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「観潮楼歌会の頃―斎藤茂吉君追憶断片―」 吉井勇

※個人が趣味の範囲で入力したものです。
※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。


観潮楼歌会の頃―斎藤茂吉君追憶断片― 吉井勇


 今年の一月十一日に上京、十二日には宮中で行はれた新年歌会始に選者として列席、その後数日東京に滞在してゐたが、その間の或る日、はからずも私は昔観潮楼歌会が本郷千駄木の森鷗外先生のお宅で催された時の詠草と、その会の席上で各自が書いた選歌の原稿とを見る機会を得た。
 この詠草と選歌の原稿を、現在所持してゐるのは、その頃「スバル」といふ鷗外先生監修の下に、石川啄木、平野万里、及び私の三人で編輯してゐた雑誌の、経営方面を担当してゐた平出修君の令息であって、今最高検察庁に職を奉じてゐる禾君である。父君は弁護士、その息は検事であるといふことにも、何か人生の不思議な因縁が感じられた。
 私の見ることを得た原稿は、鷗外先生の、常に用ひられて居られた無地の白い上質の洋紙であつて、普通の原稿紙よりも、やや小形のものだつたが、詠草と選歌を合わせて十九葉、更にそれを区別すると詠草十一葉、選歌八葉となつてゐる。幸ひその一葉の最後のところに、「四十二年四月五日夜」と記されてあるので、この歌会の催された日も明らかである。
 詠草によつて、その夜集つた人々の名を挙げると、伊藤左千夫、佐佐木信綱、与謝野寛、斎藤茂吉、古泉千樫、北原白秋、太田正雄、平野万里、平出修のほか主人の鷗外先生と私との十一人であつて、私の記憶してゐる観潮楼歌会としては、最出席率のよかつた時代ではないかと思ふ。
 この観潮楼歌会の事は、私も幾度か書いたことがあるし、野田宇太郎君の「日本耽美派の誕生」といふ本の中にも、かなり詳しく書いてあり、ここではその成り立ちや経過を述べるだけにするが、この歌会を企てられた鷗外先生の意図するところは、与謝野寛氏の歌集「相聞」の序文の中で、次のやうに云つて居られるのを読むと、はつきり了解することが出来るのである。
「元来私は在来の歌を棄てるものでもなく、其未来を悲観するものでもないのに、それから後は新派の歌を作る人達に接近した。新詩社の会にものぞんだ。それと同時に漸進改革派とも云ふべき佐佐木信綱君一派の歌や、亡くなつた正岡子規君の余風を汲んでゐる伊藤左千夫君一派の歌をも味はつて見た。そして僕は思つた。此等の流派は皆甚しく懸隔してゐるやうではあるが、それが皆在来の歌と一しよになつて、渾然たる新抒情詩の一体を成す時代があるだらうと思つた。僕は今でもさう信じてゐる。」
 それからこの歌会に招請された人達の心持を語つてゐるものとしては、伊藤左千夫が雑誌「馬酔木」の消息欄に書いてゐる次のやうな文章が、最代表的なものではないかと思ふ。
「森鷗外氏の発意になれる一種の歌会がこの三月より同氏宅に開かれ、爾来一回づつ相催し居り候。それは主人及び上田敏、佐佐木信綱、与謝野鉄幹、平野万里の諸氏と外に小生との会合に候。文学に対する趣味と見解と、頗る相異れる人々をあつめ候。此の会合が如何なる結果を生むべきかは、今日のところ予測し難く候。時には談笑の間に友誼的研究を共にし、或時は又颯然衣を払つて筆戦相見ゆるも愉快なるべく候。要は私情を棄てて公明に従ひ、真個斯道に尽す念よりせば、交遊固より可なり、敵対毫も不可なしと存じ候」
 これで主催者と招請者と、両方の心持が大体知ることが出来ると同時に、観潮楼歌会といふものが如何いふ性質のものだつたかといふことも略分ると思ふが、要するにこの歌会は、小泉信三君が「読書雑記」の中で言つてゐるやうに、鷗外先生が国語の問題、演劇改良の問題その他に於て、幾度か唱へて来た折衷主義を実現したものに外ならない。
 かうして明治四十年三月、千駄木の観潮楼歌会に於て第一回を開催された歌会は、その後毎月一回、第一土曜日の夕刻から開かれることになり、出席者にはいろいろ異動があつたけれども、兎に角明治四十三年の春頃までは如何やら、継続して催されて来たのである。
