脱コル運動の可能性を信じ続ける貴方へ【8/23追記加筆】
これは、脱コルセット運動の可能性と希望を信じ続ける未来の貴方へ贈ります。
【先ずは復習:脱コルセット運動とは】
脱コルセット運動とは、女性にのみ過剰に要求され続ける社会的装飾・女性らしさの義務や社会的女性性の要求・規範をボイコットする韓国発の社会運動である。
脱コル運動そのものについては、かなり分かり易くまとめて下さっている方が既に居る為、此処では割愛することとする。
しかし、上記はてブも、後述するが「誰が、女性の外見を判断するのだろうか。」の項に於ては見解が異なる箇所があるので後々付け加えさせて頂きたい。
【ジェンダー装飾義務について】
ジェンダー装飾義務とは社会から要請されたものです。ジェンダーを日本語訳すると「社会的性」に相当するので当然ですが。
男尊女卑社会に於いては、社会的地位が高ければ高い程その「社会的に許された女性モデル」の要請抑圧は高まります。近頃、会見時に小池百合子がマスクを外した際口紅の塗り忘れを謝罪したのは「女にしては男並みに仕事もし、装飾義務も完璧にこなしている」者であるかという社会からの要請にうまく適応し、応える為である。
そこからたまたま免罪して貰える環境下にあった少数女性が居たからとて、社会情勢や環境や立場、国により、それら「社会的性の装飾義務要請」は変動します。
「誰がより抜け穴を抜けられる社会的環境・立場・情勢であったか」をどんぐりの背比べしますか?
コロナ禍の社会的情勢により、皆在宅で仕事なり勉強なりするしかないStayHomeのこのご時勢に?
それほど無意味な競争は無いでしょう。
管理職になってから部下男性や取引先のクレームを受け化粧し始めた女性は、化粧しなくて良い平社員の立場の女性を社会的に踏んでいるのか。
同じ会社内でも、営業職と受付職には化粧を社内規定により義務化し、内勤や工場勤務の者には化粧の社内規定は存在しない会社では、営業職と受付職の女性が内勤や工場勤務の者を踏んでしまっているのか。
社内規定によりせざるを得ない立場の者へ、自省と自覚を常に己に促し、他の誰かしらの女性に対し「踏んでしまっていた」と罪悪感に苛まれ続けるべきと内省を要求し続けますか?
女性全員に対し大なり小なりすべからく存在する社会的要請に対し、女性全員が装飾し過剰適応していた状態を、一部が社会的要請義務を放棄し始め、その勢力は徐々に拡大し、最終的に社会的性の撤廃をし、
抑圧者(男)と同等レベルの、一律では無く多様な筈の本来の生物的女性の状態を取り戻すのがこの運動の真髄でしょう。
実社会ではこの画像の1コマ目の母集団の100倍の相当数の女性が居ると仮定しよう。
化粧もスカートも纏わない女性が一人紛れ込んでいたとしても、それは「変人」扱いをされて終わりでしょう。
もしくは、肌が弱い・冷え性であるなどの体質の問題か、「あの子は化粧が似合わない顏やキャラであるから仕方がない」とトランスジェンダー・オヤジギャル(古い)判定をされるか、物臭な性格の問題ではないかと評定されます。
これらの状態を、仮に名称を付けるのならば、「社会的抑圧から例外的に免罪されている状態」と呼びます。
そして、「この者を特別に免罪しても良いかどうかのジャッジメント」は、男女問わず、常に周囲の目が評定を下します。
ロムセン氏のはてブの中では「誰が、女性の外見を判断するのだろうか。」について
では誰が、女性の外見を判断するのだろうか。もちろんそれは女性より上位にいる男だ。もしくは男社会のなかで自らの優位性を確立してきたごく一部の女性だろう。もちろん同階級における同性間での容姿評価もある。だがそれは上に位置する者がいるからこそ、そして外見を評価し合うことが、女性同士の関係において一般化しているからこそ頻繁に行われることだ。
とあったが、実際には
老婆(※男社会の中では最も社会的価値が無いと認定されがちであり、ここでは過去男社会のなかで自らの優位性を確立してきたか如何に問わない)
や
女児(※幼い娘)に於ても
「貴方は若い女性なのに他の人と違って化粧していないのね」
「ママはなんでテレビの人達みたいにお化粧してないの?」
と疑問を呈されることは、往々にしてある。
これは、実社会に暮らす誰もが、「若い女性は当然化粧をしているべき。装飾している状態がデフォルトである」と言うジェンダーバイアスの規範を内面化している所為で起こるのである。
少し主題から逸れるが、一人称や、言葉遣いの丁寧さについても、女性のみに対して一律的に求められている女性性規範の一類型である。
女性のみが、丁寧に敬語で話し、字は美しく、おしとやかであり、一人称は「私」を使用する、そのモデルしか認められていない。
中高時代、スクールカースト的には下位存在でありそうなナードな女性達の一部に「僕っ子」や「俺女」が存在していた事を目撃した方はいらっしゃらないだろうか?
