることだ。その相互作用性が色濃く出る演出が、「プレイヤーによる選択が、ゲームの展開に影響を及ぼし、プレイヤーの体験を変化させる」というものだ。
 最近(もう最近とまで言えないかもしれないが)でいえば、『UNDERTALE』が話題になった。出現する敵キャラクターに対し、「FIGHT(たたかう)」「MERCY(みのがす)」のどちらの行動を取るかによって、物語が大きく変化する。画面の前にいる私自身に対して語りかけ、心を穿ってくるキャラクターの台詞は心に深い爪痕(傷痕かも?)を残した。
 『UNDERTALE』は明確に選択肢を表示させるようなゲームではない。逆に明確に選択肢を表示させるゲームでは『Detroit: Become Human』が有名だろうか。

https://gigazine.net/news/20180525-detroit-become-human/ より

 私自身の選択で大きな事態が動くという実感が生んだ「選択の中の緊張感」を、今でも鮮明に覚えているし、上記のスクリーンショットを見た時にも手に汗握る感覚が戻ってくるようだった。

 だが、これらのゲームにおける「選択」は完全に「私たち自身の選択だ」と言えるのだろうか。私たちが『UNDERTALE』をプレイして、Torielを手にかけることは本当に私たちの自由意志による行動なのだろうか。我々の残酷な好奇心が優しい彼女の命を奪ったのは確かだが、報酬を用意し、その好奇心を喚起するゲーム側に一切の責任がないと言えるのか。
 そして、『Detroit: Become Human』の「選択」は更に「私たち自身の選択」とは異なってくる。
 このゲームには一応の「最良の結末」がある。もちろん「私自身の選択によって、私だけの物語を編む」ことも、このゲームの正しい遊び方だ。しかし「最良」がある以上、私たちはそれを目指そうとしがちだ。
 反体制組織のリーダーとしては目の前の人間を殺すべきかもしれないが、最良の結末を迎えるためには道義的な選択をするべきなのかもしれない……これと似たようなことを、一瞬でも考えないか。この時点で、私たちの選択は、真に私たちの自由意志によるものでは無い。
(もっとも『Detroit』に関して言えば「我々の自由意志による選択」である必要はほとんど無いため、的外れな議論ではあるだろう。『Detroit』は我々に未来について考える契機を与えてくれるゲームだが、「私自身」に対する視線が確実に存在する『Undertale』とは異なり、「私自身」が登場するゲームでは無いのだ)

 つまり、我々がゲーム内で行う選択は我々の自由意志に近いと共に、ゲーム側も「これは自由意志によるものだ」という錯覚を与えるために苦心しているが、逆説的に少なからず「ゲーム側の意図に縛られている」。


※以下は全編にわたってネタバレに一切の配慮をしていません。


ハーヴェステラの世界観

 このゲームのシナリオを大まかに説明する。知ってる人や、興味のない人、要点だけ知りたい人は次の章までグッとスクロールしていただきたい。

 舞台は、「シーズライト」と呼ばれる4つの巨大な構造物によって司られる豊かな四季と、四季の合間に来る「死季」(生命にとって有害な物質が降り注ぐ文字通りの「死の季節」)を有する星。主人公は、そんな「死季」の日に記憶を失った状態で目を覚ます。
 ひとまず近隣の村に保護され、持て余されていた土地と小屋を得て生活することになるが、そんな折、シーズライトの側に隕石のようなものが落下する。その隕石の中には近代的な装備に身を包む科学者の少女「アリア」が倒れていた。未来から(妙にファンタジーな部分はあるものの)おそらく中世と思われる時代にタイムスリップしてきたのだ、と主張するアリアと共に、各地のシーズライトで起こる異変の解決のために仲間を増やしながら奔走する。

ある意味「敬虔な」科学者であるアリアさん。

 異変を解決する過程で、この世界では人類種が「魔族」と呼ばれる生命体によって管理・維持・観測されていることが分かる。魔族の過激派であるガイウスは「死季」による絶滅を免れるため、大きな試練による人類種の半強制的な進化を目指していたが、主人公らはその破滅的な行為を見過ごせずガイウスを阻止。以後、アインらは「死季の根絶」という根本的な問題の解決のために動き始める。

