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【コーヒーと雑感】松本、まるもの珈琲

松本にまるもという老舗の喫茶店がある。

酸味が少なく、苦味の強い珈琲をだしてくれるお店。カフェオレとともに、モンブランを頼むのがお気に入り。松本に行くとよく歩くから、甘いものを補給してまた川の周りをぐるっと巡るのです。

松本は、20歳になる前に亡くなってしまった岡本くんの故郷。岡本くんは私の夫の友人で、私は直接面識はない。でも、夫と出会った頃からずっと岡本くんの話を聞いていたし、それから何度か松本にゆき、彼のお仏壇に挨拶をしてきた。


亡くなる前日、岡本くんは夫(その時はまだ私の夫ではないけども呼称として)と深夜に遊んでいた。ふたりともまだ大学生。いつものようにバイトのあと、ラーメンを食べて、立ち読みして、ヘルメットをかぶってバイクに2ケツして、夫を自宅まで送ってから岡本くんは下宿先に帰っていった。それが彼らが会話を交わした最後の機会で、翌日岡本くんはとても珍しい脳梗塞の一種で倒れてしまい、それから意識が戻ることはなく、その数年後に亡くなった。


その話を最初に聞いた時の私には、ものすごく身近で、しかも若い誰かが突然いなくなってしまうという経験がなかった。

だからそれはとてつもない悲しみであり喪失だという想像は難しくないけれど、その経験にまつわる気持ちを本当のところでは実感できないなって思っていた。

だけどそこから15年経って、時の経過とともに私も少しは大人になり、そして大切な人を亡くす経験をした。そうして、誰かの中に他の誰か生き続けることを、すこしはわかるようになったと思う。

それは誰かを失ったその空洞の中に、何年も雨が注がれてやがてみずうみになっていくようなもので、そのみずうみの水はときに濁ったり、ときに乾いたり、それから溢れてしまったり。コントロールができないんだけど時間をかけて、きれいな水を溜める努力をしているうちに、ああこの水はきれいだなって眺められるような時がきて、いつでも会いたい人を心に浮かべられるようになって。みずうみになった空洞は自分の中にあるのだから、だからいつも一緒に生き続けている。

夫は、大きな地震がきた時に言った。あした死ぬかもしれないのはいつだってそうだ、と。あの頃、ああそうだなあと感心したのだけど、後になってあれは彼の中に生きる岡本くんが言ったのかもと思った。

松本でまるもの珈琲を飲んでいるそのときはただただ美味しいなあ、なんだけど思い出す時うかぶのはいつも、いつも亡くした誰かを思う心に宿るみずうみのこと。

それは明るくていつだって、きれいに光っている。

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