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「鷗外・漱石について寸言」 斎藤茂吉

※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。
※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。


鷗外・漱石について寸言 斎藤茂吉


 正宗白鳥まさむねはくてう氏が、二葉亭四迷ふたばていしめいの事を論じてゐたのはたいへん有益であつた(昭和十六年五月三十日朝日新聞)。その中に次のやうなことがあつた。

○金銭獲得のための翻訳であるとはいへ、天成の芸術家である二葉亭は一字一句もいやしくもしなかつたので、その多くの翻訳が、明治の古典として文学史に残るほどの価値を保つてゐる。かく創作でも翻訳でも、発表するたびに文壇の評判になり、いつも敬意を寄せられてゐたのだから、誰だつて悪い気はしないだらうと推察されるが、二葉亭に限つてそれが無かつたやうである。鷗外や漱石は、超然としてゐるらしくて、案外自己の文学的名誉に拘泥こうでいしてゐたのである。    

 此処ここで、漱石と鷗外とにも触れられたが、正宗氏の文章は、二葉亭が主で、鷗外や漱石が従だから、自然かういふ語調になるのだらうとおもふが、『超然としてゐるらしくて、案外』といふところは、鷗外や漱石やは、はじめから文壇的名声なんか眼中に置いてはならぬ、そんな事を考へるのが不都合だといふやうな事を、前提としてゐるやうに見える。さうでなければ、正宗氏のやうな語調にはなり得ぬからである。
 僕などの考へでは、鷗外や漱石やは、文壇的名声にはむし恬淡てんたんであつた。それが二葉亭が文壇的名声に寧ろ恬淡であつたと同じやうに恬淡であつた。あるひは存外二葉亭よりももつと恬淡であつたかも知れない。
 それは、誰にだつて、文壇的名声を毫末がうまつも欲しないなどといふことはあり得ないことであるし、また文士に向かつて、文壇的名声を欲してはならぬなどといふのは極めて不自然なことである。ただ、文壇的名声のみが主になつて制作の方が従にするやうになつたら、それは感心することが出来ないにきまつてゐる。さういふ点からいふと鷗外や漱石の方が二葉亭よりももつと正しいところを歩いてゐたと僕などはおもふ。いづれにしても、二葉亭をのみを挙げるために、鷗外や漱石を引合に出して、蔑視べつしするやうな口吻くちぶりで物言ふのはどうか知らんとおもふ。
 右のやうなことを思つてゐるかたはら、僕は偶然新女苑といふ雑誌に、森田草平、林原耕三両氏の「漱石の思ひ出」という座談会記事の載つて居るのを読んだ。その中で、森田氏は、当時の文壇と漱石について、『先生はそれには超越してゐたのですよ。さうして独自の道を行かうとしてゐた。何しろ先生の作品の方が自然派の作よりも素晴らしい勢ひで歓迎されるのだから仕方がない。さうして先生は、こしらへ者拵へ者といふが、拵へ者でも、自然派の作品以上にリアリスチツクに出来てをれば、それでいいぢやないか、と始終言つてゐられた。それは正に先生にして初めて言はれることであつたのです。』と云つて居るが、これは実際だつたらうと僕もおもふ。『超越してゐたのですよ』といふことは僕にもくわかるやうにおもふ。それから、鷗外と漱石とに就いて森田氏は次のやうに云つてゐた。

○鷗外先生のものはさう俗受けのしないものでせう。鷗外先生としては漱石を認めてをられたけれども、自分のものは少数の人には認められても漱石のやうには世間には喧伝けんでんされない。それで、僕は鷗外先生にもいろいろな用事で数回お目に掛かつてゐるが、その鷗外先生は僕に対して——そりやまあ勿論もちろんのことだけれども、夏目漱石を決して悪く言はれない。大いにその価値を認めて敬意を払つてゐるやうなことは、明らかに言つてをられた。しかし鷗外先生の側近者の話を聞くと、漱石に対して別に不快の感を抱くわけはないけれど、世間の盲目的な風評に対してはあまり愉快でなかつたらしい。そこは人間としてさうだらうと思はれるが……。

 これも面白い。当時の文壇の自然派に対しては、二人とも孤独派だが、銘々おのづから信ずるところがあるからして、自分に執するのが当り前である。二人ともこの執着しふぢやくが無かつたらてんでつまらない。かう考へてくると、真面目まじめ為事しごとをしてゐる文士について、名声の有無を問題にするのはまことにはかないことのやうにおもふのである。まだ若い法師について、性欲の有無を論ずるやうなものである。若い法師に性欲があつてどうして悪いのか、僕は悪いなどとはどうしても思はぬ。ただその発露の現世的状態について云へば云ふだけのことである。(昭和十六年六月一日午前)


底本:斎藤茂吉選集第十二巻随筆五 
   1982年2月28日第1刷発行
   1998年10月7日第3刷発行
初出:『文学直路』 昭和20年4月


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