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「左右の眼」 室生犀星

※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。
※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。


左右の眼 室生犀星


 茂吉さんは歌人であるから歌に關係のある會合には出られるが、詩の會や小説家の會合に出席されることは稀である。私は詩や物語の作者であるから、そんな關係で實にお會ひしたことが尠ない。算へたらほんの二三度くらゐではなかつたらうか、それも、もう會が終わつて外套の受取所で、やあといつて挨拶するくらゐであつた。靑山南町のお宅に尾山篤二郎君に連れられて上つたのも一度きりである。
 私は著書が出ると氣に入つた書物はたいていお送󠄁りしてゐたし、茂吉さんからも殆ど歌集歌論の書物は全部貰つてゐた。そんなことから年に一度か二度くらゐ、お互の書物を中に置いて手紙が取り交され、近狀を二三行添書きするといふつきあひであつた。何時も墨書きの大きい朴吶な書體であり、此間全集書簡集にお送󠄁りしただけでも、數十通に上つてゐる。私の文學交友で年に何度かの三十年も續いてかはりなく、手紙でおつきあひした人は稀らしいはうである。私も些か老境にはいつてから筆不精になり、手紙はあまり書かなかつたが、岡麓さんのことで二三度葉書をもらひ、茂吉さんが私にものを頼まれたのが初てであり、岡さんへの友情󠄁のふかさも歌の外で知つた程である。アララギは近頃見ないが十何年も續いて貰つてゐて、茂吉さんの人としての友おもひには、アララギを讀んでゐると判つた。
 アララギといへば私が二十五六の頃に、本郷の千駄木町の宿にゐて隣の部屋に美術學校の學生で星川淸雄といふ人がゐた、美靑年であつたので私は彼にらんまるといふ名をつけてゐたが、美術學校の生徒であるから長髪を垂れてゐたので、頬の紅さも、らんまるの感じがあつた。この星川淸雄は畫学生だつたがちよつと變つた畫をかいてゐた。煉瓦の建物のある歩道に、黒い犬が一匹と街燈が立つてゐる風景で、どこか、西洋くさい日本畫だつた。星川は私のアララギを借りて讀み、器用な文才のある(或ひは畫よりも文學の方が秀でてゐたのではないか)男だつたから、茂吉さんの歌風をくぐり抜けて、抜けたときには相當な歌を身につけてゐるやうな作風で、私も讀んでちよつと星川を見直した思ひであつた。星川は山形縣の出身であり茂吉さんと故郷をおなじくしてゐるので、歌に打ち込む氣になつたらしい、私はでは茂吉さんに歌稿を送󠄁つて見てやらうと、彼の歌を何十首か浄書させて茂吉さんに送󠄁つたのである。翌月の號に一頁二段組のその一頁(だつたか半段だつたかよく覺えてゐないが)ともかくも、相當以上の優遇が施されてゐた。それは私の紹介がさうさせたのではなく、星川淸雄の撥いてゐる才能みたいなものが、茂吉さんを捉へてはなさなかつたのであらう。そこで僕は星川らんまるに茂吉さんの處にお禮に行つて來いといふと、わかい星川は喜んで靑山のお宅を訪ねたのである。名もらんまるである星川が茂吉さんに不愉快をあたへることはない、彼は歸つて來ると歌の勉强をすすめられたといひ、喜んでゐた。そんな才幹はつらつたる男であるから、その後續いて歌稿を寄せることもなく、(寄せても惡くて沒書になつたかも知れない。)アララギとはただの一度の關係に終わつたやうである。流浪の私の東京生活は星川淸雄とも別れてしまつたが、十何年か前に星川と近い縁につながる佐藤朔太郎が訪ねて來て、星川が若くして亡くなつたことを言傳に聞いた。佐藤朔太郎は山形にゐて詩歌の木版本や、詩集なぞを刊行してゐたがこの人もまた戦争時代を區切つて、消息を絶つて了つた。私が茂吉さんに紹介狀といふものを書いたのは星川だけで、彼が鋭意勉强をし茂吉をまなんでゐたら、いまは、ひとかどの歌人になつてゐたらうに、自らを省みるにおくれた彼と、その早逝が惜しまれてならない、茂吉さんといふ老翁が山道を歩いてゐると、その、ずつとうしろからしくしく泣いて眼をこすつてゆく、らんまる童子が眼にうつるのである。
 
