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文体から抽き出される身体 ーー島口大樹『鳥がぼくらは祈り、 』ーー

映画を撮りたいと考え、いつもビデオカメラを回す高島。実家の電気屋の応接室が溜まり場になっている池井。その池井と芸人を目指し、仲間内で時折漫才を披露する山吉。そして“ぼく”の4人は、日本一暑い街、熊谷で生まれ育った。なんてことのない日々を過ごす「ぼくら」はその一方で、皆それぞれ過去に囚われ、影を抱えて生きている。

 島口大樹『鳥がぼくらは祈り、 』は地方都市に生きる少年たちのなんでもない日常を生々しく、克明に描き出す。精巧に設計された物語が生む独特なグルーヴ、疾走感は読む者を強く惹きつけて離さない。
 キャラクター造形、場面設定、ストーリー展開といった、物語をかたちづくる様々な構成要素の中でも特徴的な文体表現は一際目を引く。この一見風変わりな文体は、物語が安易に組み上がっていくことを拒否し、見たことのない地平に読者を導く。


話しているのは誰?

初めに目につくのは会話描写だ。参考に、次の高島と池井による電話越しの会話を見てみよう。

「まだ話し合いしてるから戻らなきゃだけど、」
一、二時間後なら、たぶん出れる。
「じゃあ終わったらまた教えてくれ」
うん。
「なんかあったらすぐ連絡しろよ」
なあ。
「どうした?」

島口大樹『鳥がぼくらは祈り、 』2023、講談社、p. 52
以後、特記がなければすべて上記から引用。

 一般的に小説において、発話内容は鍵括弧内に収められる。しかし本作では上で見たように、括弧からはみ出したあとも会話が継続しているケースが多々見受けられる[1]。またここでは括弧と地の文が交互に書かれているが、これは落語で上下を切るように、キャラクターを分ける効果を有しているわけでもなさそうだ。

 もう一つ別の例を挙げたい。4人が中学生のとき、近所の河原で駄弁っている場面から。本来は引用のあとにも10行ほど途切れることなく文章が続くが、一部のみの抜粋に留める。

そんな曲がってるか?さっきも言ってたけど何が?川だよ川。ああ。どうだろう。曲がってるんじゃないもう少し行ったら。もう少しってどこまで?知らないけど、行田とか鴻巣とか。そしたら熊谷じゃないじゃん。[…]

p. 34

 ここでは一貫して鍵括弧が排除され、誰が発話の主体か示されないまま延々と言葉のラリーが続く。このように本作の連続した会話劇には、鉤括弧と発話の一般ルールが適用されない。この逸脱に覚える違和は、個々人が現実で交わす会話を思い出せば、存外大したことでないと気づく。
 例えば、現実の会話は書かれた台詞のように常に整理されているわけではないし、ときに相手の発話が終わる前に別の誰かが発言し、言葉がダブることもある。発言者よりも話題の方が重要なことだってあるはずだ。この鉤括弧の超越には、会話に生っぽさを与えてくれる効果と、発話主体を曖昧にしてしまう効果とがある。前者は文章からスピードを伴った生きた会話を立ち上げ、物語に推進力を付与する。しかし殊、本作に限って真に効果を挙げているのは、後者であると言ってしまっても差し支えないだろう。それを詳らかにする前に、一旦検討したい問題がある。それは、この物語の「視点」についてだ。


Je est un autre

本作は“ぼく”の視点から始まる。

ぼくは二歳のぼくの記憶を、その孤独を知っている、今でも覚えている。

p. 8

 当然のことながら〈ぼく〉を物語の語り手に据えた場合、その視点は「一人称」ということになる。〈ぼく〉という一人称において、〈ぼく〉が見たものは描かれ、〈ぼく〉が見ていないものは描かれない。絶対的な視点、それが一人称視点だ。だが本作はこの絶対的な眼差しに終始貫かれてはいない。次のシーンを見てみよう。

