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【短編小説】何者になれるか

以下は第56回北日本文学賞で四次選考まで通過した作品「何者になれるか」です。10,500字程度の短い小説なので、お暇潰しにご覧ください。

何者になれるか

 お金の心配をしたことはない。我が家は日本の一般的な家庭と比較してきっと裕福で、必要な物を買えない経験はこれといって無かった。家事が大変なら時々ハウスキーパーに来て貰おうか、と父は言った。父は生活に必要と判断したことに、いっさい金を惜しまなかった。しかし私はハウスキーパーは必要ないと答えた。私達の生活に必要なのは、そういう家事能力ではない。それはもう事足りている。
 それよりも必要なものがある気がしていた。しかし私はそれを上手く言語化できなかった。今もできない。一生できないのかもしれない。
 家事はできる。今日の夕食はシチューだ。野菜スープを作って市販のルーを溶かしただけのものだが、栄養は摂れるし、大量に作っておけば2~3日食事に困らない。何より、父が仕事から帰れば温め直すだけですぐに食べられる。鍋のシチューを温めて食べてね、と書いたメモでもテーブルに置いておけば十分だろう。きっと今夜も遅くまで仕事をして、私が眠っている間に帰って来るから、簡単に自分で温めて食べられるものを作っておくのがベストだ。
 壁かけ時計を見ると20時を回っていた。食事した皿をさっさと洗って、少しだけテレビドラマでも見て、シャワーを浴びて寝よう。風呂掃除は面倒なのでシャワーだけで済ませるようになったのはいつからだろう。母が亡くなる前は、毎日浴槽に湯を張って浸かっていたけれど。
 皿洗いも面倒なので、紙皿で済ませてしまうことも多い。父は紙皿を使った方が楽だし効率が良いから、いくらでも買って構わないと言う。母が生きていた頃も言っていたのかもしれない。母が自分で、紙皿を買うのは不経済だからと言って皿洗いすることを選択したのかもしれない。分からない。
 分からないままで、今日は品数が少なかったから陶器の皿を2枚だけ使ったので、皿を洗う。明日は紙皿にしようかと考える。私はそこまで不経済を気にする性分ではないのだ。金で解決できる家事はある程度金で解決させてしまう。
 ハウスキーパーは、家に他人が入るのが好ましくないから避けたい。そうでなければ金で解決したかもしれないな、と思いながらテレビを点ける。ホームドラマは見たくないなあ、と思いながらチャンネルを回し、恋愛ドラマにぼんやり焦点を合わせた。
 ああそういえば、そろそろ受験勉強を始めるべきだな。まず志望校を決めるべきか。オープンキャンパスに行ってみようかな。そもそもオープンキャンパスに行く大学をどうやって選ぼうか。進路について考えながら見る恋愛ドラマの画面は味気ない。画面には美しい女優が涙を流すシーンが映っているが、何故泣いているのだろう。なんとなく見ていたようで、実は何も見ていなかった自分に気付く。彼女が泣く理由に興味が湧かないことを自覚してテレビの電源を切る。シャワーを浴びてしまおう。父は今日も、帰宅時間を知らせる余裕も無いほど忙しいらしい。

 オープンキャンパスに来てみたところで、何を基準に志望校を決めるべきか分からなかった。別に大学の雰囲気を見たところで惹かれることも無かった。ただ、熱心にキャンパスの地図を見せながらイベントの説明をしてくれた実行委員のお姉さんが居たから、ここにしようかな、と思った。偏差値55くらいで、家から徒歩と電車で1時間半で通える距離の大学。ここで良いや。
 帰り際、例の親切なお姉さんが再び声を掛けてくれた。実は私の着ている制服を見て、自分の母校の制服だから印象に残っていたという。雑談をする内に私の高校で3つ年上の先輩だったことが分かった。なんとなく意気投合して現住所も近いから今度お茶でもしよう、と話して連絡先を交換してしまった。相手が男性ならナンパと思って警戒するところだが女性だし、身元が分かっているから警戒する必要は無い気がする。ご丁寧に学生証も見せてくれた。お姉さんは篠田美紀という名前らしい。
「私は、楠本莉子っていいます。高校二年生です。」
 じゃあリッちゃんだね、とお姉さんは微笑んだ。人懐っこい微笑みに、仲良くなりたい気持ちが芽生える。
 同級生に志望校や志望学部を相談すると、相手も悩んでいると言う。お互い悩んでいて、お互い不安で、人に助言をできるほど自分の選んだ進路に自信が無い。不安を共有し合って、不安なのは自分だけではないことが分かる。安心した。でも私は年長者の意見も聞いてみたい。自然と篠田さんに相談する機会が多くなった。父に相談する場が無い私にとって、篠田さんは頼れる大人だ。
 しーちゃんって呼んでね、と言ってもらえて嬉しくなった。私はしーちゃんが大好きだ。しーちゃんは塾の選び方や受験科目などの相談にも乗ってくれた。私はすっかりしーちゃんと似たような進路を選んでいるが、別に他に進路の決め手は無いから、これでいい。
 父は平日は毎日帰りが遅く、休日はゴルフに行ったり、洗濯したり掃除したり、本を読んでいる。逆に私は休日は塾に通うようになった。ろくに話す時間は無い。
「塾の月謝なら、そこの封筒に入れてあるからな。」
 そう言って出かける父を、行ってらっしゃいと見送る。久々に言葉を交わした気がした。

