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伝えたい思いを胸に

お盆も過ぎ、時は8月下旬。

未だ暑さこそ和らいでいない感はありますが、日の出日の入り時刻にも変化が見られ、日照時間が徐々に縮まって来ている様子。

少しずつ少しずつ、季節が秋に近付いているのが感じて取れる今日この頃です。



さて。
私事ですが、今年はなかなかタイミングが合わず、お盆明け(お盆最終日)となる8月16日(水)午前中、駆け込むように複数箇所のお墓参りに行って来ました。

昨年、実家じまいに続き墓じまいを終えた事で、これまで私の生まれ故郷に建っていた先祖代々の墓は既に存在しませんが、今の自宅から比較的近い霊園の合葬墓にご先祖らは眠っています。


お盆といえば先祖が帰って来るとされている期間。

幼少時代、父方の祖父母と一緒に暮らしていた私は、特に信心深かった祖母のそんな言葉を受け、また毎日仏壇に向かって手を合わせる祖母の姿を見て育ちました。

それによって、私も何時の頃からか祖母を真似て毎朝仏前に立つようになり、またお盆と彼岸はお墓参りに行く期間と、物心つく頃から認識していたように思います。

しかし何の能力も無い私には、先祖らの姿も見えなければ声を聞く事も出来ませんから、当時は祖母の傍らで、ただ漠然と手を合わせていただけかも知れません。


そんな私でしたが、自身が小学5年生の時に大好きだった祖母が他界。

永遠の別れがこれほどまでに辛く悲しいものだったとは……と、暫く悲しみの癒えない日々を過ごしました。


やがて時が経つに連れ、その悲しみも何処か違ったものに、言わば少しずつ良い想い出に変わって来ていると感じられるようになっていた私でしたが、またそれと同時に、仏前で手を合わせる時も、これまでとは違った思いでその場に立っている事に気付いたのでした。

「ばあちゃん、今日は学校でこんな事があったよ」

「ばあちゃん、今日は暑いね」

……そう。

在りし日の祖母と会話する時と同じように、祖母に話し掛けているのです。

自分の思いを一方的に伝える事しか出来ませんし、勿論言葉も返って来ませんが、こうした時間が何時しか私の安らぎともなって行きました。


先祖供養とは言いますが、「仏作って魂入れず」の言葉にもあるように、高いお金を掛けてただ儀式めいた事をすれば良い訳ではない。

物理的に仏前、墓前に立つ事が難しい場合もあるでしょう。

そのような時は故人の顔を思い浮かべ、心の中で気持ちを伝えるだけでも良いと私は思います。

どのような形であれ、心が伴ってこそ。

誰に強いられるでもなく、そもそも「先祖供養」の概念も無いままに、私は祖母から自然な形でそれらを教わった事になります。




月日は流れ、あれ以後父方の祖父、母方の祖父、母方の祖母、そして実父……と、幾つもの別れを経て今に至りますが、今ではお盆・彼岸のみならず、可能な限り各々の命日にも墓前に立つようにしています。

そしてそれはお墓参りというよりは、やはり私の中では肉親に会いに行く感覚に近いものがあります。

今の暮らしに感謝の思いを述べると共に、実は願い事をする時も。

一時、自分はもしかしたら肉親に見返りを求めるような行いをしているのではなかろうかとの思いもありましたが、とある方の言葉によると、どうやら願い事をしてはいけない訳ではないようです。

勿論、人を傷付けるような内容や、ただ私腹を肥やす為の願い事では駄目ですが、自身がよりよく生きる為の前向きな願いならば通じるという事なのかも知れません。

それもおそらく劇的にという事ではなく、言わば餡子の塩のような力が働いて、気付きを得る事で結果的に願いが叶った、或いは危機を脱していた……そんな自然な流れとなるのかも知れません。

また仏前で、また墓前で手を合わせるような人を故人はちゃんと見ていると聞いた事があります。



来る9月3日(日)。
この記事を書いている10日ほど先ですが、その日で実父が旅立って丸3年を迎える事となります。

例によって、命日の当日は父の好物だったビールやおつまみを持ってお墓参りを予定しています。

なかなか声を大にして言えるものではありませんが、私は父の死に目に会う事もしなければ、実は葬儀にも出席していません。

しかもそれは、私自身が意図しての事。
端から見れば非情にも奇異にも映るでしょう。

しかしながら、それに関しては全く後悔はしていません。

何故このような流れとなったのかは追って記事にする予定ですが、先ずはそれまでの間、父との場面を回想しながら当日に備えようと思います。


本日もこのような拙文をお読みいただき、誠にありがとうございます。

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