EVに対する違和感・・・これも支配者のツールの一つに過ぎないのか
皆さんは世界の要人が集まって話し合われたパリ協定で2035年までに100%電気自動車にすると取り決めたのである。
このようなことをわざわざ取り決めることに、ちょっと違和感を覚えなかったであろうか。このような違和感を覚えることが最近ちょくちょくあり、それには一つの共通点がある。それは「支配」である。それについてEVを一つの例にとって述べてみる。皆さんは賛同していただけるであろうか。
技術革新の末に、圧倒的にガソリン車より電気自動車が便利で安く走破生も良い、となれば、あっという間に、あるいは、徐々に、確実に置き替わるであろう。
それが、なぜわざわざ世界中の要人が集まって、こんな強制とも思える取り決めをするのか、変だと思わなかったであろうか。
電気自動車はがっちりとインターネットに接続されている。
自動運転とか何とか、と言って、がっちりネットに接続されている。
ネットに接続してしまえば、なんだかんだと位置情報から、乗っている人の顔ぶれから、はてまた、外の様子から、中の様子までビデオ撮り。
会話も録音できる。
途方もない容量となるが、それで万民を監視できる。秘密を握られる。
それが出来る人・・・その人こそが支配者ではないか。
電気自動車も、我々をシープルにして支配するための道具の一つであったわけである。
皆様 それにお気づきだろうか。
電気自動車 対 ガソリン車
どちらが優れているのか。議論は多い。
電気自動車は幻想だと思うぞ。すぐ燃えるしね。
でも支配者にとってそんなことどうでも良いのだ。
皆に電気自動車を使わせて、シープルにして支配できれば良いのだ。
支配者はそのような発想で動いているのだ。
電気自動車が・・・
燃えてしまおうが
すごく重くて道路やタイヤに負担をかけようが
使い終わってへたり切ったバッテリーを捨てる場所に困る、とか
支配者にとってはどうでも良いのである。
参照ブログ:EVもある種の我々をシープルにするデジタル機器かもしれない https://note.com/sheeple1/n/naf1e33358f88