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美なる

朝の光をそのなかに含んだ、風がきよめられるほど清涼な川がちろちろと流れている、さわがにが濡れた苔と土の上を渡り、こずえと鳥は鳴き交わす、草や葉はそよぎ、ひるがえり、その運動によってまるでみずからを洗う、あたらしい命の匂いがする、その川を車で越して、もう少し先へ行けば墓地がある、坂をのぼり、よく晴れた日、かならずなぜかいつもよく晴れた日、わたしは祖父の墓を家族でまいる。
墓たちはいまではしずけさを楽しんでいる、生前のさわがしさのぶんまで、墓は土で骨とつながり、その骨は骨自体にあたえられたひややかな眠りにいたわられている、肉とは別に、こころとは別に。
うらのすこし黒ずんだひしゃくで水をかけ、菊かなにかの花を添え、白、黄色、紫、線香からたちのぼり、煙、そのまま空にすうっと消え…
わたしは誰か知らない。わたしはわたしが誰か知らない。ただずっと待っているだけ。ここで。そんな言葉がとつぜん頭に浮かぶ。わたしはなにを考えていたのか忘れて、はっとなって、そうか、いまわたしは小説を書いているのだ、と思い出す、もういちいち小説と呼ぶ時代でもないかもしれないが、あたらしい言語を発見すること、母国語のなかに、あたらしい言葉で、あたらしい歌を歌うこと、それから、そんなことを書きたいわけじゃない、とまた思い出し、もとに戻る、そのもとでは、祖母から妹に、手渡されたひしゃくが水をかけている、墓に、墓は濡れて、光沢している、おじいちゃんも喜んではるわ、祖母が言う、本当にそう思っているのか、あるいは口が動いただけなのか、そんなさめたことを考えるわたしにへきえきするが、魂はあるのかないのか、気持ちや想いや祈りは伝わるのかどうか、目に見えないもの、テレパシー、心と心がこすれる声を聞くなら、必要なのはこころの耳か、こういうことを考えるのは大事だと思う。でもどうして大事なのか? そんなことを考えていて得になるのか? 得とはなにか? つまり、それは金になるのか? と考えることはいったんやめにすることにした、そんなことを考えるのはもっと遠い未来のわたしに任せるとして、とにかく大事ったら大事なのだとつらぬいて、つまりどっちなんだ、と、信じることの強さを信じる力はあるのかと、あるのだと信じたい、すくなくとも骨も、喜んでいるのだと、

すべて酒とレコードと本に使わせていただきます。