そして、それら「私」という一人称を使わない者達は、往々にして全方位から馬鹿にされがちであった。
よく脱コルセット中の運動者へ対し疑問として挙げられる「男化するのが目的なのか」に対しては、寧ろ「女はこれだけしか認められていない」の狭い規範から脱却することが目的、と説明がつく。
というよりも、そもそも、男だけが人間の姿をしていて、女性が奴隷の姿をしている状態を覆すための「権力奪還」のための社会運動なのである。
ココ・シャネルがかつて作り上げた「スタイル」について、引用しよう。
ココ・シャネルが作った「スタイル」って何ですか?
https://blog.apparel-web.com/theme/trend/author/kurita/7b166371-2bd9-4607-a172-468d6866a286
シャネルは女性ファッションに多くのイノベーション(新基軸)を起こしました。現在では当たり前の「スタイル」になっているものばかりです。
ここでの、 1. パンツスタイル と 2. ジャージー素材 をレディースのファッションの文脈で取り入れた事こそが、ココ・シャネルの画期的な功績だと讃えられている訳だが、特にこの一文に注目して頂きたい。
1914年に第一次世界大戦が始まると、戦争に行く男性に代わって多くの女性が社会に出て仕事をするようになりました。工場などといった男性職場で働く女性も増え、作業着として男性用ズボンを履く人も増えました。そんな姿を見て、自分自身もパンツスタイルを好んだココ・シャネルのですが、おしゃれな女性用のパンススタイルを作り出しました。パンツスタイルは多くの賛同者を生み、機能性よりもファッションとして流行しましたが、後年、彼女はこのことを後悔したといわれます。
「私は慎みを持って女性のパンツスタイルを作り出した。しかし、その履きやすさから、今では7割の女性がディナーの場にまでパンツを履いくるようになってしまったのは、とても寂しいことだ。」ココ・シャネル86歳のときのことばです。
女性向けファッションデザイナーとして、華やかさを重視する立場から漏れ出た後悔を吐露するココ・シャネルだが、機能性の面のみを抽出したら、長年、従来の女性にあてがわれ続けて来たスカートスタイルよりも、作業着としての男性用ズボンが一番社会で機能的に過ごすのに適していることを示唆している文章だ。
但し、女性にファッションに無頓着になられるようでは、ファッション業界は無論、男社会(家父長制社会)にとっても、都合が悪いので(※どう都合が悪いかの詳細は後述)、
女性向けに、よりファッション性に特化したパンツスタイルというものが今日に至るまで、開発され続けて来たのである。
その結果、ただのジーンズパンツですら、女性向けの物のみがしゃがめば腰から背中にかけてが丸見えになるローライズ、腰部のポケットはほぼ物が入らない飾りと化し、太腿周りはボディラインが強調されるように身体にフィットし少しでも太る事を許さず、裾もスキニースタイルが流行した所為でふくらはぎから足首までゆとりが無い状態の商品が広く流通している。
言わば、流行の服(商品)に合わせて女性の身体側の方がカスタムされ、調整するべきと言わんばかりの風潮である。
これらは全て「女性にのみ用意されたコルセットである」と定義づけることが出来るだろう。
女性のみ、一律に過剰に要請され続ける装飾の義務・抑圧を大人数でボイコットし、社会の女性に嵌められた枷を外す。
そして枷を外した状態の本来の状態を取り戻した女性にはステレオタイプの装飾モデルというものも、やがては無効化される。
それが脱コルセット運動の意義であると私は考えます。
『根源的なFeminism』とは何なのか、自分の頭で考えてみて下さい。
Feminismに触れるより以前から、「女だからって皆が皆化粧好きではないぞ」と訴えていた筈です。
しかし、長引く洗脳状態や、社会的要請・抑圧が強過ぎて中々誰も声を上げられず、可視化もされなかった状態だった。