 塾で同じクラスになった他校の男子と、時々会話をするようになった。私の隣の席が空いている時は隣に座り、雑談をしたり宿題の内容について話したりする。なんだか彼から好意を感じるけれど、まさか恋愛感情はないだろう。私は今まで彼氏がいた経験はないし、今のところ恋愛には別に興味がない。彼は話していて楽しい人だとは思う。それだけだ。
 しーちゃんとマックでお喋りしている時に彼の話をしたら、彼はきっとリッちゃんのこと好きなんだよ!と言われた。楽しそうに目を輝かせて彼のことを色々聞かれた。しーちゃんは恋愛の話が好きらしい。
「一回デートしてみたら?」
「ええ?私からデートに誘うほど私は恋愛に興味ないよ」
 なんだつまらないな、とぼやくしーちゃん。人のことを面白がってないで自分の彼氏を作ればいいのに。(彼氏欲しくてもできないんだよ!としーちゃんはいつも言っている)
「男の子とデートよりも、友達と遊びたいなあ」
 受験勉強に本腰を入れている高校三年生の9月は、それほど遊びに行く余裕はないのだ。
「たまにはいいんじゃない?そうだ、今度カラオケオールしない?」
「ええ、オールは怖いなあ」
 しーちゃんが誘ってくれるのは嬉しいが、私は割と真面目な高校生なので、今までオールなんてしたことがない。特に女子だけでオールなんて、怪しい人に目をつけられそうで怖い。補導される心配もある。遊びたい気持ちはあるけどオールはさすがに、と断った。
「21歳の私が同伴者なら大丈夫だと思うけどね。リッちゃんは真面目だなあ。」
 真面目な自分の殻を破って外へ飛び出したい気持ちは、ある。
 家に帰って夕食の準備をして、食べて、勉強をする。二、三日に一回は夕食の前に洗濯もする。皿洗いはほぼしなくなっていた。紙皿の方が時間を捻出できる。そういう時間を勉強する時間や家事の時間に回すのが当たり前になりつつある。我ながら真面目だと思う。
 父は私が真面目だと知っている。だから何も心配していない。家事にしろ受験勉強にしろ恋愛にしろ、放任主義といったスタンスで、好きにさせてくれる。真面目さを信頼されているのか、関心がないだけなのか。分からなくなる。今日の夕飯はスーパーの総菜を二人分買っておけばいいや。

