「文学の師・医学の師」 斎藤茂吉
※個人が趣味の範囲で入力したものです。
※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。
※自殺に関する描写があります。ご留意ください。
文学の師・医学の師 斎藤茂吉
東京神田小川町の、後に南明館の出来た近くに、いろは貸本店といふのがあつて、私が明治二十九年に上京して神田淡路町の開成中学校に通つたあひだに、ナシヨナルリードルの独案内とか、チャールススミス代数の独案内とか、其他いろいろの書物を借りて読んだ。開成中学校を卒業して第一高等学校に入学するやうになつてからも、折々書物を借りに行つた。
明治三十八年の春、この年の一月に、旅順口が陥落して、いまだ奉天の序幕戦のはじまらなかつた頃であつただらう。私はそのいろは貸本店に行つて、偶然眼についた、子規遺稿第一編の「竹の里歌」(明治三十七年十一月、俳書堂発行)といふ正岡子規の歌集を借りて来た。
なぜこの歌集を借りて来たかといふに、私は、正岡子規といふ人は俳句の方では有名であるが、歌をも作るといふことは知らなかつたから、それを読んで見ようと思つたのである。やはり第一高等学校の第三部で独逸語で這入つて来た同級生に、野田泣人君がゐて、この泣人君は子規系統の俳句を作つて、相当の力量を示してゐた。泣人君からたまたま正岡子規の話を聞くことがあつたけれども、それは俳句の方の話であつた。
それから私は、これは後で一言触れようとおもふが、中学生時代から露伴崇拝で、丁度高等学校に入学したころ、読売新聞に連載せられてゐた、長編小説、「天うつ波」を切抜いて綴つたり、ボートの稽古に向島に行つたついでに、あの小説に出て来る、水野といふ青年の勤めてゐる小学校を、実存のものに見たてて、向島の奥の方の村落を歩いたこともあつたほどであつた。さういふ風であつたから幾分文学愛好の傾向が附き纏つてゐたのであつた。
さて、借りて来た「竹の里歌」を読んで見ると、この歌集の中の歌といふものは、尋常一様の歌でなくて、私は驚嘆してしまつた。
木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ
人皆の箱根伊香保とあそぶ日を庵にこもりて蠅殺すわれは
冬ごもる病の床のガラス戸の曇りぬぐへば足袋干せる見ゆ
ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ
裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる山吹のはな
かういふ風の歌は、従来の歌人の作つたものに無いやうにもおもはれたが、何となく生々としてゐて清新に感ぜられるし、単にそれのみでなく、従来の歌のやうにむづかしくなく、これならば私にも出来るやうにもおもはれたので、ここではじめて歌を作つて見る気持ちになり、その「竹の里歌」の歌を写してそれを繰返して読み、しきりに模倣の歌をこしらへた。同時に子規歿後発行になつた、「子規随筆」、「続子規随筆」、「子規言行録」の類を読み、程経て、子規系統の歌の雑誌馬酔木といふのが発行になつて居ることを知り、本郷三丁目の盛春堂から買つて来て読んだが、この雑誌の歌は、「竹の里歌」の歌よりも、古調といふのであつて、なかなかむづかしいものであつた。単にむづかしいといふよりも、私の実力では読めないものが幾つもあつたし、「竹の里歌」を読んだ時のやうな感奮をも得ることが出来なかつた。
その頃、私は浅草東三筋町五十四番地から、神田和泉町一番地に移り、養父がやつてゐた東都病院を、養父が独逸留学から帰朝して帝国脳病院と改めて新たに専門病院にしたのであつて、其処の蔵の二階の狭い部屋に起居して、第一高等学校に通つてゐた。そして、馬酔木をば、私と中学の同窓で、草童と号して子規派の俳句を作る渡辺幸造君が、中学校を中途退学して、郷里神奈川県足柄郡山田村に帰つてゐたが、その草童君のところに送つて、むづかしい歌に振仮名をしてもらひ、あとは自分で字書を引いて大体の意味を理会するといふやうに、馬酔木所載の歌を勉強したのであつた。