社会運動とは、先ずは居ないものとされていた存在を可視化させる集団行動です。ストライキや国会前デモを思い出して下さい。国会前デモでは、自民党が最多得票数であっても自民党政治に納得のいかない国民の人数の可視化を常にしている筈です。
【元装飾者への私怨?(8/23加筆)】
この項目は、7/30公開の零氏のnote「ここ数日間の脱コル議論の経緯と個人的意見について」の以下の文章に対し、私なりの意見で応える為に記した事をここに明記しておく。
僕は以前から一貫して「僕が非装飾を貫いている間に装飾をして「女は装飾する」という性規範を温存していた装飾者に私怨はあるものの、脱コル者が増えることはその性規範を破壊することになるため、私怨とは別軸で脱コルという社会運動は積極的に応援したい」というスタンスをとっている。「性規範を強化していたという点で脱コル済みの元装飾者に対する個人的な恨みつらみはあるが、脱コル運動は正しいと思うからみんなどんどん脱コルして」ということである。
ここで零氏の言う、『私怨』『個人的な恨みつらみ』とは、一体どのような感情なのか。残念ながら此方には想像することしか叶わない為、是非とも零氏御本人から拝聴したいところではあるが、一旦、此方で『性規範を温存していた装飾者に私怨』と言うものを深堀し、検証したい事とする。
零氏におきましては、下記記述に相違がある場合は、Tweetで是非ともご教授頂きたい。ないし、noteの次回作を期待しております。ご負担かけ申し訳ありません。
本題。
脱コル運動者が支持する韓国人女性が執筆した漫画がある。
『脱コル日記』
脱コル日記の登場人物ロアは、脱コル運動中の主人公のベミに対し「今日化粧してないじゃん、寝坊した?大丈夫?化粧品貸そうか?」と『主体的装飾』を勧めてくる友人である。
その装飾の勧めに対し、ベミは「正直不愉快だ」としている。
「わいが頑張って脱いだコルセットなのに、わいがどうやっても維持したい脱コルセットなのに」と。
一見して、その友人個人に私怨を抱くようなコマに見えるであろうか?
だがこの漫画の優れているところは、その類稀なる表現力である。
次のページでは、その友人だけがたまたま悪い人なのではなく、反りが合わないと言うわけでもなく、脱コル支持者の狭いSNSコミュの画面を一度OFFしたら、リアルの場で、生身の人間からの台詞で、際限無く『女性に対する装飾の要求は陰に陽に、全てのソーシャルな場で圧力として降りかかる』ことを表現している。
そこに無二の親友ですらも例外ではない事を示唆する。
主人公ベミは、家父長制構造を理解しラディフェミになり、脱コル後、
まだ洗脳ガンギマリ状態のロアにリップを塗ることを提案されて、ロアに対してのみ、本当に、「私に装飾を薦めやがって」と憎み、私怨を抱いていただろうか?だとしたら何故友達付き合いをやめないのか。
複雑そうな顔をして、抱いた感情には、憐憫の情も紛れていたのではなかろうか。
社会構造や男社会からの洗脳を知っていれば、「あぁ、これは奴隷の鎖自慢なのだ」と即座に理解できるからだ。
社会的要求に過剰適応し応えるその姿は、「ちゃんと要求された通りに振る舞いますから、どうか私を虐めないで」の服従のアピールなのである。
だから、我々ラディフェミは、近しい女性友人に「結婚って良いよ、貴方も早く結婚したら」と薦められても、「ああ、洗脳状態から抜けられていない状態なのだな」と冷静に判断する事ができるのだ。
これは、肉食社会に於けるヴィーガンの立ち位置にも酷似していると言えるだろう。
「肉は美味しいし、栄養素も効率よく吸収できるのに、どうして食べないの?」
ヴィーガン者は概ねこのような言説を友人知人他人問わず浴びせられ続けるだろうが、逐一地球環境保全の為だ、動物愛護の為だと説明してもなかなか理解は得られず、「貴方一人がどうこうした所でどうせ変わりっこないよ」「我慢せず食べたら良いのに」と変人扱いされ徒労感にばかり苛まれるだろう。
だからと言って、「肉を食べれば良いのに」と勧めてきた友人をヴィーガン者は一々憎み、縁を切っていくのだろうか?