 ある日なんとなく、久しぶりに手の込んだ料理を作ろうと思った。豚バラ肉を買って来て、きちんと脂抜きして、角煮にした。美味しいし、きっとビールに合うだろう。昔父が美味しい角煮を食べていた時に、ビールに合うと言っていたのを思い出す。懐かしさに一人で微笑んでしまう。今日は金曜日だし、父はきっと晩酌するだろう。喜んでくれるといいなあ。
 しかし父は、帰ってこないことが分かった。急な仕事が入ったから会社に泊まり込んで徹夜で仕事をする、という連絡があった。ショックだった。せっかく角煮を作ったのに。いや、角煮は明日でも温め直せば食べられるけれど。金曜の夜だからビールを飲むだろうと思ったのに。早く角煮の感想を聞きたかったのに。やりきれない。
 やり場のない感情が波立ってしまい、私はしーちゃんに電話をかけた。
「今からカラオケに行かない?」
 19時のことだった。しーちゃんは運よく家に居て、乗り気になってくれた。私が遊びに誘ったことが嬉しいのだろうか。
「いいね!ついでにオールしようよ」
 楽し気な声に、少し戸惑ってしまう。私はこんな時まで真面目なのか。面倒だ。どうしてムシャクシャしてる時まで優等生な行動を選択しようとするのか。父は私がそういう性格だとタカをくくっているから会社に泊まり込むのか?嫌だなあ。
「うん。オールしよう!」
 努めて明るい声を出す。しーちゃんの耳にどう聞こえたのかは分からない。待ち合わせ場所や時間を簡単に相談して決めると、私は着替えて荷物を用意し始めた。
 でもオールというものは、友達の家にお泊り会に行く時のように準備万端で行くものではない気がする。替えの洋服なんて持って行かなくていいか。折り畳み傘はいるかな、なんて考える自分の真面目さが、また嫌になる。財布とスマートフォンと家の鍵、他に必要な物は?不必要なものばかり詰め込んであったスクールバッグに気付いた。あれもこれも、本当には必要ないのだ。軽い小さなポシェットだけ持って、私は家を出た。

 ファミレスでしーちゃんと2時間ほどお喋りした後にカラオケに行った。カラオケではナイトパックという料金体系があった。23時から翌5時まではその料金で、飲み物が飲み放題で3000円だという。しーちゃんは喜んでそれを選んだが、店員から、失礼ですが身分証はお持ちですか、と聞かれてしまった。しかし彼女の年齢を確認すると納得してナイトパックを適用してくれて、私はとても安心した。
「ね、リッちゃんが未成年でも私が成年だから大丈夫なんだよ」
 と微笑むしーちゃんは頼もしい。
 二人で思いっきり歌って騒いだ。普段は夜中に間食なんかしない私だけど、たまには良いやとポテトチップスも注文した。コーラやメロンソーダをたくさん飲んだ。しーちゃんはお酒が得意ではないからお酒を飲むことはなかった。そのことに安堵してしまう自分がまた真面目だと思う。しーちゃんがお酒を飲む人だったら一緒に飲もうと言われたかもしれない。そうなっていればいよいよ私は真面目な殻を破れたかもしれないのに。
 深夜2時頃、トイレに行って部屋に戻ろうとしたら、廊下で立ち話している男性3人組が居た。見るからにガラの悪そうな男性たちで、反射的に身構えてしまう。彼らの横を通らないと部屋に戻れないので、さらりと通ろうとした。
「可愛いね、高校生?」
 声を掛けられ、私の肩が跳ねた。男性たちがニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。どうしよう。
「こんな時間にカラオケ?良かったら俺らの部屋に来て一緒に歌わない?」
 いやらしい笑みで言われて、返事が思いつかない。何か、答えなければ。適当に答えてすぐそこの部屋に戻ればしーちゃんがいるのに。とっさに声が出ない。
「怖がらなくていいよ。ねえ。」
 手首を掴まれて、引っ張られる。怖い。どうしようどうしよう。どうすればいい?お父さんは助けになんか来てくれない。
「リッちゃん?」
 振り向くとしーちゃんが居た。飲み物のお代わりを取りに行くところだったらしく、グラスを持っている。手首を掴まれ狼狽えている私に気付くと、しーちゃんはさり気なく相手の手を外してくれた。しーちゃんがあっけらかんと笑いながら男性陣に言う。
「すみませんね、今日は女子会なんで!女子だけでしっぽりやるんで!」
「えー、残念だなあ。」
「ごめんね!」
 そんなやり取りで軽くかわすと、しーちゃんは私の肩を抱いて部屋に連れ戻してくれる。部屋の椅子に座ると一気に安心感がこみ上げた。心臓がどくどくと脈打っているのが分かる。さっきの人達、怖かった。
「ガラの悪い人達だったね。大丈夫?」
 しーちゃんが聞いてくれるけど、うん、と掠れた声しか出てこない。アイスティー飲んで落ち着きな、とテーブルにあった紅茶をすすめられ、一口飲んだ。少し落ち着いた。なんてことはないナンパなのに、深夜のカラオケで、一対三で声を掛けられるだけで、こんなに怖いなんて。初めての経験で、声も出せなかった。
「ああいうナンパ男って何処にでもいるからねえ」
 しーちゃんは慣れた様子で言う。やっぱりよくあることなんだ。しーちゃんくらいの年になれば、私も慣れるのかな。でも今は怖い。私は普段優等生だからこんな経験は未知で、とても非日常に感じる。これが日常的になったら私も優等生ではなくなるということかもしれないけれど。
 よしよし、と背中をさすってくれるしーちゃんの手は温かくて、でも、私はなかなか歌う気になれなかった。