明治三十八年の夏、私は山田村に渡辺君を訪ねたところが、渡辺君は新仏教といふ雑誌を持つてゐて、その新年号かの口絵に新仏教同人の肖像が並んで載せられてゐる中に、伊藤左千夫先生の肖像もあつた。その時渡辺君は、若し子規系統の歌を作るつもりなら、その左千夫先生を訪ねて、みつしり骨折る方が、よいことを話してくれ、私の歌をも褒めたりして励ましてくれたのであつたが、生来人に臆せる癖のある私は容易に左千夫先生を訪問することが出来ずにゐたが、馬酔木所載の歌に就いての疑問も幾つか溜まつて埒が明かぬので、明治三十九年一月の某日に、非常に勇気を出して、本所茅場町三丁目十八番地に伊藤左千夫先生を訪問した。その少しまへに私は先生に文法に関する質問の手紙を出し、直ぐ先生から返事をもらつたので、訪問の糸口を得たといふ点も手伝つて、兎に角私は先生を訪問した。
その頃、電車は亀沢町まで乗り、其処で降りて茅場町まで歩くのであつた。訪問して見ると、先生は少しも臆せる必要のない人であつた。肥つた、口髭が無造作に生えて、眼鏡をかけて、然かも時々眼鏡を二つかけられるといふ風な近眼であつた。明治三十九年は未だ四十三歳の若さであつたが、私等には五十歳ぐらゐの印象を受け受けした。そのころから周囲の青年達が、先生のことを『左翁』(この名は蕨真氏がはじめて使つたともいふ)などと云つてゐたが、これは必ずしも尊敬の意味ばかりでなく、やはり翁らしい風丰であつたからであらう。信州の門人などは『本所のぢつさ』などとも云つて居たのもまたそのためであつただらう。先生が亡くなられたとき親友であつた長塚節氏が追悼文を書き、『それが非常に度の強い眼鏡を二つも掛けなければ能く見ることの出来ない程の近眼視から遂に物事に間が抜けて勢ひ滑稽の分子が付纏うたに相違ない』と云はれたとほりのところがあつた。また、正岡子規の随筆「病床六尺」のあるところに、『近眼の人はどうかすると物のさとりのわるいことがある。いはば常識に欠けて居るといふやうなことがある。その原因を何であるとも気がつかずに居たが、それは近眼であるためであつた。』云々と書いてあるが、これは暗に先生のことを指して居るのであつた。先生ははじめ法律政治の方を勉強するつもりで上京したが、この近視のために学業を廃して、実業方面即ち牛乳搾取業に転じたのであつた。この近視に本づく先生の逸話が幾つか伝はつて居るが、先生が亡くなられたとき、寝棺に横たはつてゐる先生の顔の処に奥様が眼鏡二つを入れられたのであつた。
私ははじめて先生を訪問したとき、歌十首ばかりを持つて行つたところが、その中の五首が次の月の馬酔木、つまり明治三十九年二月発行の第三巻第二号に載つた。
来てみれば雪げの川べ白がねの柳ふふめり蕗のとも咲けり
あづさ弓春は寒けど日あたりのよろしき処つくづくしもゆ
などといふのがそれであつた。それ以来私は毎月欠かさず歌を投稿し、その年の三月に高等学校を出て、東京の医科大学に入るやうになつてからも、勉強して歌を作つた。明治三十九年は私の二十五歳の時であるから、普通から謂つても先づ晩学だといふべく、また進歩がはかばかしく無かつた。併し先生は常に私を励まされたので、先生を訪問して間もなく、先生から貰つた端書には、
……貴君の作歌の傾向は甚だ面白く候。貴君は一種の天才なることを自覚し、今の儘にて真直に脇眼ふらずにやつて貰ひ度く候。決して人の真似などせぬ様願ひたい。下略
といふやうなことがあつた。その頃の私の歌には一種の習癖があつて、それがなかなか除かれなかつたにも拘はらず、先生は直ぐその儘排除してしまはれず、かういふ言葉を以て私を励まされたのであつた。