そのような憎悪感情や交友断絶の行動によって、ヴィーガン運動者本人や運動に対しどのような良い効果が得られるだろうか。
社会構造や洗脳状態について冷静に考察済の者は、「洗脳状態の個人に対し憎悪感情を抱いた所でまるで無価値だし無意味だ」と気付く筈だ。
それにも拘らず、リップを塗る事を薦められた際、もしベミがロアに対し「私に装飾を薦めやがって」と、女性に対しすべからく洗脳してくる男社会に対してでなく、目の前にいる友人女性個人に対し、より悪感情を抱いたら?
それを女性嫌悪以外の何と言い表せばいいだろう。
また、上記の、『男性社会に過剰適応できない女性』が『過剰適応して上手く世渡りしていく女性』に対しもしも敵意を感じたとするなら、それは別の脱コル漫画「走っていく女性」のような競争を自分の意思とは関係無く誕生した瞬間から強いられ、終わらないレースを強制されるからこそ発生する憎悪ではなかろうか。
参考URL:女の子のおもちゃか男の子のおもちゃか 性別の実験
幼少期から自分の意思とは関係無く女性装を強制され続けてきた女性は、一体誰を憎むべきだろう。
自称ラディフェミの非装飾自認者とその支持者達は、あの漫画の一体何を読んでありがたがっていたのだろうか。
【 『結婚・出産』と『装飾』の社会的抑圧度の違い】
『結婚・出産』と『装飾』の社会的抑圧度の違いについても、少し触れておこう。
そもそも日本の昨今の非婚化・晩婚化は男の都合中心に社会情勢が変化してきた結果の形である。
ネオリベと自己責任論の猛毒・竹中平蔵と小泉純一郎が行った派遣法改悪を覚えているだろうか。
就職氷河期の影響と共に、あれら施策により「高卒もしくは大卒で正社員で企業に入社、その後定年まで一つの会社で働き続ける」と言う男性の正社員終身雇用モデルは崩壊し、成人男性でも派遣社員やフリーター等、不安定な雇用体系にしがみつくしかない者が続出した。
その結果、何が起こったか。
まだまだ働き盛りとされる40代前後の男性を中心に、日本人男性の収入が軒並み激減したのだ。
40代前半男性の所得の診断表
90年代初頭に比して,所得が大幅にダウンしていることに驚かれたのでしょう。「自分もロスジェネなんでよく分かる」という声も多数でした。
中央値(Median)というのは,値を高い順に並べたとき,ちょうど真ん中にくる値のことです。これより上なら半分より上,下なら半分より下,ということになります。2017年の40代前半男性の所得中央値は472万円ですが,私の所得はこれを下回っています。
また、就職氷河期・派遣法改悪による非正規雇用以外にもいつまでも完済できない奨学金返済等、理由は様々あるが、日本人成人男性の所得・貯蓄が減り続けている事は紛れもない事実である。
すると、日本の家族のカタチにはどのような変化が訪れるか。
正規雇用男性が終身雇用で働き続け一家を養い、妻は専業主婦もしくは子育て後パート主婦となり家計の補助をしつつ子供達を育てるという「男性稼ぎ主モデル」が、誰しもが励行出来る「日本家族のスタンダード」ではなくなってきたのである。