 文學者は誰でもさうであらうが、併し茂吉さんの全歌集をあちこち拾ひよみしてゐると、いかにこまかい風景のきれや情󠄁意のひととき、草木山川の息づかひがその年々歳々のしかも同じ季節にとり上げられながら、前の夏秋とはそれぞれに異つた見方や受け方をしてゐるところに、作者といふよりも人間のこころのはたらきの程が、どれほど纖かいものであるかに驚かれる。あれほどの大歌卷はたうてい三年や五年で生れるものでないことも判るが、それが五十年近くの永い間毎日毎日作者のこころにはたらいてゐたかと思ふと、作者といふものは生きてゐるかぎり歌ひつづけてゐるものに思はれる。恐らく齋藤さんでもあれらの尨大な歌卷に、時折は驚きの聲を發せられたことであらう。一首づつの律格内容に充分な時間をかけた練り方には、人間の頭といふものがいかにその持ちぬしによつて、かくも、粲とした小粒のひかりをととのへてゐるかに、眼をみはらざるをえない、併し君だつて小説や物語の數はすでに等身を超え、あと半等身をかぞへるぢやないかといはれるかも知れないが、私なぞは再讀は堪へざるものが多く、それらは闇に向つて裂いて棄てるより外はない、詩歌と讀物の違ひは、そのこころの通つて來た道が、淸いものとよごれたものの相違があつた。詩歌のうつくしさは現世の金なぞを動機にしてゐない開き方であつて、物語小説はことごとく物質の誘ひに乗つたやうなところがあつて、くらべものにならない、詩歌はひかりを永い間持ちこたへてゐるし、物語小説はたうてい再び手に取ることさへ物憂いものである。私は茂吉さんを讀んでその感慨をふかくしたといつてよい。
 今から四十年ほど前の讀賣新聞の文藝欄に、新進歌人の和歌が毎日十首あて掲つてゐたことがあつた。その折の茂吉さんの歌は例の「行く松風の」の一聯の作品であつて、私ははじめて茂吉さんの歌といふものの用語とか感覺が、なみはづれて新技のあるものであることを知り、恐ろしい人だと思つたのである。當時私も「ザムボア」といふ白秋編輯の雑誌に、「小景異情󠄁」といふ詩をかいてゐたが、和歌でさへ、ああいふあたらしい處につき抜けてゐるのに、詩に少しのあたらしさが現はせないのが腹立たしく、それが動機になつて勉强する氣になつたのである。茂吉の歌さへ見れば讀みあさり、ことごとく諳誦して自分の中に融かしこむことをわすれなかつた。詩人である私が歌の方向から何かを取り容れようとしたのも、茂吉さんのかうかうたる格調に魅せられたからである。あの日の讀賣新聞の十首を組んだ活字の美しさや、そこにある私の生涯をゆりおこした和歌といふものの、もの凄い威力がいますぐにも思ひ出されるのである。白秋が私の詩の右のまなこをかがやかせてくれたのに次いで、茂吉もまた私の左のまなこをかがやかせてくれたのである。この白秋茂吉の二人は私のふたつのまなこに、ゆくみちを敎へてくれたといつてよい、しかも、茂吉さんとは生涯度たび會はないでゐながら、會はない親友といふものが文學仲間に限つてあることや、會はない親友といふものは會つてゐるよりも、實にふかい處まで達してゐることが判るのあつた。文學仲間の親友といふものは、普通の友情󠄁とはちがつて終生つづくものであるらしい。 七月病床にて


底本:斎藤茂吉全集月報1第一巻 昭和48年1月発行
初出:斎藤茂吉全集第三十巻月報 昭和30年8月発行

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