明治四十年になつて、日本新聞で短歌を募集し先生がその選者になられた時も、私等は競うて応募し、私などはこの応募によつて、だいぶ力量が附いたやうにおもはれる。自分の作つた歌が、五首なり十首なり選に入つて、ずらりと並んで新聞に載るのは何とも云へぬ好い気持のものである。それに加へて時たま褒められ、励まされるのは、小心者の私ごときにとつてどのくらゐ薬だか知れないのである。
丁度そのころ鹿児島の造士館高等学校の学生だつた堀内卓造君が歌を作りはじめ、めきめきと上達して、清新な歌が毎日のやうに新聞に載つた。歌は写実風で幾分仏蘭西印象派のにほひを漂はせたやうなところもあつた。それに較べると私の歌は、仏教のにほひのある東洋的なもので、何となく陳腐におもはれるのであつた。それでも先生は私のものをも棄てられず、『堀内は写実派、齋藤は理想派だ』などと云つて居られた。それがわざと著意して云はれるのではなくて、極めて自然に無理なく云はれるのであつて、斯様な事実は先生に接近した人は誰でも一再ならず経験し得たところのものであつた。
明治四十年の春、私は絵ハガキに海棠を描き、それに歌を添へて先生に遣つたことがある。このハガキに写生画をかくといふのは、子規の真似で、私等のやうな後輩もまたそれの真似をしたのであつた。すると先生は直ぐ返事をくだされ、
天然にいろは似ずとも君が絵は君がいろにて似なくともよし
といふ一首の歌を添へられてあつた。この一首とても、解釈のしやうによつては、先の『人の真似をするな』といふ先生の言葉と相通ずるやうにもおもはれて興ふかくおもふのである。またたいへんに有難くおもつたのであつた。
先生が私等の歌を見られるときは、丁寧でなかなか暇がかかりかかりした。『諸君の気持に先づならねばならんのだから、さうちょつくらにはいかぬよ』などと云ひつつ、手を入れるべきところには手を入れられた。時に私などは、『この歌は少し得意なのですからお取りくださいませんか』といふと、『君さう僕を強ひてはいかんよ。強要といふ奴でよくないよ』などといはれて、ぢつと歌を見て居られるといふ具合であつた。
私が青山に移つてからも、大学の帰りにお邪魔にあがり、夜が遅くなつて、赤電車が無くなれば、先生のところに宿り込むことが間々あつた。夜の十二時が過ぎ、午前一時になると、奥さまが起きて、若い者を督促して牛乳を搾り、それから銘々配達にまはるやうに手配を極められる、その車の音ががらがらするのを聞きながら、まだ起きてゐることなども間々あつた。朝飯をいただいてから本郷の学校に行つたこともあるし、朝飯は須田町あたりで縄のれんに入り、納豆で食べて学校に行くやうなこともあつた。
先生は、短歌のごとき短い形式のものでも軽くあしらふといふやうなことがなく、一首を作るにもあらん限りの骨折を惜しまなかつた。これは子規在世時も、子規歿後も毫もかはることがなく、終生同じ結論で押しとほした。『歌一首が分かれば天下国家など何でもない』などと云はれることがあつて、一部の人は左千夫の空虚な豪語といふやうに受取つた向もあつたかとおもふが、先生は実際さう信じ、さう実行しようとしたのだつた。赤木格堂氏が先生を追憶されたお話の中に、『も一つ伊藤君に敬服するのは、歌に対する態度が実に真面目で、驚く程真面目であつたことである。君は時々かういふことを云うた。自分は財産を作るつもりなら随分な財産家になつて居たかも知れぬが、とても今日程の幸福は得られなんだに違ひない。物持が十万や二十万の金をつかつても僕位の歌を作ることは出来ない。自分は明治の歌人伊藤左千夫として後の世に残ることを名誉とすると云つて居たが、聞きやうによつては多少の己惚のやうにも思はれるが、君のえらいところは確かに其の点にあると思ふ』といふところがある。この話は、先の、『天下国家』云々と相通ずるところがあり、人前で、こんなことは普通の人なら云はぬところでも、先生は誰のまへでも云つて恬然として居た。己惚とおもはれはせまいかとなどとは、第一みづから気づかれなかつただらう。さういふやうなところがあつた。