 明け方の駅前は白々しいほどの日光に照らされて、閑散としていた。始発で家の最寄り駅まで来たから当然なのだが、驚くほど人通りが少ない。オール明けの眠たい眼にはベンチに照り返す日光がきつくて、眉をしかめてしまう。疲れた体でとぼとぼと歩き出す。家に向かって、少しずつ。
 しーちゃんは3駅隣の町に住んでいるので、カラオケの最寄り駅で、反対方向の電車に乗るために分かれた。ガラの悪い男性達に囲まれたあと歌っているうちに元気が出たので良かったけど、疲れた一夜だった。早く家に着けばいい。でも父が先に家に帰っていたら怒られるだろう。いや、私が自分の部屋で寝ていると思い込んでいて、不在に気付いていない可能性もある。父から何の連絡もないからきっと後者だ。玄関に靴が無いんだから外出していることに気付くべきだろう、と不満に思ってしまう。父は鈍いのか、私に関心が無いだけなのか。どちらにしても不満だ。
 しかし父は家にいなかった。私が玄関に入ると、父の靴は無かった。父の部屋の扉は開け放たれたままで、中を覗いても誰もいなかった。まだ、働いているというのか。
 絶望的な気持ちになった。どうして、こんな日に父はいないのか。私の不在に気付く所に居てくれないのか。何も知らないままなのか。私が何処に居ても、夜遊びしても、何も分からないのか。こんなに涙が出ていることに気付きもしない。
 悔し泣きなのか何だか分からない涙が次々に出てきて困る。自分が昨夜何がしたかったのかも分からない。何故角煮をつくったのか、何故オールしたのか?私は、父が、嫌いなのか。涙を出すのに忙しい脳みそは答えを出してはくれない。もう、眠ってしまおう。
 深い眠りから覚めると、台所の方で音がした。コップを食器棚から取り出すような音。父が、帰って来ている。私は緊張してしまう自分に気付く。とりあえず起き上がって、自室の鏡を見ながら髪を梳かした。寝る前にシャワーを浴びたので変に見える見た目ではない、はずだ。意を決して居間へ出る。
「おはよう」
 と声をかけると父は振り向いて笑った。いつも通りの父だ。
「もう夕方だよ。昼寝してたのか?」
 と言われて時計を見ると、もう17時だった。帰ってきてシャワーを浴びて寝たのが7時過ぎだから、けっこう眠ってしまっていたらしい。でもそれを敢えて父に教えたくはない。昼寝していたことにしよう。
「うん。お父さんは?」
 何時頃に帰って来たの?という意味で尋ねたが、それを尋ねると自分が徹夜して朝からずっと眠っていたことがバレてしまう、と気付いた。内心少し焦ったが、父は何とも思わなかった様子で答える。
「俺は朝8時くらいに帰って来てシャワー浴びて寝て、さっき起きたんだ。腹減ったな。」
 なるほど。朝8時に帰って来た時は私がまだ眠っていると思って声をかけずに眠り、さっき起きたら私が部屋に居る様子だったから昼寝してると解釈したのか。オールには気付いていないらしい、と分かると何故か苛立った。気付いてほしいのか気付かないでほしいのか、自分でも分からない。
「夕飯、外に食べに行かないか。近くの定食屋はどうだ?」
 と聞かれて、うん、と大人しく頷いた。しかし出かけるために窓の戸締りを始める父を見ながら、こんなに何事もなかったような会話をしていることに、無性に腹が立った。
「やっぱり焼肉食べたい。」
 と口走ってしまう。え?と振り向いた父は明らかに戸惑っている。当然だ。記念日でも何でもない日に豪華な夕飯なんておかしい。しかも徹夜明けの父には胃にもたれるだろう。でも私は昨日すでにもたれたのだ、一人寂しく食べた角煮で。父を困らせてやりたい気持ちが口から出てしまったのだ。
 困惑している父の表情を見るのは気分が良かったが、やがて微笑んで言われた。
「そうだな、たまには焼肉食べようか」
 どうしてこの人は、私の言うことをそのまま受け入れてしまうのだろう。
 肉を焼きながらもくもくとキムチを食べる。父はサラダを食べている。肉を裏返しながら、どうでもいい話をする。天気のこととか、昨日の仕事で困ったこととか。どちらも同じくらい私にはどうでもいい。しかし、ふと箸を止めた父が私の表情を伺うような調子で尋ねてきた。
「志望校は何処にするんだ?」
 今さらそんなことを聞くのか。もう受験は目前だというのに。今まで一切聞こうとしなかったのに。急に興味が湧いたとでも言うのだろうか。笑える。いや、笑えずに自分の表情が歪むのが分かる。
「T大学の理工学部にしたよ」
「どうして?」
 理由を聞かれて、苛立ちが募る。何で今日に限って突っ込んだ質問をするのだろう。
「偏差値悪くないし、家から通うのにちょうどいい距離だから」
 投げやりに答えると父は一瞬考え込むように黙った。しかしすぐに何事も無かったように頷いた。
「そうか、そうだな。」
 どうして簡単に納得してしまうのだろう。突っ込まれて苛立っていたはずの私は、納得されても苛立ってしまう。いったい父にどんな言葉を期待していたのか、全く分からない。少し焦げてしまった肉が不味い。
 それから殆ど会話をしないまま食事を済ませ、街灯の下を歩きながら帰る。夜は少し肌寒い。そろそろ長袖の服にした方がいいかもしれないな、と父がまた、どうでもいいことを呟く。そうだね、と私も適当な返事をする。なんだか自分が適当なことばかり話している気がした。もっと他に、話すべきことがある気もするのに。
 そういえば徹夜で仕事した父に、お疲れさま、と言っていないことに気が付いた。今言おうか、と少しだけ考えて、やめた。

