ハーブで深読みする絵画 -聖アントニウスの聖パウロ訪問/イーゼンハイムの祭壇画-
描かれたハーブの効果・効能から見ていくことで描かれた場面をもっと深堀りしていくシーリーズ。
【聖アントニウスの聖パウロ訪問/グリューネヴァルト】
宗教画では、ある時代に多くの画家により積極的に繰り返し描かれる主題があって、多くの場合、その主題はその時代背景を受け選ばれ好まれ描かれている。
中世末期、ドイツ・ネーデルラントを中心として、「聖アントニウスの誘惑」という主題が流行した。
この主題が積極的に描かれた理由は、“聖アントニウスの火“と呼ばれる疫病が中世を通じてアルプス以北のヨーロッパで繰り返し流行したからだ。
「聖アントニウスの誘惑」を含むグリューネヴァルトによるイーゼンハイムの祭壇画には意図的にとても多くのハーブが描き込まれている。
この描かれたハーブをヒントに当時の聖アントニウス修道院ではハーブがそんな風に活用されていたのかを深掘りしていきます。
イーゼンハイム祭壇画と聖アントニウス修道会
イーゼンハイム祭壇画は、フランス・アルザス地方の小村イーゼンハイムにあった聖アントニウス会修道院の注文でグリューネヴルトにより16世紀初頭に制作された10の場面で構成される祭壇画で、現在はコルマールのウンターリンデン美術館に展示されている。はず・・・
作者がドイツ人であったことから、ドイツやネーデルラントに多くみられる展開式多翼祭壇画と呼ばれる形式で制作されていて、4枚の回転翼、2枚の固定翼、取り外し型のプレデッラ(帯状小画面)に描かれる10場面が3面構成で展開されている。
祭壇画の注文主である聖アントニウス会修道院は、ペストをはじめとする疫病からの加護、特に当時流行していた“聖アントニウスの火”と呼ばれる奇病の治癒を目的として建てられ、病気の名前にもなっている聖アントニウスという治癒神(時代によっては病気の原因とされる)を祭る治療施設を備えた修道院。
今回はハーブに焦点を当てるため、聖アントニウス会の成り立ちとか、この病が“聖アントニウスの火”と呼ばれるに至った背景等についての詳細の説明は省略します。 これも調べてみるととても興味深かったです。
ご興味あれば調べてみてください。
アントニウスの火
“聖アントニウスの火“とはヨーロッパ中世の三大疫病での一つで、中世を通じてアルプス以北のヨーロッパで繰り返し流行した麦角アルカロイドによる中毒病です。
18世紀に入り、フランスの医師・植物学者であるドニ・ドダールにより発表され、“聖アントニウスの火”と麦角中毒が同一視されるようになるまで、この病の発生および治癒の舞台は聖アントニウス信仰と共にあったと言える。
“聖アントニウスの火”の代表的な症状は手足のしびれ・全身の痙攣・幻覚・てんかんにはじまり、四肢の灼けつくような感覚の痛みや腫れ、黒ずみののち手指などの壊疽。そして進行すると死に至るというものらしい。
この病にかかったものの多くは治癒を願い、聖アントニウス会修道院を目指し、巡礼の旅へと出かけた。
修道院に備えられた治療院では、到着した患者たちにまず、Saint Vinageと呼ばれる聖人の遺骨を浸したとされている聖なる酒(実際には様々な薬草入りの酒)を飲ませ、神に祈り、必要であれば専門の外科医により壊疽が進んでいる部分の切断が行われた。
『福井県立美術館 研究紀要 第2号』には、この聖なる酒について、
「二・三口の聖なる酒を飲まされる。あるいはそれは患部にぬられる場合もあった。ただこれだけの簡単な治療ではあったが、それが極めて効果的であったことが記録されている。」
と記され、1534年にアイマール・ファルコによるアントニウス修道院の歴史についての記述に、聖遺骨を浸した聖なる酒が、病気の箇所に局所的にぬられたり、飲まれたりしたという実例が紹介されていると記している。
