6/18 欲しい本『中林梧竹の書』
あの時もう少しまともにやっていれば、と、そんなことはきっと誰もが考えることだろうが、小学校を卒業するまで自分は近所に毎週書道を習いに行っていた、おそらくおそろしく退屈だっただろうし、真剣に取り組まずに老夫婦だった先生たちの目を盗んではお手本をこっそり写して書いていた、まったく恥ずかしい話だが、それから歳をとって、文字を書くということはようするに、頭の中にある文字のイデアを外に、この手を通じて現出させる、ということであり、あるいは筆の運びとはつまるところ手を使った運動、つまり小さな手の、しかしまぎれもない力の運動であり、払い、止め、はねる文字はそれ自体がバレエダンサーのようではないか、さらにまた、山や川などの表意文字、つまり対象の似姿としての文字と絵の違いとはいったいなんなのか? というようなことを、妻と行った考古学センターで見かけた木簡に思い、
さっきわたしは現出と書いたが、つまりプラトン的なイデアとしての、つまり絶対美としての山がまず想像界にあり、そのイデアの模倣として現実界の山があり、その現実界の山をモデルにして想像界の山という漢字が作られた時に、その想像界の山という字は山という文字としてのイデアになり、そのイデアの模倣として我々は現実界に山という文字を紙面に書き出す、、、と、こんなややこしい話はすっ飛ばしてもらってかまわないが、つまり、文字を書くとは、無から有の現出そのものであり、出現ではない、出て現れるのではなく、幽霊のように突然現れて出てくる、それはそのまま森敦と小島信夫が幽霊と文学の近さ(?)について話していたところにもつながる、しまったな、自分は書道というものに真面目に取り組んでおけばどんな宝に出会えたかもしれないのに、そういう気持ちが日増しに募っているところに、どう調べていたんだったか、出会ったのが梧竹の書だった。
Googleの検索で見た梧竹の文字は、一つ一つが小さな怪異のようで独自の生命を獲得している、善や悪、美と醜、というところにはいない、ただそこに出たがっていた生命の力そのもので、存在の源泉にとても近いところにいるのではないか、と思う。自分もこの本を読んで、彼の書を研究することで、字に関する制約から解き放たれて、もっと自在に書くことができるのではないか、と考えている、いや、書くことよりも、もっと自在に考えられるようになりたいのだ、わたしは。歌もギターもベースも小説も詩も短歌も、わたしがいつの間にか封じていた、殺していたところというものが存在するはずなのだ。