 入試の一か月前、例の同じ塾の男子から告白された。突然のことだった。最近は塾のコースが別になっているので顔を合わせる機会が少なくなっていたのに。授業後に部屋に二人きりになって会話していた時に、ふと真剣な視線にぶつかった。なんだか真剣な表情だな、と思っていたら、彼が口を開いた。
「好きだ」
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。分かってからも、聞き間違いではないかと思った。今、赤本の話をしていたんじゃなかったっけ?好きだって、何が?何で?
 混乱した私に気付いている様子で、彼は真っ赤になり、うつむいた。しばらく沈黙が部屋に溜まりこんで、何分も経ったような気がした。私はまだ混乱していた。
「急にごめん」
 と言われたかと思ったら、彼は走って部屋を出て帰ってしまった。今のは、何だったのだろう。告白、だとは思う。でも、付き合ってくれ、と言われた訳ではない。私は何て返事をするべきだったんだろう。ぐるぐる考えてしまったが、とにかく私も帰ることにした。
 返事を求められてる訳ではないし、相手が帰ってしまったし、返事はしなくていいか。と考えながら夕飯を食べてシャワーを浴び、ベッドに倒れこんだ。
 告白か。嬉しくない訳がない。好意は嬉しい。でも付き合うとなると、どうすれば良いのか。分からないから付き合いたいとは思わない。彼のことは嫌いではないけれど。明日以降は塾で会った時にどうしよう。返事を求められない限りは何事もなかったように接するしかないか?本当にそれで良いのだろうか。寝つけない頭の中に、そんな思考が堂々巡りしていた。父に相談できればいいのに、という考えが少しだけ頭を過ぎった。けれど、志望校の話もまともに出来ない私が、そんなこと相談できる訳がない。それより入試が近いから眠らなければいけない。それ以上考えないようにして、眠りについた。
 勉強のことばかり考えるようになっていた。当然だ。特に塾にいる時は、授業の合間も単語帳などを眺めていることが多い。当然、告白してくれた彼とは会話をしなくなった。彼から挨拶をされれば自然に挨拶を返してはいたけれど。気付くと挨拶もしなくなった。しかし相手も勉強のことばかり考えているはずだから、恋愛のことは頭から抜けているのだろう、と都合よく解釈していた。それよりも一単語でも多く英単語を覚える努力が必要だ。
 そんな生活をしていたら、入試の一週間前になって同じ塾の女の子から声を掛けられた。
「Sくんから告白されて酷い言い方で振ったんだって?」
 彼女はニヤニヤしていた。私は自分の顔から表情が消えたのを感じた。振った?酷い言い方で?話が見えない。
「Sくん、あなたの悪口ばかり言ってるよ」
 私が何をしたって言うのだろう。なんだか、好感を持っていたはずの彼のことが、一気にどうでも良くなってしまった。

