光はどこにある?
銭湯で時々見かけていた、ある映画のポスターがあります。
『わたしは光をにぎっている』という松本穂香さん主演の映画です。
主人公の澪は、早くに亡くなった親の代わりに育ててくれた祖母の入院をきっかけに、美しい湖のある田舎から出て、父の親しい友人が営む東京下町の寂れた銭湯に下宿します。
再開発で失われていく景色の中、どこで働いてもうまくいかず、自分の居場所もわからなくなりそうな中、銭湯の仕事を自然と手伝うようになり、町の人たちとの交流も生まれていきます。
この映画の中で印象的に使用されているのが、冒頭の詩です。
久しぶりに、あぁ、いい詩だなぁ、としみじみしてしまって、載せました。
山村暮鳥(ぼちょう)さんという、大正時代の詩人の詩でした。
そして、彼は詩人というだけではなく、キリスト教の伝道者でもあったそうです。
この詩は彼が結核で闘病している時に書いたそうです。
病床で、ギュッと握りしめた拳の白くなるのを見つめた日も多かったでしょう。心残りなことも不安も多い中で、その白い拳の中に光があると信じていたんでしょう。
わたしたちはいつも「大丈夫だ、希望はある」と自分に言い聞かせているんじゃないでしょうか。
星占いやスピリチュアルな言葉を見ては「あぁ、今日はいい日になりそうだ」「来週は運が良さそうだ」と自分に呪文をかけるのも、自分は掌に光を握っているという、そのことをどこかで信じきれず不安だからこそ頼ってしまうんだと思うんです。(そういう言葉を拠り所にするのは悪いことじゃないです)
掌(自分)が掴んでいるはずの光(希望)が、開いたら、何もないかもしれない。
その不安を抱えながら、私たちは生きているのかもしれない。
そして、日によって、その不安や恐怖は増えたり消えたりするんでしょう。
きっとそれが、人間という生き物の性(さが)なんだと思います。
少し話は変わって、うちの犬のモアちゃん(16歳です)が、先週具合が悪く病院に行ったところ肺に水が溜まっていて、心臓も3回に1回しか動かず、排泄もできず、これはいよいよ厳しいかもしれないな、と家族で話していたんです。
でも、とうの本人(本犬)はぐったりはしているものの、長年の習慣でトイレのある場所にちゃんと行こうとするし、寝たままだけど、気が向けばご飯も食べたり、と、こちらの心配をよそにちゃんと”生きる”ことを続けているんです。
(幸い、昨日から少し持ち直して、缶詰のご飯を食べるようになってきました)
モアちゃんは、体のあちこちが前のようにうまく動かないことも、もうそんなには長く生きられないだろうことも、悲観したりはしておらず、「いま」しか見てないんでしょう。
いま、お腹が空いたからご飯を食べる。
いま、眠いから眠る。
いま、起きていたいから起きる。
いま、トイレに行きたいから歩いてみる。
昔はたくさん走れたのに、とか、まだ将来やりたいことがあるのに、とかそういうことは考えない。
犬だから当然でしょ?って思うかもしれませんが(笑)。
わたしたちが、不安や恐怖に囚われてしまうのは、過去や未来のことばかり考えてしまうからで、犬のように”いま”に集中すれば、不安はだいぶ減るような気がします。
動物たちは、自分が光を握っていることを疑いもしないで、握っていることにすら気づかないで、毎日を生きています。
いや、彼らは光を握っているというより、光そのもので、その光を見てわたしたちは癒されたり笑ったりしているんでしょう。
その同じ光が、自分の掌の中にあることを忘れて。
”いま”に集中してみると、自分の掌には何があるでしょうか?
わたしは、ポケモンパンでした(さっきスーパーで買ってきた)。
というのは冗談だけど、ポケモンパンを買って、好きな時間に食べられる幸せというのは光だなと思います。
皆さんは何があるでしょうか。
きっと、”ない”ものではなく、”ある”ものが目に入るんではないでしょうか。
未来と過去にフォーカスすると、なぜか”ない”ものに目がいきますが、”いま”にフォーカスすると、不思議と”ある”ものに目がいきます。
数分でもいいから、その”ある”もの、光を見つめてみると良いんだろうな、と山村暮鳥さんの詩と愛犬から教えてもらいました。
もし良かったら皆様もやってみてください。
映画『わたしは光をにぎっている』もとてもいい映画でしたので、よかったら見てください。
光石さん(銭湯のおじさん)がまたすごく良かったです。
ではでは、また!!
(あまりに長いなと思ってマガジンコーナーは今日はお休みです)
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