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「交遊縷の如し」 吉井勇

※個人が趣味の範囲で入力したものです。
※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。


交遊縷の如し 吉井勇


 昭和二十一年の三月、私がまだ洛南八幡町の町はづれにある、宝青庵といふ浄土宗の寺に住んでゐる時分のことだつた。新大阪新聞学芸部の思つきで、その頃まだ山形県の大石田町に疎開したままの斎藤茂吉君と私との間に、歌の応酬をさせたことがあつた。それは私が先づ茂吉君に対して歌を贈り、それに茂吉君が応答するといつたやうな形のものだつたと思ふ。自分の歌はまだ歌集にも入れてゐないので忘れてしまつたが、その時茂吉君が私に酬いられた歌の中には、
  観潮楼に君と相見し時ふりてほそき縁の断えざるものを
といふ歌があつた。成程考へて見ると、茂吉君と私との交遊は、全く絶えざること縷の如き縁ではあつたが、相知るやうになつてからはかなり古い。
 この歌で茂吉君も言つてゐる通り、私が最初に茂吉君と会つたのは、観潮楼歌会の席上だと思ふが、この歌会は明治四十年三月から始まつてゐるのだから、茂吉君は二十五歳、私は二十二歳の時であつた。鷗外先生がこの歌会を始められた意図が、「抒情詩に於ては和歌の形式が今の思想を容るるに足らざるを謂ひ、又詩が到底アルシヤイスムを脱し難く、国民文学として立つ所以にあらざるを謂つたので、款を新詩社とアララギ派とに通じて国風新興を夢みた」ところにあつたので、明星派からは与謝野寛、アララギ派からは伊藤左千夫がその代表として出席してゐたために、私達年少の者はあまり議論には加はらずに、課せられた題に依つて歌を作り、作品の上で技を競つた。今から考へて見ると、かうした茂吉君と交りを結んだことは、一種の芸術的機縁であつて、思ひ出すだけでも心持がいい。
 しかしその後五十年近い交遊の間に於て、親しく打ち解けて行動を共にしたのは、いろいろ思ひ出して見てもたつた一度しかない。それはたしか大正八年五月頃のことで、私は九州旅行の途次長崎に寄つて、そこに十日間ほど淹留したが、その時茂吉君は長崎医学専門学校の教授をしてゐたので、毎日のやうに私の泊つてゐた銅座町の永見徳太郎君の家をたづねて来てくれた。丁度夫人が東京へ帰り、一人で寂しかつた時でもあつて、浦上や大浦の天主堂にも、支那寺の崇福寺にも、私と一緒に往つてくれたが、いまだに私が忘れられないのは、図書館の一室で長崎派の画人の作品を共に鑑賞することが出来たことであつた。それはちょうど或る皇族が長崎に来られるので、その宮様に御覧に入れるために、長崎中の名品が殆んど集まつてゐる時だつたので、私達は幸ひにも、沈南蘋、逸雲、梧門、鉄翁などの代表的な作品を見る、極めていい機会に恵まれたのであつた。今茂吉全集の「手帳」の一巻を見てゐると、それ等長崎派画人の名が書いてあるが、或ひはこれは茂吉君がその時携へてゐた手帳ではないかと思ふ。私もその時見た長崎派画人の作品を見て、その感銘をうたつた歌幾首かを作つた。
 その頃茂吉君は大分健康を害してゐたやうだつたが、それでも私と一緒に酒を飲んで、南京町の四海楼といふ支那飯店に往つたり、二人でこつそり丸山の廓に出かけて往つて、昔頼山陽が食客をしてゐた花月といふ娼楼に遊んだりしたこともあつた。その時分茂吉君は、酔ふと舌を出す癖があつたので「屡舌を吐きにけるかも」といふやうな下の句の歌を作つて、揶揄したことがあつたのを覚えてゐる。