 その日は曇天で、時折雲の合間から日光が細く降りて来る日だった。入試結果の発表をWebページで確認した私は、安心して脱力していた。無事、合格だ。模試の判定でも合格率95%だったとはいえ、多少不安があったのだけど、これでやっと安心できた。
 しかし、大した感慨もない。高い目標値だった訳でもないし、そこそこの努力で模試では十分な結果だったし。正直、受かることはほぼ確信していたのだ。思わずガッツポーズしてしまうような喜びは、どこにも湧いてこない。
 父に報告すると、そうか良かったな、おめでとう、と言って微笑んで貰えた。当然の反応だ。しかし父も、大騒ぎするほど喜んではいない。それもそのはずだ。私は当然受かるであろう大学を受験したのだから。今日は、平凡な日常のいつもの一日と大差ない日なのだ。
 しーちゃんに報告すると、4月から同じ大学だね!よろしくね!と喜んでくれた。それは私も嬉しかったけれど、なんだか、しーちゃんと同じ大学に入るためだけに受験勉強してたような錯覚を起こしてしまった。そんな訳はないのに。他に大した理由もなく受験した大学だから、しーちゃんと同じ大学、ということしか意識できない。もちろん同じ大学にしーちゃんがいるのは嬉しいのに。
 塾に報告しに行った時に、告白してくれたSくんを遠目に見かけた。笑顔だったから恐らく彼も志望校に受かったのだろう。おめでとう、と心の中だけで言ってみる。直接声を掛けることはしない。きっと、二度と、顔を見ることもないだろう。私はもう、彼に何の興味もない。一瞬目が合った気がしたのは、きっと気のせい。

 合格を確認した週の土曜日、また焼肉を食べに行くことになった。合格祝いだそうだ。
「莉子は焼肉好きだろう?」
 と父から言われて、うん、と肯定するしかなかった。あの日焼肉を食べたい、と言ったのは単純な思い付きだったのに、どうやら焼肉は私の大好物だと思っているらしい。私を、喜ばせようと、してくれているらしい。
 肉を焼きながら、またどうでも良い話をした。入学式はいつだとか、履修登録はいつまでだとか、父の仕事が少し落ち着いたらしいとか。合格してすっかり気が抜けた私は、何も苛立つこともなく聞くことができた。あの日と違って。
 好きなだけ食べて良いぞ、と父は言う。絞めに冷麺でも食べようか、デザートも頼んで良いぞ。それらの言葉はきっと、彼なりに私の努力を称え喜ばせようとして言ってくれている。でも私は何だか胸が痛む。そんなに大した努力はしていないから。
 もしかしたら単なる合格祝いではなく、ロクに言葉も交わさなかった日々を埋めるつもりで、喜ばせようとしてくれているのかもしれない。仕事が落ち着いて、ようやく、私とロクに話もしていないことに気付いたのかもしれない。気付くの遅くないか。
 でも私も、気付くの遅いけれど、努力が足りなかったと思っている。美味しい物を食べさせてもらって、今までの時間を埋めて貰って、微笑んで貰えるような、それに見合うだけのことを私はしていない。なんだか申し訳ない。お肉が少し焦げているくらいで、私に見合う気がする。けれど父は適度な焼き加減の肉を私の取り皿に乗せてくれる。優しくしてくれている。自分の皿には乗せずに。自分ももっと食べれば良いのに。
 理系の学部だから文系よりも学費が高いことを思い出す。父にそれを言うと、金のことは心配しなくていい、と言われる。
「そういう心配をさせないために俺は毎日働いてるんだから」
 と照れたように笑った。その笑顔が私の目に染みる。
 涙が出そうな気がして、でも何が悲しいかよくわからない。嬉し涙ではないことは確かだ。父が、優しくしてくれることが悲しい?と言うよりも、自分はその優しさに見合っていない気がして悲しい?家事もしているから十分見合ってる?そういうことじゃなくて。
 そう言えばあの日の角煮は結局どうしたんだっけ。あの翌日に父が温め直して食べたらしいけれど、塾に行っていた私は感想を聞いていない。でも私だって感想を父に言っていない。父が私にしてくれていることについて。全てについて。
「もっと偏差値高い大学を目指せば良かったなあ」
 と零したら、お前ならもっといいところも行けたと思うよ、と誇らしげに言われた。それも私には染みるのに。

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