 ここまでが前提。長い!このゲーム想像の2倍くらいボリュームあるんだよ!
 ここからこのゲームは表面的な中世ファンタジー世界から離れ始める。

 このゲームの舞台はいわゆる中世ファンタジー的な世界観だが、実際の時系列は西暦10000年よりも未来だ。

どう見てもNieRの遊園施設である地球の遊園地

今ではシーズライトと呼ばれている物体の出現と死季の発生によってほぼ滅亡した2170年台の人類が、種の生存への望みを自分たちが生み出した人工知能(今では魔族と呼ばれている)に託した。魔族たちはその望みを受けて異星に新たな環境を構築した。この新たな星こそが舞台となっている世界であり、各地のシーズライトは魔族によって生み出された複製で、環境の維持を担っている。そして、アインたち現在の人類種は、「新たな環境からひとりでに誕生した新たな人類」であることも判明する。(魔族たちは新人類と旧人類の差異を明確に定義できず、新人類を撃滅するようなことはできなかった)対してアリアは2170年台から昏睡状態であり、今になって目を覚ました「旧人類」であった。
 魔族たちによって世界の真相を見たアインたちは、この世界がコールドスリープされた過去の人類種を再び呼び覚ますために作られていることを知った。「死季」の被害を免れる方法……超広範囲のシェルターのようなものが用意されていることも分かった。しかしこのシェルターはその収容限界から、「旧人類全員」か「新人類全員」かのどちらかしか収容できないことも判明する。魔族たちには、旧人類と新人類のどちらかを選択する権限がなく手詰まりだったが、目覚めた唯一の旧人類であるアリアには、選択の権限があった

ここからが、このゲームの最も大きな山場と言える部分になる。

ハーヴェステラにおける「選択」

 結局、ここまでのあらすじで最も重要な部分は、ゲーム世界の新人類と地球の旧人類、どちらの命を取るか、「あなたが選択してください」と言われる……という点だ。
 主人公「アイン」は旧人類だ。対して、アインの相棒とも言える「アリア」は新人類だ。
 初めに選択を迫られたアリアはと言うと、元の時代に帰るために探索をしていたら帰るはずの時代はとっくに滅んでいたり、過去の自分の孤独を思い出させられたりと、ねっ…………とりライターにいじめられて精神的に参っていた中、さらに人類種の選択という異常に大きな責任を負わされたことや、両親が新たな星の開拓のための実験で命を落としたことなどを受けて、「新人類を生存させる、それが私の責任だから」という結論に至る。結果として主人公らと対立し戦闘になるも、アリアも共に時間を過ごした新人類の仲間を殺したいと思っているわけでは無いため、主人公の説得によって考えを改める。
 が、説得してしまったため、選択権が主人公に移ってくる。

魔族のパーティメンバーであるディアンサスさん。マジでイケてるデザイン

 そんな時に思い出されるのが上記の台詞である。この場面に来る前に、この「ディアンサス」が主人公に向けて助言のような形で伝えていたメッセージだったが、選択の直前にもう一度ディアンサスに話しかけると、同様に上記の台詞を繰り返される。
 これはキャラクターから主人公に向けての発言でもあるし、同時に「わたし」——すなわちプレイヤー自身に向けての台詞である。

 もしあなたが主人公で……「新人類の代表」として選択を迫られた時、何が"正し"い選択だろうか。アリアが「旧人類の代表として、旧人類を選択した」ことは、そのデモンストレーションだ。それが客観的な正しさだと、この作品は認めている。
 その上で、その「"正しさ"に抗え」と伝えてくる。ゲーム内世界において「正しい」のは明らかに「新人類を選択する」ことなのだが、「最善」の行動になるのは「選択しない」ことになるのだ。

 仮に新人類を選ぶと……

HARVESTは収穫と「刈り取り」のダブルミーニング
本当に、本当にありがとうございました

 
 だが選択しないことを選ぼうとすると……

 選択をするように詰められる。
 この激詰めに抗い、何度か「選ばない」という選択を取り続けることで、初めてハッピーエンドへの道が開ける。

 正直なところ、ここまでは私にとって特別驚きに満ちた展開では無かった。

 世界設定自体も、『十三機兵防衛圏』とか『Horizon Zero Dawn』とかで少し見覚えのある展開だったし、冒頭でも述べているように、ゲームにおける「私の選択」というものも、今や特別な驚きを以て迎えられるほどのものではない。
 しかし、この時点では隠されている設定に、私は感心したのだ。

ハーヴェステラにおける「わたし」と「わたしたち」

 ラスボスを倒した後、プレイヤーを導いた「星の意思」が物語の種明かしをする。
 曰く、新人類である主人公の精神の中には、主人公と同じ名を持つ旧人類の精神が潜まされていたのである。

入力したプレイヤーネームが表示される(アインはデフォルトネーム)

主人公が名前以外に関して記憶喪失だったのは、実際には記憶喪失だったのではなくて、新たな星における生活の記憶が一切ない…あるはずもないだけであったのだ。では、主人公の本来の記憶は何なのか……それはまさしく、「プレイヤー自身の、プレイヤーの地球での生活の記憶」が想定されているのではないか。

星の意思はこう発言する。

「この星を救うには どうしても あなたの意識が必要だった……。」
「西暦の地球……ロストガイアの人生と……」
「新しい星…… リ・ガイアでの人生…… どちらも 知っている人の意識が。」
(中略)
「記憶がなくとも…… その選択には 価値観が反映される。」
「現に あなたは…… 閉塞した二者択一に 囚われるのではなく……」
「どちらの世界も救うという…… 途方も無い 選択を果たした。」
(中略)
「(主人公名)。あなたの"選択"に 最大の感謝を……。」
「これは…… あなたの世界の物語。」
「だから…… あなたの世界のこと…… これからも 大切にしてちょうだい……。」

