私の戦場日誌⑤
門司の生活
それでも翌日無事に門司の港に上陸し各中隊ごとに分散して滞在することになった様だ。
一般の兵達は民間の家に分宿したのとのことであったが、伝騎分隊では夜間 馬屋の勤務があるために旅館に宿泊することになる。
門司に於いての2週間は、毎日が乗馬訓練、命令受領、同報告の練習であった。軍鞍をつけた馬には初めての乗馬のために長靴の底が鎧に定着させず落馬しそうになる毎日で、山田兵長より命令を受け何キロメートルか走って成田分隊長に報告する訓練の繰り返しであったが、乗馬で疾走するのが精一杯なので、報告の内容を全部忘れてしまい分隊長から気合いを掛けられる日が続いた。
門司の田舎の方に乗馬訓練のために行ったが、水田があまり見られず、畑には主にさつま芋が多く作られていた。
ある日 中学校の校庭に入り訓練を始めたら、すぐ拡張器で「兵隊さん校庭が悪くなるからすぐ出てください」と怒鳴られたこともあったが何か寂しい気持ちになった。
伝騎分隊で町の共同風呂に行った時のこと、
風呂から上がり軍服を付け長靴を履こうとしたら
一足無くなっており、1人がスリッパを借りて帰ってきたことがある。あの頃は総じて軍人という者は良く思われてなかったのではないかと思う。
ある夜のこと、茂木上等兵(船の中で、進級する)が「小田上等兵すぐ手紙を書け」と私に言うのでその理由を尋ねると、茂木上等兵は「俺は大学を卒業すると特別幹部候補生となり羅南に行くときに民家で三泊ほどした。その民家がこの旅館の近くであったので、夜その家に行き電話を借りて大阪の実家に連絡を取った。それで、父親と妹と2人で面会に来ることになったので分隊長に許可を願いでたら、分隊長は極秘であるが 俺の一存で許可をするからあまり目立たぬ様にして会ってこい。と言われたから手紙を書け。手紙は大阪の実家から出すようにするから」というので私も安心して手紙を茂木上等兵に託した。
幹部候補生の班付助手はこの茂木上等兵と2人であったことは前にも書いてある。私は手紙の内容を「私達の師団が行く先は、多分レイテーという所ではないかと思う。多分、生還は出来ないと思うが、日頃 私は香久山神社を拝んでいたので、今後は私に代わって香久山神社を拝んで下さい。ご両親様初め皆様のご健康をお祈りします。」と書いた。復員後この手紙が家に届いていたとのことであったが、父親が持ち歩いて見せていた後に失くしてしまったので私は読む事が出来なかった。
その頃は、すでにレイテー島は玉砕していたことを復員後に知る。