 その後昭和十一年七月、何度目かに長崎に往つた時、私は茂吉君と一緒に往つたことのある、南京町の四海楼を思ひ出して、図書館長の増田廉吉君などと一緒に出懸けて往つて、そこから茂吉君へ寄せ書の葉書を出して、その中で私が「玉姫曰く、噂を立てられたこともありましたね」と書いたところ、それについて茂吉君は、当時アララギの誌上に連載してゐた「童馬山房夜話」の中で「長崎便」といふ題で、その「玉姫」のことについて「このハガキの中にある『玉姫』といふのは、支那飯店四海楼の娘で、お父うさんは中華民国人、お母さんは長崎人であつたとおもふ。私が長崎にゐた大正七八年ごろは、幾歳ぐらゐであつたか。かがやくやうに美しかつたから、もう二十歳ぐらゐにはなつてゐたかも知れない」と書いてゐる。
 この「玉姫」は、私の記憶してゐるところでは、どつちかといふと母に似てゐて、中国服よりも銀杏返しに黒繻子の帯といつたやうな、粋な姿をしてゐる方が、よく似合つたやうに思ふ。茂吉君は前にも言つた私との応酬歌の中でも、
  おもかげに立つや長崎支那街の混血をとめ世にやありやなし
とうたつて懐しがつてゐるところを見ると、やつぱり忘れえぬ女の一人であつたらしい。「世にありやなし」と言つてゐるが、私もその死を知つたのは三四年前のことで、上筑後町の聖福寺の境内に、私のつくつたじやがたらお春の歌碑が建つたので、その除幕式に列席するために十数年ぶりで長崎へ出かけて往つたところ、もうその「玉姫」はこの世に亡く、妹の「清姫」といふ女が、やつぱり四海楼といふ名前の立派な支那飯店を営んでゐた。しかし私にはやつぱり今から四十年ほど前に、茂吉君と一緒に往つたことのある、「玉姫」時代の汚ならしい店の方が懐かしかつた。
 茂吉君と私との交遊は、大正八年に長崎で会つて以來、偶に文通することがある位で、殆んど絶えてゐたけれども、終戦後宮中歌会始の儀が復活して、ともにその選者となつてからは、少くとも年二回、選者会議の時と歌会始の儀式の時とには、親しく顔を合はせる機会を得るやうになつた。茂吉君の日記を見ると、昭和廿三年一月十五日に宮内庁の一室で、窪田空穂、鳥野幸次、川田順氏等に、茂吉君と私とが加はつて、御題応募歌を最後に決定する選者会議を開いてゐるが、この時私は久しぶりに茂吉君に会つたのである。長く相見る機会がなかつたので、茂吉君も大分老いたとは思つたが、その頃はまだ中々元気で、じつと目をつぶつて考へ込んでゐるかと思ふと、急に顔を上げて思ふところを、てきぱきと吐き出すやうに言つて、歌の採否を決してゆくあたり、やつぱり往年の気魄が残つてゐた。
 この年は宮中の都合で、歌会始の儀が行はれたのは、一月も末になつてからの廿九日だつたが、茂吉君も令息から借用のモーニングを着て列席してゐた。翌日両陛下に拝謁して、選者たちから選歌についての感想を言上申し上げた時も、茂吉君は中々元気で、終つてから選者達は打ち揃つて吹上御苑を拝観したが、茂吉君はその時の感想を「御苑」といふ題で、十数首の歌に作つてゐる。録一首。
  もろ草の霜に伏したるさやけさに吾等は行けり御苑の中を
 茂吉君は翌昭和廿四年の歌会始の儀には出席してゐるが、その翌年の昭和廿五年には、選者会議に出席したのみで、歌会始の儀には列席してゐない。日記を見るとヘトヘトニナルとか、臥床、背イタムとか、左足利キワルシとかいふやうな文句が多くなつて来てゐる。さういへばこの年の選者会議の時、茂吉君が靴を引き摺るやうにして歩いてゐたのを思ひ出す。
 茂吉君と私との交遊は、全く茂吉君もうたつてゐる通り、「ほそき縁の断えざるものを」であつて、かへつてそれだけに思ひ出も淡々として快いものがある。


底本:吉井勇全集第八巻 番町書房 1964年発行
初出:斎藤茂吉全集月報第二期二十三号 岩波書店 昭和三十一年四月発行


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