(う~ん、そういう文献読めるのうらやましい。)
どうやら、アントニウス修道会は、単に僧侶の集まりというだけでなく、契約によって有能な外科医を集めていて、それが修道会の発展にも重要な役割を果たしていたらしい。
それらの医療行為に併せ、イーゼンハイムの場合、患者は主祭壇の前で祈りをささげることができたそうだ。
この主祭壇、聖堂内陣の奥にあって通常の参拝者は障壁の彼方に望むしかなかったから、祈ること自体が治療の一環とされていたことが良くわかる。
「聖アントニウスの聖パウルス訪問」に描かれるハーブ
イーゼンハイム祭壇画の10の場面のうちの1つに聖アントニウスが隠修士である聖パウルスを訪ねたという「黄金伝説」の伝承に基づく「聖アントニウスの聖パウルス訪問」がある。
実際の二人の出会いの場所は砂漠なのだが、イーゼンハイム祭壇画では森の中として描かれ、二人の聖人と共に多くの植物が描かれている。
これらの植物の中に、実際に治療院で用いられた聖なる酒や外用薬の材料となった薬草が描かれている。
非常に正確に写生されており、オオバコ・クマツヅラ・ケシなど、全部で14種の薬草が描かれていると言われているそう。
実際に確かめてみたところ、はっきりとそれとわかるものが①ラベンダー②ケシ③クローバー④ミント⑤レモンバーム⑥スペルト小麦⑦オオバコ⑧クマツヅラ。
形状から可能性が高いものとして⑨セージ⑩ガーリック。ここまでで10種までたどり着いた。
しかし・・・残りの4種については実際の絵を目の当たりにしているわけではないので、なかなか特定が難しい・・・
また、それぞれのハーブの使用方法についても特定できる文献が見つからない。
そこで、この薬草が描かれるなど当時の聖アントニウス会修道院の様子を描いているとされるこの絵画の中にヒントを求めることとした。
聖ヒルデガルトとの関わり
この祭壇画には他にも多くの謎が描かれているらしく、一つ一つが興味深い研究対象となっている。
興味深い発見として『芸術新潮2015年8月号』にこんなことが紹介されていた。
これまで、祭壇画の第2面に描かれていた「庭園の聖母」の背景に描かれている教会は、コルマールから東南東15キロのドイツの町ブライザッハの大聖堂であるとされてきたが、実は、ビンゲンの町郊外にあったルペルツベルク修道院であったことがわかったそうだ。
ルペルツベルク修道院といえば、ドイツ薬草学の祖と言われるヒルデガルト・フォン・ビンケンが12世紀半ばに創建した女子修道院である。
(ルペルツベルク修道院は三十年戦争の戦禍により廃絶しているため、現在は実物を見ることは出来ないです)
このような祭壇画の場合、テーマを決めるのは画家や彫刻家ではなく、注文者だ。
イーゼンハイム祭壇画であればそのテーマは注文主である聖アントニウス会により決定されている。
グリューネヴァルトの起用や複雑な図像プログラムなども含め、基本的には注文者の意に発したものと考えられる。
そうしたことを踏まえ、ルペルツベルク修道院を描き入れていることから、ルペルツベルク修道院やその創建者であるヒルデガルトの残した薬草学の知識を取り入れていたのではないか・・・と考えられる。
また、それらとの深い関わりを示すため、あるいは、その功績に対する敬意を示すために描かれた可能性があると考えることもできる。
このヒントをもとに、断定しがたいハーブの特定をヒルデガルトのレシピに求めることにした。
14種のハーブと役割
イーゼンハイム祭壇画の第3面の「聖アントニウスの誘惑」に描かれている全身が腫瘍で覆われた怪物は“アントニウスの火”などの疫病に罹患した人間の姿をアレンジしたものと考えられている。
また、『芸術新潮2015年8月号』には、「聖アントニウスの誘惑」の光景が麦角中毒の患者が高熱のあまりに見る幻覚と関連付けられていたとある。
ならば…先にあげた“アントニウスの火”の症状である