所謂、「平成初期は野原ひろしモデルが日本全国どこでも見られた家族のごく一般的な形であったのに、令和2年現在では贅沢の極みになってしまった」という現象だ。
つまり、今現在非婚・未婚のままでいる2~30代女性達の置かれている現状は、「同年代の男達が上手く稼げなくなり男らの非婚化が進み、養える余裕が無くなった為、代わりに同年代女性が日本の新たな稼ぎ頭として選出され、尚且つ、昇進はあまりさせて貰えないので収入は抑えられたまま」という歪な環境下を強いられている状況なのである。
なぜ「一生独身の男性」が30年前から急増しているのか
https://president.jp/articles/-/32990?page=2
未婚化の問題は統計的にみて女性よりも男性の方が深刻で、4人に1人が『生涯独身』となっている」
男性の貧困・非婚化に呼応する形で女性も非婚化した、が私の見解である。残念ながら、市井の女性達がデモやプロテストを行った結果として「女性の非婚化」がもたらされた訳ではない。
勿論、女性個々人達が、結婚するメリット、『旨味』が無くなった為、自身で非婚を選択・判断した者も居るだろう。が、男性の非婚化無くして女性の「結婚しなくても良い」の社会的風潮は訪れないだろうというのが見解だ。
前提部分が長くなったが、主題の『結婚・出産と装飾の抑圧度』の違いに戻ろう。
結婚とその先にほぼ既定路線化して存在している出産については、「男性の貧困化・非婚化」によって社会的抑圧が平成初期より幾分緩和された事は上記で説明した。
では、装飾の社会的抑圧については如何様か。
つい先日、Twitter上で「林修の初耳学」の『林修・すっぴん好きという男子、君たちは間違っている!!』の回の画像やTweetがよく出回っていた。
https://www.mbs.jp/mbs-column/mimi/archive/2018/08/24/013650.shtml
化粧という努力を評価すべき
さらに林先生は、女性がノーメイクの状態を見る機会はどれくらいあるのかと疑問視。ノーメイクが好きという男性の意見を間に受けたノーメイクの女性だらけの世の中と、頑張って世の中の男性が幻想を抱くような綺麗な化粧した女性が多い世の中、はたしてどっちが男性にとってありがたいか。仕事や勉強で努力して結果を出した人は褒められる。なのに化粧で化けるという努力をして結果を出した女性が「幻滅した」と6割の男性に言われるなんて理不尽と主張。
化粧・装飾をした女性が街中に溢れかえる状況は、男性からしてみたら非常に都合が良い。何せ、結婚出産と違い、自分の財布は傷まず、時間も労力も一切掛からず、ノーコスト・ノーリスクで家から一歩出るだけで、自分の目の保養が幾らでも叶うのだから。
「自分の目が潤う」「いつまでもどこに行ってもお客様気分で楽しむことができる」市井の見知らぬ女達の装飾と、「婚姻届や戸籍等、曲がりなりにも自分ごととして対応し、一家の大黒柱として妻と子を養わなければならない社会的責任感を負う」結婚・出産では、女に押し付けるには、どちらが自分(男)達にとって都合が良いか。火を見るより明らかではなかろうか?