六月なのに暑くね、と高島が苛立った様子で言うのにぼくが苛立ったのは、六月は毎年暑いし毎年その台詞を聞いているからだった。

p. 10

 ここで「六月なのに暑くね」と発言したのは高島だが、それを聞き苛立ちを覚えたのは“ぼく”だ。この場合、視点の主体はかろうじて“ぼく”と言えそうだが、その地位は物語開始早々、揺らいでいる。そうこうしているうちに視点は“ぼく”の元を離れ、高島ら3人と合流し、次のように三人称視点による描写が入り混じっていく。

高島は思った。

p. 48

山吉はじっとしていられなかった。

p. 59

 本作は一人称視点と三人称視点が混在している[2]。つまり一人称〈ぼく〉は、時折その特権を手放し、三人称に「身を落とす」のだ[3]。

ぼくと別れた高島は自転車を漕いでいた。

p. 46

なにしてんだこいつ。とぼくを見て池井は思った。

p. 74

山吉はぼくのことを考えた。

p. 129

 “ぼく”は“ぼく”であると同時に“ぼく”ではない[4]。この人称の多重性は自己同定の希薄さとも直結する。現にほかの3人のように映画を撮るわけでも漫才をするわけでもない“ぼく”は、パーソナリティが非常に見えづらく描かれている。自身すらも俯瞰、否、鳥瞰[5]し、三人称化してしまう“ぼく”の描かれ方と、“ぼく”が自傷を続けてしまうこととは無関係ではないだろう[6]。

ぼくは高島に言った。それはぼくじゃないかもしれなかった。山吉か池井かもしれなかった。誰でもよかった。

p. 41

 “ぼく”の語りは「自己」には収斂されず、どこか他人行儀にも映る。自己を客体化する癖は“ぼく”に限った話ではなく、他の3人にも同様に認められる。

高島は池井が考えるよりも池井として立っていた。

p. 54

 ここまで確認したように、本作における文体表現は登場人物たちの身体表象と強く結びついている。人称の揺らぎは「ぼくら」の寄る辺なさ、自他境界の不確かさと呼応し、前節で触れた発話主体を曖昧にする効果とも響き合う。
 「ぼくら」の自己とその肉体との同定は、物語の設計によって巧みに躱された上、文体表現の側もそれを阻む。都市部の熱風と、群馬や秩父からくるフェーン現象による熱風とに挟まれた熊谷のように、「ぼくら」の身体は物語と文体の狭間に閉じ込められる。
 では「ぼくら」はどこにも行けないのだろうか。きっとそんなことはない。狭間の身体には別の可能性が秘められている。その可能性を探るため、最後に本作のタイトルについて考え、このテキストを閉めることとしたい。


鳥  ぼく  ら

『鳥がぼくらは祈り、 』
 この尻切れの文はどのように読み解けるだろう[7]。やはり気になるのは文頭の「鳥」だ。本作では「鳥」にまつわるシーンがいくつか登場し、それらはいずれも「ぼくら」を象徴しているようだ。
 例えば“ぼく”が熊谷駅前を通過する場面。そこでは、鳥の大群が集団飛行する様子がまるで“ひとつの生命体”のようだと描写される。個体としてより群体としての存在感が強調された鳥たちを身体の曖昧なぼくら4人と重ねることは容易い。
 また物語終盤のとあるシーンは、前節で言及したぼくらの視点がオーバーラップする。
 偶然目にした流れ星をきっかけに、ぼくら4人は眼を瞑り、銘々に祈りをささげる。そのときぼくらの耳には鳥の羽音が聞こえた。気がする。眼を閉じたぼくらには、鳥が存在するかどうかは確認できない。見ていないものは存在しない。それが一人称視点のルールだ。だが「ぼくら」は違う。人称に縛られない複数の視点を持つ「ぼくら」にとって、見ていないものも存在する。鳥はいるし、「ぼくら」もいる。

 曖昧が故に複数になった視点からは無数の視線が伸びる。その先で視線は「ぼくら」を結ぶ。

周りの人間は知らない。群衆は知らない。[…]ぼくらが視線という不可視の紐帯で結ばれていることを。

p. 136

 もっと言えば“不可視の紐帯”が結ぶのは「ぼくら」だけではない。眼を瞑ったぼくらと鳥が交わったように、「ぼくら」の身体は曖昧が故に外からの侵入を許し、様々なものと関係を結ぶ。
 世界との関係の結び直し。それこそが「狭間の身体」に秘められた可能性だ。
 ぼくらはぼくらでありつつも、ぼくら以外ともぼくらでいられる。