1.全身の痙攣・てんかん
2.四肢の痛み・腫れ に加え、
3.高熱
4.皮膚疾患
5.切断後の傷 に関する記述に絞って
『ヒルデガルトのハーブ療法』(ハイデローレ・クルーゲ著)に紹介される症状別レシピから、使用する可能性のあるハーブをピックアップしてみた。
1. 全身の痙攣:オリーブオイルでマッサージ
2. 痛み:コタニワタリの粉末をワインに溶かして飲む
3. 熱:コウリョウキョウ水とマスターワートワインを飲む
4. 膿瘍(皮膚炎):バーベインの温湿布 カレンデュラの湿布
ヨウシュクサノオウの軟膏 ソラマメの温湿布
5. 傷:サニクルの内用と外用
この名前のあがったハーブを、一つ一つ断定できていない不明なハーブと照らし合わせていったところ、サニクルとコタニワタリがとてもよく似た形状だとわかった。
前述のハーブ10種と、この2種を使用していたと仮定して、
さらに、それぞれのハーブの用途を聖なる酒用か外用の2パターンに絞って、『聖ヒルデガルトの医学と自然学』(ヒルデガルト・フォン・ビンケン著)に紹介されるメディカルハーブの特性や使用例等を中心に分類してみた。
※『聖ヒルデガルトの医学と自然学』に記載のないものは他文献より抜粋しました。
ヒルデガルトによると・・・・
① スパイクラベンダー
ワインで煮るか、なければハチミツと水で煮て温めて飲む。
たびたび飲んでいると肝臓や肺の痛みを和らげ、胸が詰まって息苦しいのが楽になる。 また、考え方や気質も純粋になっていく。
② ケシ
その種は食べると睡眠をもたらし、痒疹(かゆい吹き出物ができる皮膚疾患)を妨げる。
③ クローバー
花は抗炎症の浄化薬として、肌のトラブルや関節炎に用いる。
葉は止血に使用。
※『聖ヒルデガルトの医学と自然学』には目のかすみ以外の利用法が記載されていなかったため、『ハーブの写真図鑑』(レスリー・ブレムネス著)より抜粋
④ スペアミント
ギヒト(痛風や関節炎等)に冒された人は潰した液汁を布で濾し少量のワインを加え朝と夕方、それに就寝時に飲めばギヒトは軽くなるだろう。
⑤ レモンバーム
ヨーロッパ諸国では、バームは気絶、めまい、外傷、神経痛、熱をともなう風邪の治療薬として一般家庭で使われている。レモンバームはまた、シャルトルーズ*1やベネディクティン*2などのリキュールにも含まれている。中世にはアラビアの医師たちもその鎮静効果、消化促進作用、解熱効果を高く評価していた。
※『聖ヒルデガルトの医学と自然学』には未収載のため、『西洋中世ハーブ辞典』(マーガレット・B・フリーマン著)より抜粋
*1:フランス ベネディクト派修道院で作られていたリキュール
*2:フランス カルトジオ会に伝えられたリキュール
⑥ スペルト小麦
食べると血液を佳良にし、肉付きも調整される。病人がこれを食べると、良質の軟膏が外から効くように、内側から病が癒されていく。
⑦ オオバコ
液体成分を絞り出して布で濾し、ワインまたはハチミツと混ぜた飲料をギヒト(痛風や関節炎等)に苦しむ人に与えなさい。
⑧ クマツヅラ
潰瘍や虫のため人の肉に腐りが生じた場合、バーベインを水の中で加熱する。腐った腫瘍あるは虫によって腐りの生じた部分にリンネルの布を置く。わずかに水を絞り出したバーベインを適度に温かいうちにリンネルの布の上にのせる。バーベインが乾いたら同じように加熱してふたたび置く。この療法を腐れがなくなるまで行う。
⑨ コモンセージ
水で煮て飲むと悪い体液や粘液が減っていく。セージの熱は水によって中和され、しびれや中風を抑制する。ワインとともにセージを摂ると、人間の身体の中のしびれを引き起こす体液が、体外へと排出される。
⑩ ガーリック
病人にも、健康な人にとっても、ニンニクはリーキよりも食べると健康に寄与する。
⑪ サニクル
刀剣等で傷ついた場合、サニクルを水に入れて食後に飲むとよい。この飲み物が傷を内側から浄化し、ゆっくりと治していく。