さういふ風であるから、毎月開かれる歌会に欠席せられたことが殆どなかつた。一度は病気であつたか何かの間違であつたか、もう一度は乃木大将の葬式日と根岸庵で開かれる歌会とかち合せた時に欠席せられた。先生は乃木大将の殉死に非常に感激してたうとう歌会に欠席せられたのだが、これを見ても尋常一様の感激でないことが分かるので、左千夫一流の異常なものであつたのである。大正元年は先生の亡くなられる前年であるが、この異常な感激を追体験することも出来ずに私等は長いあひだ過ぎたのであつた。
先生は万葉を宗とする日本主義者であるが、『犠牲』といふことを能く云はれて居る。標野の夕映といふ新体詩は明治三十八年の作であるが、あの中にも、『妹が犠牲の力なり』といふ句を入れたほどで、また、ある処では『犠牲的精神の本尊は女性なり』(作家余滴)とも云はれ、このことは実に度々云はれるのを聞いた。さうして、それと関聯して、『日本国民は女性的なり。故に犠牲の精神に富めり。見よ日本国民が如何に神経過敏なるかを。又如何に事に臨んで覚悟のよきかを』といふことをよく云はれた。日露戦に際して皇軍がどうしてあんなに強かつたかといふことを話されるときにも、やはりこの結論を云はれ云はれした。それだから、今次の布哇の真珠湾攻撃などをまのあたりにして、涙滂沱としてどんなに感謝歓喜せられたか、今でも私等の眼に見えて来るやうである。
先生は牛乳搾取業を営みながら、やはり同業者であつた伊藤並根といふ人から茶の湯を習つて、生涯その道を楽しんだ。子規先生などは、先生を呼んで『茶博士』として歌にも作つたほどであるし、また御自身でも、『梅の花描ける茶碗を絵にうつし年ほぎまをす茶博士われは』といふ歌をも作られてある。併し先生の茶の湯はいかにも形式ばなれのした自由なものであつて、その根本趣味を行住坐臥に行きわたらせようとする、さういふ遣り方であつた。私は昭和十六年に、その伊藤並根翁の伝記をしらべてゐたとき、会席料理の帳面を見る機会があつた。その帳面に左千夫亭の記事があつて、客には伊藤並根、式守蝸牛、瀬川尚哮(昌耆博士)の諸氏が記されてゐたが、昭和十六年の夏に私は計らずもその式守翁と相会する機を得た。そのとき翁の話に、左千夫は会席料理の椀に、しぼりたての牛乳に芹を細かく刻んだのを浮かして用ゐ、本人なかなかの得意であつたが、馴れない者は困ることがあつた、云々。これなども左千夫先生の面目躍如たるもので、同じ茶道でも、こだはらない創意が常に加へられてゐたものと見える。左千夫はそのころ会席料理に牛乳を用ゐて得意でゐたといふが、併し蘇東坡の子の過が山の芋で造つた玉糝羹といふものをすすめたとき、『味は牛乳の如く更に全く清し』と云つてゐるから、ひとり左千夫のみがあまの邪鬼的な行為をしたのでないことが分かる。
先生は晩年に、上総の蕨真一郎氏から木材を贈られ、はじめて独立した茶室を作り、唯真閣と名づけて楽しんだが、茶室の入口などは古式があつて普通よりも小さく出来て居る。私等も時々その戸に頭を打ちつけたが、先生自身がよくその戸に頭を打ちつけて、『あ痛!』などと云はれたものである。
先生は茶道については一流の見識があり、また甚だ得意でもあつて、『横着ものには茶は出来ない』といふのがその持論であつたから、日常の生活が、いつもまめまめしく、活々としてゐた。幾坪ほどしかない狭い庭も、尻をはしよつて、松の葉ひとつないやうに掃かれたものであつた。先生の小説は田園の生活を写したものが多いが、そのなかに、『体を苦しめる事を厭はない人に悪人はいない』(分家)といふ句があつた。この句は農民のあひだにあつては当然のやうであるが、実行の点となると必ずしも当然とは云はれぬ。やはり、『横着ものには茶は出来ない』といふことと根本的に相通じて居るのである。また、短歌のやうな小さい形式の文学にも、調子をおろしていい加減に済まして置かれないといふのと同じに帰着するとおもふのである。