脚註

[1]この例とは逆に、言葉が鍵括弧内にあったとしても発話されたとは限らない次のようなケースも存在する。

「そう考えるのは弱ってるからだ。弱った人間だからだ」
と高島は言えなかった。

p. 53


[2]ころころと移り変わる視点は、作中高島が回すビデオカメラに象徴されている。高島の撮影手法は変わっていて、例えば誰かが話している様子を撮るときも、むしろフォーカスされるのは聞き手の方であったりする。

視線がぐらぐらしてるくらいが、なんかその場にいるってか、今、って感じがするんだよね。

p. 21


[3]本作が受賞した第64回群像新人文学賞の選考委員である松浦理英子は、その選評において、一連の視点を〈一人称内多元視点〉と評し、挑戦的な試みを評価している。

[4] アルチュール・ランボーの『見者の手紙』に登場する以下の有名なフレーズが想起される。

私とは一個の他者なのです。

アルチュール・ランボー、『ランボー全詩集』ちくま文庫、1996年、p. 448

 このフレーズの興味深い点は、フランス語原文「Je est un autre」という文の構成にある。「est」は、英語であれば動詞beの三人称単数現在形「is」に相当し、「Je est …」は無理に英語に当てはめるならば「I is …」となる。この文では「私」、「I」、「Je」はすべて、構造自体が「他者」と化している。

[5]以下の箇所において、”ぼく”は物事を一歩引いて捉える性質を持っていることが象徴的に描かれている。

ぼくは鳥の人。人間の目で見る鳥、の人。

p. 36


[6] “ぼく”は自らを養うため、夜な夜な見知らぬ男と寝る母に対して自責の念を抱き、自傷行為を続けている。こうした自身の側へ向けた加害行動は“ぼく”以外のキャラクターにも見受けられ、例えば山吉は、何年も会っていない父から毎月送られてくる手紙と小遣いを読まずに燃やしている。
 対称的に、主要キャラクター4人以外の他者からは、身体は労られるものとして扱われる。以下は高島が自身の母と電話越しに交わした言葉の一片。

「身体に気をつけて、元気に過ごしてね」

p. 109


[7] 「尻切れの文」というと、岡山芸術交流2019のタイトル《IF THE SNAKE /もし蛇が》が思い出される。途切れた文章には続きを勝手に想像させ、読む者を引き込む力がある。
 本作のパラレルな読み解きとして、少しだけこの芸術祭の話を敷衍したい。
 アーティスティックディレクターを務めたピエール・ユイグはいくつかのインタビューにおいて、芸術祭の方向性を示すものとして「超個体(スーパーオーガニズム)」という言葉を用いている。ここでは鳥の群れやアメーバのような群体は、ただ1個の生命のように動くだけでなく、それぞれがそれぞれに影響を及ぼしあう可能性を持ったモデルとして示されており、自他境界が曖昧な「ぼくら」や集団飛行する“ひとつの生命体”のような鳥たちの関係もこのように読むことができるだろう。

実際に近接する他のアーティストの作品と反応しあって変化したり、変態していくようなーー他の作品がもたらす外的要因が実際に自分の作品に影響を及ぼし、変化を生み出すようなーーことをどれくらい考えられるか。

https://bijutsutecho.com/magazine/interview/20801

 またユイグは別のインタビューにおいて、「超個体」を「リビング・エンティティ」と言い換えてみせる。この考えは、単一の生物の群体のみに一体性を認めるのではなく、森や川といった無数の要素を含んだものにまでその圏域を拡げる。これは直截的に世界との関係性の結び直しと言えるのではないか。

「リビング・エンティティ」とは、「あらゆる生命体」といった程度の意味です。「生命体」といってもその定義はすごく曖昧で、揺らぎがあるでしょう。例えば、ひとつの物体としてではなく、集合体として存在できるようなものもありますね。最近だと、森や川をひとつの生命体(リビング・エンティティ)としてとらえるという考え方も流行っていますが、そういうものも含んでいます。

https://bijutsutecho.com/magazine/interview/14256

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