家具職人を目指した理由-後編-
私は特別貧乏でも金持ちでもなく、
ごく一般的なありふれた家庭で育ち、
トレンドを追いかけお洒落をし、
流行りのカフェで写真を撮ってSNSにあげるような、どこにでもいる若者だ。
まさか自分が電波の届かないような場所で働くことになるなんて考えもしなかった。
埼玉のベッドタウンで生まれた私は電車に一時間も揺られれば渋谷に出ることができた。
この一時間が長いか短いか、人によって感覚が大きく異なることを大人になってから知ったのだけど、学生の私にとっては全然我慢できる時間だった。
夜になれば賑やかな街を出て、閑静な住宅街へと眠りに帰る。
見上げれば星が見えて、虫の鳴き声が聞こえるこの街が好きだった。
昼間は退屈な街だが、私の幼少期、思春期の思い出が詰まった場所である。
実は実家には不満ばかりあった。
家族についてではなく、家自体について。
築年数も経っているせいか、色々ボロボロでカビや汚れも嫌だった。
友達が新築に引っ越していく中、どうして私の家は中古なのだろうと幼ながらに思っていた。
4人家族、3LDKの2階建。
きっと普通。
埼玉の中でも東京に近い位置にあるので、多少土地の値段も高いのだろう。
私の家族は私も含め全員物持ちで、家の中は物で溢れかえっていた。
ダイニングテーブルに何も乗っていない状態を私は見たことがない。
和室のローテーブルにも常に物が積み上がっている。
なんなら床にも。
誰も片付けようとは本気で思わないようで、ストレスに感じていたのは私だけなのか。
両親は口々に互いが片付けない愚痴を言い合っていたが、自分も出来ていないので言う度に傷が増えるだけである。
思えば、部屋に散らかっている、積み上がっている者たちは片付ける場所がなかった。
3LDKのうち二部屋は私と姉の一人部屋に充てられ、残る一部屋は両親のベッドルームだった。
両親の部屋にはダブルベッドと使っていないダイニングチェアが二つ置かれているだけだった。そこに収納家具を置くスペースはなかったし、押し入れがあったけれどその中には二人の洋服と、普段使わないような物たちで容量はいっぱいだった。
だから両親の個人的な物、趣味の物とかは収納する場所がそもそも無かったのだ。
だから片付けろと言われても部屋の隅に寄せるくらいしか方法がなかった。
私が中学生だった時、私の心はトゲトゲしていて、家に帰りたくなかったのを憶えている。
思春期真っ只中、家族のことが好きになれなかったし、家に帰って自分の部屋にいても、家族とリビングにいても、心は穏やかではなかった。
散らかった部屋のように私の心もぐちゃぐちゃで、いつも何かにむしゃくしゃして人に優しくなれない時期があった。
生活環境は少なからず心に影響する。
どんな空間が良いのかは、人によって違うだろうが、子供にとっても大人にとっても心地よい空間を作ることを蔑ろにしてはいけない。
昔の思い出は家が汚いという記憶ばかりではない。
母は、花を生けたり、季節の飾りを設たり、そういうことをしてくれて、私はそれを見るたび心がとても温かくなるのを感じた。
父は釣り人なので我が家の食卓には旬の新鮮な魚が並んだ。
玄関にはどこかの国のお守りが飾ってあって、学校から帰ってそれを見るたびなんだか嬉しかった。
夏休みに祖父母の家に行き、畳に寝転んで蝉の鳴き声を聞いた。
応接間の窓辺には世界各国の置物が大小びっしり飾ってあって、マヌケな顔の動物や美しい少女の陶器、なんだか怖いよくわからない物体、祖父母が世界を旅した証がそこに佇んでいた。
「良いごちゃごちゃ」私はその部屋が大好きなのだ。
そういった暮らしの中にある豊かさについて、私は常に考えている。
人々の暮らしがより温かく優しい気持ちになれるものを提案していきたい。
家具職人は私のゴールではない。
その先の豊かな暮らしの提案が私の夢。
専門学校の卒業制作では、実家のリフォームの提案と洗面所の家具の実作をした。
片付けが苦手な家族にはどんな家具なら使いやすいだろう?
どんな収納が必要だろう?
物が片付いて、部屋が少し広く感じて、太陽が差し込んで、風が流れる。
そういう空間が心を撫でるのを家族に感じてもらいたかった。
これから先、私の夢はどんな風に叶っていくだろう。
夢は叶えるためにある。
叶うと思ってなきゃ、叶うもんも叶わないんじゃないかって思ったりもする。
夢は小さくても大きくても良いと思う。
わくわくする未来を常に描いていたい。