先生は、『予は居常、空手を以て蠅を捕ふることを好む。周囲に何等の障碍がなく、手に全力を注ぎ得れば必ず取れる』と云つて、得意でもあり、時々その蠅を捕るところを見たが、近眼のために為損じて、近くの茶碗などをくつがへすことがあつた。為損じて、さあさあ!などと云はれるのが今でもありありと見える。
左千夫先生の文学は単に和歌のみでなく、写生文から小説へ進まれ、短編から長編まで作られた。坂本四方太氏は、『左千夫君の文章には粗雑な分子が少くなかつた。即仕上がしてない。仕上どころか鉋さへかかつて居らぬやうな文章である』と評して居られるが、実際さうであつたかも知れない。併し、相当の数の小説を作り、現代の宇野浩二氏のごとき専門家の批評眼からも、長塚節氏の小説よりも却つて面白いと云はれてゐるほどである。私は近年、先生が少年のころ佐瀬春圃の塾に通つて日本外史等を習つた時分の帳面を見たが、それは漢文まがひの文章で書いてある。つまり漢文には成つてゐないが、てにをはなどは全然用ゐないで書いてゐるのである。先生は少年のころからさういふ物に躊躇せぬ大胆なところがあつたことを知り、私はひどく感動したのであつた。先生が同じ和歌を作るにしても、短歌ばかりでなく、ひとが長歌を作れば長歌を負けずに作る、ひとが新体詩を作れば新体詩を負けずに作る、議論なども相手きらはず、何人をも恐れるものがない。当時の新派歌人の棟梁株の与謝野鉄幹氏に対しても、毫も畏れ躊躇するところがなかつた。『嗚呼、君輩が根底なき無稽の妄語は、適自家の資格を滅却するの材料ならんとす』といつた調子を以て議論してゐるほどである。併し、先生のこの無畏の行為は、ただの無鉄砲なのでなしに、一たび出発すると、驚くべきほどの蛮勇ともいふべき熱中の境界に入るのを常とした。同時代及び後代の人々によつて、左千夫観にいろいろあるのはさういふためである。ある友人は、先生のさういふ蛮勇的努力をば、『伊藤君的発展』などともいつた。これは善意の評であつた。
大正二年は先生の歿年(七月三十日に歿せられた)であるが、その年の四月十三日、土岐哀果(善麿)氏の主催で、浅草松清町等光寺に於て石川啄木の第一回追悼会が催された。そのとき古泉千樫君と私とが先生に従つて出席したが、『斎藤君、啄木について僕に何か話せといふが、どうしようか』と相談に来られたので、『是非ねがひます。やはり啄木の歌のことがいいでせう』と申しあげた。そのとき先生は、石川啄木の歌は、天麩羅のやうなものである。天麩羅は実にうまいものであるが、料理には天麩羅のやうなもの以外に、八百善の料理のやうなものである。啄木君の歌はまだその八百善料理の域に達して居らぬ、さういふ話をせられて、はじめて先生を見た人々に左千夫的印象を深くしたのであつた。会が果てて私等三人は根岸の中村不折画伯を訪うた。そのときのことを前田夕暮氏は、『私は氏の怒り肩の肉の盛りあがつてゐるやうな後姿が、洋服の斎藤氏と和服の古泉氏との間に並んで行くのを見た時、何となくなつかしいものに思ひました。そして、私が空想していゐる親子の温情、師弟のあたたかい心を思はせられたのでした』と書いて居る。その道すがら、『どうだ斎藤君、今度から演説の練習会をやらうではないか』といつて、上機嫌であつたが、千樫君も私も、東京の門人に弁舌を好むものが誰もゐなかつたために、この計画は立消えになつたが、若しも門人中に、演説上手の人がゐたら、先生の弁舌は不思議な方面にまで発展して行つたか知れない。先生は青年にして出郷し、法律学校に席を置いて、未来の政治家を以て任じてゐたからである。
弁舌方面はさうであつたし、また、茶の湯方面では、『茶の湯の趣味を、真に共に楽しむべき友人が、只の一人でもよいから欲しい』(茶の湯の手帳)と云つて居られたが、茶の湯をば、私等若いものは皆、隠居老人くさい手真似として軽蔑したばかりでなく、第一茶の湯の道具を手に入れる面倒をあへてするものは誰も居なかつたので、その方のあとを継ぐものは先づ無いと謂つていい。ただ内木浩亮(紅蓼)氏だけは、豊かな趣味を遂行し得るので、幾分左千夫の茶趣味を継承し得たといつていいかも知れぬ。
