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「人を殺してはいけない」

人を殺してはいけない。私は、古い昔から伝統を受けついできた。では、人を殺すとはどういうことなのだろうか? 某は答える。
「文字通りの意味ですよ。それ以上に答答えなどいりますか?」私は曖昧にその答えを受け入れる。しかし、それらの答えでは、私が殺されてしまう。つまり、私が空気のように存在してはいないと感じてしまうのだ。生物には、生物として成り立つために、いらないものを「殺して」自己を成り立つ機能が備わっている。私が殺されるとは、自然の摂理と同じなのだろうか?
私を殺しているのは、どのようなものだろうか?ただ、私たちの周りにある空気にも、酸素、二酸化炭素、窒素のようにそれぞれがお互いにバランスを保って、ただ「生きている」私よりも自己の存在を疑わないものがしっかりある。
人を殺してはいけない。人を人と為すものは何だろうか?某は答える。
「あなたが述べた、空気と同じように存在を殺しているいくつもの物質によって成り立っているのです」
私は、不満を抱きつつその答えを受け入れる。人間の60%は水である。そのように昔教わった。しかし、この文章の6割が水でできているとは、誰も思わない。
では、人を殺す以前に、人が生きるということを逆説的に考えて存在を証明できないだろうか?
まず、自分を自分であると感じることに、文字を書く、声を出す、脈を通じて生きていると感じる。自分を自分で感じるこの行動は一人では難しい。人間には他者が必要なのである。他者に自分というのもを分かってもらう。意思を示さないといけないのだ。それは、お互いを理解するために、衝突も必要である。
人を殺してはいけない。「殺す」とは人間が死んだときにのみ使われる言葉なのか?某は答える。
「その通り」
私は反論する。私たちは、人を殺すことができる。
人から命を奪おうと、奪わなかろうと、人から血がでる。人が空気のようになる。存在しなくなる。
存在しなくなるもは恐ろしいことだ。私と認識してもらえなくなる。生きていると認識できなくなる。空気に殺されていることは、私、私の文章を通して私を認識している事項があなたにはありませんか?私は文章を通してでないと私を表現、存在を示すことができません。殺されたくない。人と通じることの難しさを少しでも傳えられたらいいと感じています。
表現を疎外し、関係のない自分とは違うものとして、距離をおくことは、相手を殺しているかもしれません。
私もあなたも某も、自分を殺さないで下さい。

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