『HARVESTELLA』より
おしまい

 つまりこのゲームは、長い長い時間をかけて私たちに新たな星での生活を体験させる「必要があった」。その結果としてプレイヤーに、少なからず新たな星に愛着を持たせなければならなかった。やたら濃いサブクエストや、良質なキャラストーリーはこの愛着に大きく寄与している。また、農業も無いよりはあった方が生活の実感がある。このゲームが単なるRPGではなく、あえて生活シムを取り入れている狙いもここにあるのではないかと私は感じる。
 しかし、それだけでは不足だ。なぜなら、それだけだと我々は新人類の救済を責務と感じるようになるし、仮に新旧の人類を救う選択をできたとしても、それは「道義的な要請から」それを求めたのであって、真に私たちプレイヤーの自由意志による選択とは言い切れないからだ。実際、この種明かしを見るまでは、まだ自由意志による選択であるのかについて私は疑問を感じていた。
 (アリアというキャラ自体がめちゃくちゃ好きだったので旧人類を殺してぇ〜とは微塵も思っていなかったが、それは私が今の人類…いわば同族自体を存続させたいと思う気持ちとは無関係だ)

 だが上記の設定によって、私の選択は確かに「わたし」が行った、「わたしたち」の星を想っての選択だったのだと納得させられる。何なら、仮に納得できなかったとしても構わないのだ。
 

 重要なのは、「制作者が、私たちに視線を向けて物語を描いている」ことと、「プレイヤーであるわたしが、ゲーム内主人公である彼(彼女)を演じている」ことが、大きな矛盾なく成立していることだ。

 この構造によって、このゲームが伝えたいメッセージが、『Undertale』で僅かにだが感じられるような説教くささ(もっと良い言い方はある気がするが)を低減しながら伝えられているように思う。
 この点について、備忘も兼ねて記録できたのでこの記事に関してほとんど満足した。

 満足したし、21:15分現在、夕食を食べ損ねているので早く書き上げてご飯を食べたい。なので私が大好きなアリアの最終キャラストーリーを紹介して終わりたい。

 アリアは「旧人類の代表」として在るキャラであり、つまり、「わたしたちの未来の姿の代表」でもある。そんなアリアは敬虔なまでに実証主義的な科学の思想を信じていて、新たな星における科学で証明できないオカルティックな現象の数々に否定的だった。しかし同族の半絶滅という現実を目の当たりにし、コールドスリープされる同族たちや過去の自分の状況もあって「人の意識」について考えた時、それが現時点では解明できないものであることを理解する。
 そんな中、数々の冒険や考察を経た今の自分の考えを主人公に述べる。

「私は この世界は 冷えた宇宙だと思っていたの。」
「科学の帰結というのは あまりにも ソリッドなもので 冷たくて…… 柔軟性がなくてね。」
「でも…… きっとそうじゃないわ。」
「宇宙にも きっと意志が…… あたたかさ みたいなものが あるんだと思う。」
「私の意識が たしかに ここに存在するように。」
「ソリッドじゃない宇宙が たしかに 存在している。」
「ファジーな宇宙とでも 言えばいいのかな……。」
「量子論とか 観測者問題とか そういうことではなくてね。」
「その 今は目に見えない領域に 人類は いつかたどり着ける。 いいえ。 たどり着いてみせる。」
(中略)
「ひとっ飛びには いかないのも 私たち 人類がつくった科学だから。」
「どんな時も "巨人の肩に乗れ"よ。」
「一歩一歩 着実に進めるの。 その着実さこそが 科学の…… 人類の最大の武器だからね。」
「そうやって 探究をやめない限り いつかきっと 私たちは 宇宙の真理にだって 辿り着ける。」
「それが科学のロマンチシズムよ。」

『HARVESTELLA』より

敬虔な実証主義者だったアリアがファンタジー世界での冒険を経て、実証主義的な科学の立場を捨てることなく自然(宇宙)と人間を分離しないロマンチシズムの立場に至る…..アリアが「わたしたちの代表」としての側面を持っていることも踏まえると、シナリオが伝えたいメッセージが面白味のあるものとして感じられますね……。

感じられるんだけど……………

わかりにくいな……

こういう語り口が好きだったり、高校時代に倫理が好きだったりした人にはオススメのゲームですが、本当に人を選ぶタイプのゲームだってことを今この瞬間にますます理解しました。お前らだよアリア!ディアンサス!

ここまでネタバレがっつりの文章読んでまだこのゲームやりたいと思う方はマジでオススメできます。スクエニだしまあすぐセールくるでしょう。

スクエニ……次はもっと予算を出して……パートボイス付き(譲歩)で顔グラがめちゃくちゃ良い(強欲)……
HARVESTELLA 2』!
待ってるから!私、待ってるから!!!

https://music.apple.com/jp/album/%E5%BE%85%E3%81%A4%E3%82%8F/1228552502?i=1228553183

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