伊藤左千夫先生は大体右のごとくであつた。私の歌の進歩は遅々として、漸次的であつたから、先生の在世中の薫育は無論であるが、先生の歿後に影響を受けた点が多大なやうである。さうして、不意識に先生の歌の影響を受け、それを知つて自分みづから驚愕するほどである。昭和二年であつたか、三年であつたか、私は紀伊の高野山で咏んだ歌に、
うごきゐし夜の白雲無くなりて高野の山に月てりわたる
といふのがある。そして、この歌の第三句に、『無くなりて』と単純に、素朴に据ゑたところにいささかの工夫もあつて、心中得意になつてゐたのであつた。然るに、後になり、左千夫歌集の輪講をしてゐると、
かすかなる息のかよひも無くなりてむくろ悲しく永劫の寂まり
といふ先生の作のあることに気づいたのであつた。もつとも、この第三句の、『無くなりて』は、西行法師の山家集に、『燈火のかかげぢからも無くなりてとまる光をまつわが身かな』といふのがあるから、先生の独占といふわけには行かぬが、私の歌の第三句は、先生の歌の影響ではあるまいかと、その時今更のごとく先生の恩顧の深く滲みこんでゐるのをおもつたのであつた。
私は今年六十一歳になり、左千夫先生より十年余も生きのびたことになるけれども、依然として先生の方が老翁のやうな心持がして居るし、これは実作の方面に於てなほ同様であることを感じて居る。
私の歌は右の如くであるが、なほ、子規門の香取秀真、岡麓、赤木格堂、長塚節、蕨真、森田義郎の諸先輩から滅すべからざる恩恵をかうむつてゐる。やはり歌のうへの師として忘却してはならないかたがたである。
なほ、これは門人といふことの不遜を顧るからはさう云はぬが、森鷗外、徳富蘇峰、幸田露伴の三先生について一言触るることをゆるされよ。鷗外先生は左千夫先生に連れられて観潮楼歌会に出席して以来の恩であり、蘇峰先生は平福百穂画伯に連れられてお目にかかつた以来の恩である。また露伴先生は私の少年時代からの恩であるが、昭和九年になつてはじめて親しく先生の謦咳に接することを得た。鷗外先生は大正十一年七月六十一歳で亡くなられたことを私は独逸ベルリンの大日本大使館で知つた。蘇峰先生は八十、露伴先生は七十六の高寿に達せられた。私等の讚仰やまざるところである。私は処女歌集「赤光」の跋文中、
○あたかも露伴の、『日輪すでに赤し』の句を発見して嬉しく思つたころであつた。
と書いたが、この先生の句は、いふまでもなく風流微塵蔵「さゝ舟」の中にある、『今落ちかかれる日輪紅く』といふのである。それを私は単純にしてさう書いたのであつただらう。さうして「さゝ舟」を読んだのは、私が中学校の二年生(四級生)ごろのことである。
私は明治四十三年の十二月に試問を了へて東京医科大学医学科を卒業し、明治四十四年から精神病学を専攻することとなつたが、指導せられた恩師は呉秀三、三宅鉱一の二先生である。私は東京府巣鴨病院医員、医科大学副手・助手として、大正六年一月まで、足掛七年のあひだ勤務した。
はじめのうちは精神病者に親しめず、夜の廻診に長い廊下を通つて行く時など、そのまがり角のところに、蘆原金次郎といふ自称将軍が月琴などを鳴らしながら待ちかまへてゐて、赤酒(葡萄酒)の処方を書くことを強要したりする。そんな事も何となしに恐ろしい。受持の患者が興奮したりすると当直してゐてもなかなか眠れない、暁近くなるまでに床上に輾転するやうなこともあつた。或る晩に、自殺を企てた患者がゐて、咽喉を鋏でめちやくちやに斬つたのを、看護長と協力して処置したことなども、いつの間にか忘れるやうになつて、精神科医としての為上げが、何時出来るともなく出来て行くのであつた。
