虐待は親のせいなのだろうか
21歳の母が二人の子供を車に放置して死に至らしめたことがニュースで取り上げられた。
このニュースへの世間的な反応が興味深い。母親をジャッジするようなコメントが多くの数を占めるわけで、当然母親の肩を持つようなコメントはない。二人の子供を放置し、男の家で過ごしていた上に虚偽の申告をした最低な人間だ。そういう印象が強いだろう。本記事で母親の行動を正当化するつもりは一切ない。しかし、一部の情報だけをもとに全てを知ったかのようなジャッジは何かを解決するわけでもなく、また将来の虐待を減らすわけでもない。こうした報道も虐待の認知にはつながるかもしれないが、残念ながら件数の減少には貢献しないだろう。
我々は不快な出来事が起きた時、なぜ誰かに全責任を押し付けてしまうのだろうか。それはある意味何か問題に対して行動をしているつもりなのだろうか。あの人がいけないのだから、あの人に処罰を与えればこの問題に対処できる。そういう感覚に近いかもしれない。それとも、指を指して誰かに責任を転嫁することで自分の問題ではないと切り離す行為なのだろうか。何はともあれ責任の擦りつけが一番簡単なのは事実だ。安倍総理の暗殺においても同じ現象が見られ、責任の擦りつけは山上容疑者にはじまり、その母親、そして統一教会へとシフトした。問題の根本は統一教会ではないということは誰もが奥底でわかっていることだろうに。
では、この事件はこの母親の「せい」なのだろうか。二人の幼い子供が亡くなるという非常に残念な結果につながってしまったが、この母親は事件が起きるまでは立派な二児の母として一目を置かれていた立場かもしれない。そもそも21歳という年齢で二人の子供を育てるにはとてつもないエネルギーが必要である。言うまでもなく、しかし意外にも忘れられがちなことに子育ては24時間、それも成人するまでのかなり時間的、肉体的、経済的、精神的なコミットメントだ。しかも21歳は法律的には大人であってもまだ自分の将来の可能性を模索したい時期でもある。解放されることのない子育てに疲弊し、交際の時間を欲していたことも考えられる。男性の家に訪れていたことも、そういう背景の表れかもしれない。そういった背景を総じて見ずに、何をジャッジできるのだろうか。
今回の事件は、我々の社会全体が招いた結果である。この若い母親をサポートできなかったこと、それは社会が子供と母親をネグレクトした結果だ。本来はコミュニティで育てるはずの子供を母親に託し、それを当たり前の期待値として強いてしまったのが本当の反省点なのではないか。
今回の事件でこの母親が二人の子供を失い、その上法律で裁かれ罰を与えられることには、正直腑に落ちない部分がある。苦労をして育ち、生きづらさを抱えた人は、努力の過程ではなく結果のみで裁かれ、ジャッジされ、さらに罰を与えられる。これは果たして正しい世の中の仕組みなのだろうか。こうした普遍化したイデオロギーに疑問を持ち、誰かをせめるのではなく、全員で責任を共有し合い、将来性のある議論をすることが社会全体の課題であろう。