 この歌会に集つたのは、前記の人達のほかには、いつも鷗外先生のオブザアバアのやうな形で出てゐた先生の旧友の賀古鶴所、それに歌人としては石川啄木、平福百穂、石榑千亦、服部躬治、茅野蕭々などであつて、会の形式は五つほど題を出して、その字を結んで歌を作るのであるが、歌が出来るとそれを集めて清書した後、その詠草を回覧して各自いいと思つた歌を選ぶのである。それで今度私が見ることを得たのは、その歌を清書したものと、各自選んだ歌をしるしたものと、この二つの原稿なのであつた。
 それで先づ詠草の分の原稿を見ると、十一葉の紙に書かれてある歌の数は六十八首、このうち作者の名の明らかなものは、白秋七首、万里六首、左千夫六首、信綱八首、正雄六首、千樫一首、寛二首、鷗外六首、修三首、茂吉三首であつて、他は点が入らなかつたために作者不明となつてゐる。この中の茂吉君の歌と分つてゐる三首は、
  小夜床にランプを消せばむろぬちは見えなくなりて月がよく見ゆ
  もみぢばの熳火ぬるびかこめる少男等の「紙より」ひねる一人がよしも
  さむらひになりたる夢を繰り思ふ胸のあたりがえぐし朝から
といふのであつて、三首ともどの歌集にも入つてゐないらしい。序でに他の人達がこの歌会の時に作つた歌を一首づつ挙げると、次のやうなものがある。
  世の中ゆわが気にあはぬ人を除け除け尽しなば我も残らず
  伊藤左千夫
  答ふらく君が心のあまりにも直ぐなるが故に君を疎んず
  佐佐木信綱
  しら玉の数珠とりかけて爪長き山の修験のささと鳴らすも
  与謝野寛
  意味もなくひねり曲れるビイドロの色なき管ををかしと思ひぬ
  北原白秋
  甲板に明日を待ちつつ丸山の噂する子に月青く照る
  古泉千樫
  われ死なむ深きねむりのきたる時ランプの心を細むるごとく
  平野万里
  爪を噛む癖あるを見てあの唇を爪などかはと惜しく思ひぬ
  太田正雄
  覚めし日は我とそむきて走りつる心をとらへ爪はぢきすも
  平出修
  橋きはの安料理屋の三階の屋根に朝から鶯の鳴く
  吉井勇
  爪を嵌む。「何の曲をかひき給ふ」「あらず。なが目を引き掻かんとす」
  森鷗外
 ここでは森鷗外として置いたが、鷗外先生はこの観潮楼歌会の席上では、いつも「源高湛たかしづ」といふ名前を用ひて居られた。それだから選歌の方の原稿を見ると、自分では「たかしづ選」と書かれてゐる。
 選歌の原稿は八葉になつてゐるが、この歌会の出席者の中で、寛、茂吉、修、それに私の分が欠けてゐる。即ち鷗外、信綱、左千夫、千樫、白秋、万里、正雄の七人の選歌の原稿が保存されてゐるのだが、これを見ると、鷗外先生が二葉に亘つて二十一首を選んで居られるのに反し、伊藤左千夫氏は僅かに二首しか選んでゐないところなど、極めて興味のある対照を示してゐる。試みに鷗外先生の選歌の一部と、左千夫氏の選歌とをここに挙げて見較べて見よう。先づ鷗外先生の選歌の一部。
  往来に輪をかきおきて輪の中に入りたる人を数へけるかな
  旅に来て玉ころがしの遊びする子等に交ればうき事もなし
  スパニヤのセレナアド聞く夜のごとく円き月すむ空を仰ぎぬ
  立てかけし帚の如く閑として黙然として門の戸による
 それから左千夫氏の選歌二首。
  天主堂祈祷はてたる広場を小はうきをもてはきてゐる少女
  水海を越えてにほへる虹の輪の中を舟ゆく君の舟ゆく
 この二首の歌は、ともに鷗外先生の選歌の中にもあるものだが、二首とはひどい厳選である。
 私はこの原稿を見て、何よりも惜しいと思つたのは、茂吉君の選歌の分が失はれてゐることであつた。明治四十二年といへば、その頃作つた歌は「赤光」に大方収録せられてゐると思ふが、この観潮楼歌会で作つた前掲三首の歌が見られないところを見ると、茂吉君にも自信がなくて抹消してしまつたものであらう。さういふことを考へると、今更さういつた歌を、改めてここに紹介した、私の差し出たおせつかいを、多分地下の茂吉君は、苦笑してゐることであらう。


底本:吉井勇全集第八巻 番町書房 1964年発行
初出:「短歌」昭和二十九年

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