呉秀三先生は、本邦精神病学の建立者と謂はれるほどであつて、実に広汎な範囲にわたつて活躍せられたから、単に研究室にこもつて、私等に問題を与へてその経過と結論とを指導せられるといふやうなものでなかつた。寧ろ多忙のためにさういふことには余り手がお届にならなかつたと謂つていい。併し毎日勤務してゐるうちに、いつのまにか先生の学風なり、実地家としての態度なりが薫染して行つたものである。例へば、病院を廻診せられるとき、先生は患者のまへに坐られて、くどくどと愬へるその話を三十分でも一時間でも聴いて居られるといふ具合であつた。また、そのころ、「精神病学集要」の大著述を計画せられて居たが、助手の分に応じて、分担せしめる。その精確と緻密とは実に先生特有のものであつた。稍おくれて、シイボルト伝の増補に着手せられたときにも、その進行の過程に於て、先生から調査を依頼せられた助手等は、その依頼を遂行するあひだに、おのづから先生の学風をおぼえて行つた。私が墺太利ウインに留学中も、シイボルトの資料について幾つかの調査を先生から依頼せられたために、却つてさういふ方面の為事をおぼえたのであつた。今は精しく叙述する場面が無くなつたが、私などは足掛け七年勤務してゐるあひだに、幾つか手を附けた研究も纏まらず、学位を取らうともせず、ずるずるべつたらのやうであつたけれども、精神病学者としての土台は何時出来るともなしにに出来あがつた。これひとへに二先生のたまものであつた。
大正六年の暮に私は長崎の医学専門学校教授として赴任し、大正十年十月横浜を出帆し、独逸ベルリンに行き、大正十一年一月、墺太利ウインの神経学教室を訪うて、マールブルグ(Prof.Dr.O.Marburg)先生の指導を受け、大正十二年七月まで滞在中、先生の学風を学ぶことを得た。同時にウイン大学の有名な学者に接触し、今まで雑誌のうへ、著者のうへでばかり知つてゐた学者を目のあたりに知つてゐた覚悟を新たにした。
大正十二年八月、独逸ミユンヘンに転じて、そこのシュピールマイエル(Prof.Dr.W.Spielmeyer)先生に従学し、大正十三年八月まで滞在するあひだに、クレペリーンとか、ブムケとか、リユーヂンとかプラウとか第一流の碩学に接することが出来た。シュピールマイエル先生の教室に入るとき、先生は私に染色の第一歩からはじめるやうに云はれるので、私は『さういふことはもう東京でもウインでも疾うの昔に卒業して居ります』といふと先生は、『まあ、それでもおやりなさい、此処は此処での流儀がありますから』といつた調子であつた。私は忍耐してそれを遂行し、はじめて先生の学風を悟入するところがあつた。ここの教室は、第一次世界大戦の時には杉田直樹教授、大戦後は私がはじめてで、それから奉天の大成教授、それから東京の内村教授も相ついで先生に従学したのであつた。それから私は休暇を利用して、独逸大学の神経精神病学教室を遍歴し、悟入するところ決して僅少でなかつた。さうして、私の結論はいつも、『これは油断してはならない』といふことであつた。一教室を訪問する毎に一つづつの策励を受けるごとき感を抱き抱きしたものである。
帰朝の後、研究室一つ持ち得ない野にくだつて、忽忙として歳月が流れ、大学卒業三十年の謝恩会も済んで、徒らに老大家の名を空虚にして居るが、足掛五ヶ年の欧羅巴留学から得た悟入は決して消滅して居らぬごとくである。私は時あつて思ひそれに及び、感謝の念を深めつつ居る。
昭和十六年十二月に入り、ある医学雑誌から新年の歌一首を所望せられた。大東亜戦争大詔渙発以前であつたが、次の一首を作つて送つた。
老いづきし医師の果と誰かいふ心もえたたむ臣のひとりぞ
師の恩をおもひ起しつつ、この一首を二たびここに書きとどめることとした。(昭和十七・一・八)
底本:斎藤茂吉選集 第十二巻 随筆五 1981年2月26日第1刷発行 1998年10月7日第3刷発行
初出:『婦人公論』昭和17年3月
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