【論理の応用(8/23加筆)】
装飾者は非装飾者を踏んでたんだからそれは分かれよって話に「装飾者のことも責められないだろ!」と反論されたりしたから批判している。
自分が今まで装飾してきたことによって女性は装飾をするという性規範を強化し、それによって抑圧を受けていた人間がいることを認識してほしい。
装飾者が装飾している間にも(眼中になかっただろうが)非装飾だった人間はこの世に存在していたわけで、その存在を蔑ろにするなと主張している。決して謝ってほしいわけではなく、「自分が装飾してたことによってどんな社会的影響を及ぼしていたのか」をしっかり見つめてほしいと言っている。
ただ、過去の装飾が抑圧を強化していたことや踏んでいた人がいた事実や構造を認識せず、僕ら非装飾者の社会的反発をなかったことにし、それでも連帯や協力を呼び掛けている姿勢に怒りもあるしあきれてもいる。
また、上記の通り「元装飾者は非装飾自認者を踏んでいたことを自覚して」と、引用元noteはもとより、主にツイッター上で頻繁に発言が上がっていた。
だが、私が【ジェンダー装飾義務について】の項で既に申し上げた通り、
社会的性(ジェンダー)装飾とは男社会の社会的要請に応える為に装飾義務が課されている。
その社会的要請、とは、勿論社会の様子や情勢、国、時代、環境が違えば移ろうものである。
今現在コロナ禍であり、高卒で就職した者の中には一度もリアル職場に出社する事なく、脱コル理念も知らぬまま、自宅で一切の化粧やスカート等女性ジェンダー装飾義務を放棄した状態で、zoom会議も自分の顔は見せずに仕事をする者も居るだろう。
言うなれば、学生時代から会社員になっても継続して非装飾が習慣化していた者が登場し始めている。
となれば、その者らは非装飾自認者の主張通り、「装飾者に踏まれ続けた非装飾者」だろうか。
ここに、私の定義を当て嵌めるのなら、「社会的要請が掛からない状態だったので、踏むも踏まれるもなかった」が正解である。
余談だが、この論理なら男のネクタイやスーツにも綺麗に当てはめることが可能である。
コロナ禍の社会情勢により新たな仕事着の着こなし方が登場し始めた事を覚えているだろうか。
「zoom会議の下半身はスウェットだが上半身はスーツを着ている状態」の男性が続出し始めたのだ。
(※素敵で分かり易く可視化されているイラストを拝見したので引用させていただいております。このイラストは下半身スウェットですらないが…)
いっそブームと言って良いだろう。
これは、上半身のzoom会議に映る部分のみ、上司や取引先、という職場関係者からの「仕事をする用の服装着ろや」の社会的要請に応えている状態となる。
今一度、女性の装飾義務の話に戻そう。
例えば、水商売・風俗嬢の女性に課せられるジェンダー装飾義務と、灼熱下の建設現場で昼間働く女性のジェンダー装飾義務も、仕事内容の違いからして、装飾義務要請の度合いが違う事は明らかだろう。
仕事内容、立場、環境によって装飾義務要請の度合いは大きく変動する。
それらを比べることに何の意味があるのだろうか?
言うなれば、「水商売の仕事内容と客や同僚、建設現場の仕事内容と客や同僚は性質が違う」、と言っているようなものだ。
当たり前の話だ。
尚、休日の装飾習慣化に対しても、同じ事が言える。
周りの環境(親、友人、恋人や場所その他)からの装飾義務要請によって大きく変動する。
例えば、山登りが趣味で元から化粧っけの無い女性二人が、バリバリ女性ジェンダー(化粧・スカート・ピンヒール)をまとった格好で山登りするだろうか。
TPOを考えても、二人ともそもそも化粧はしてこないだろう。(※そもそもTPOという用語の意味も「時と場所、場合に合った服装をすること」である)
すれ違う登山客にも、「化粧をしないなんて」「スカートを履かないなんて」とは言われない筈だ。何故なら元々、山登りと登山客は装飾義務要請をしていない場所・環境・立場だから。
では、男性アイドルの追っかけが趣味で休日はコンサートにばかり行ってる元々化粧っけの無い女性二人はどうだろうか?
周りの女性が皆綺麗に着飾って「推しのファンは恥ずかしくない可愛い女ばかりだ」、をアピールしようとしている場合、装飾義務要請はより強く掛かるのではないか。
【まとめ】
私の主張としては、一先ずは以上となる。
私は、今回の事により、運動が根付く前に既に大きなバックラッシュが発生してしまったと捉え、非常に遺憾に思う。
だが、ここで、また一旦立ち止まって、改めて最近の論点について、自分の頭でよく考えて欲しい。
『装飾の習慣化』とは、一体何の事を指していたのだろうか。
正直、この程度の論理矛盾を見抜けずに家父長制構造の打破がどうたらとラディフェミを自称していたのなら、もう少し市井に出回っている論文を読んだ方が良い。
ネットで無料でpdfで転がっているのだから。
最後に、どこぞで見かけ非常に感銘を受けた一文を、少しもじって、未来を生きる若い貴方に届けよう。
「考えるのをやめないことだけが、女性達の軽くて浮きそうな命の重しだ」。