⑫ コタニワタリ
何らかの痛みから突然極端に衰弱してしまったような時には、即座にこの粉を温かいワインに入れて飲むとよくなっていく。
なるほど、聖なるワインには解熱・鎮痛・鎮静を目的として、
ラベンダー・スペアミント・レモンバーム・コモンセージ・オオバコ・サニクル・コタニワタリが使用されたのだろう。
皮膚疾患、または術後の傷口に湿布や軟膏などの外用薬として、
ラベンダー・クローバー・レモンバーム・クマツヅラが使用されていたんだな・・・。
聖なる酒の使用例から考えると、外用薬に使ったと仮定したクローバーはワインにも使用されている可能性もあると考えらる。
その他のスペルト小麦・ガーリックは早期回復を促すために食用として、
ケシは切断手術のための麻酔として使用されていた可能性があるのだな。
不明である残り2種についても、きっとワインまたは外用薬の材料として使われていた可能性が高いだろう・・・。
セット(期待感)・セッティング(摂取環境)・ドーズ(刺激の量)の3つの要素
刺激に対する望ましい反応を得るには、セット(期待感)・セッティング(摂取環境)・ドーズ(刺激の量)の3つの要素を整えることが必要らしい。
イーゼンハイムのアントニウス修道院の場合、
“アントニウスの火”にかかった患者は、多くの患者がその利益により治癒したと噂される聖アントニウスを祭る教会へ自身の治癒を願い(セット:期待感)巡礼の旅に出かけ、
長い旅路の苦難に耐えたどり着いた先には、聖なる酒や外用薬、また病状によっては専門の外科医による四肢の切断という、段階に合わせた治療(ドーズ:刺激量)が施され、
何より、祭壇画を拝する(セッティング:摂取環境)という信仰による精神的な救済が施された。
イーゼンハイムのアントニウス修道院はこの3つの要素を充分に備えていたのだろう。
この3要素により、ハーブを使用したワインや外用薬が患者の治療に、より効果的に作用していたのかもしれない。
イーゼンハイム祭壇画の第1面に描かれている「キリスト磔刑」は、十字架にかけられたキリストが、まさに“アントニウスの火”に罹患した患者の姿と同様に、痛々しいほどに鮮烈に描かれている。
この姿に巡礼者は民のため難に合ったキリストと自身の姿・苦しみを重ね合わせたのかもしれない。
扉絵なので、当時は常に全ての場面が開かれていたわけではないそうだ。
常に見ることが出来た第1面のみを拝して亡くなった患者もいただろう。
限られた日に見ることが出来る第2面・第3面、全場面を見るためには一年近くの滞在を要したと考えられる。
全場面をすぐに見ることが出来ないことも、患者にとっては第2面を見ることが出来たという喜びや、全場面を見るまで生きていたいという闘病生活の中での希望となっていたのだろう。
ハーブによる治療と外科手術、そして、信仰による精神的癒しを利用したアントニウス修道会のホリスティックな治療法は、現代の統合医療に近しいものだったのではないだろうか…
そんなことを考えながらこの絵を観ると、
病いを治したいという思いや、少しでも多くの人を病いの苦しみから救いたいという強い気持ちが謎々のような表現で沢山散りばめられているような気がしてくる。
最初に思った印象よりもずっと、奥深く謎めいていてとってもとっても神聖なものにみえてくる。
医療と信仰が密接であった時代の様子を物語る様々な謎を秘めたイーゼンハイムの祭壇画は現在も多くの人々を惹きつけている。
今後も祭壇画に隠された謎の新しい発見に期待が高まるばかりだ。
この記事を読んでくださったあなたに、この作品の不思議な魅力がちょっとでも伝わったなら幸いです。
次回はこの場面の香りについてのんびりと・・・
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