「浜辺のカフカ」を読んで。

以前も書いたが、僕はそんなに小説を読む人間ではない。
年に数冊読む程度で、今年に入って読んだ小説もきっと5冊にも満たないだろう。
それ故に書評というものはわからない。ストーリーについての考察も文章についての表現の美しさもわからない。
だからこれは、僕が読んだ初めての村上春樹作品「浜辺のカフカ」についてのただの感想になると思う。

僕が僕なりに解釈したこの物語の大まかな命題はこうだ。
あるべきものをあるべき場所へ戻す物語。
でもあるべきを物は現実的にある実存ではなくて、もっと抽象的で、この小説の中の言葉を使うならば「メタフォリカル」なものなんだと思う。

この「浜辺のカフカ」の世界では、そしてもしかしたら僕たちの住むこの現実の世界においても僕たちは一人じゃなくて、二人の人間の組み合わさっている。「現実の自分と物語の自分」言い換えれば「ソリッドな自分とメタフォリカルな自分だ。」この物語の冒頭で、大島さんはこれについて言及した。

「昔の世界は男と女ではなく、男男と男女と女女によって成立していた。つまり今の二人分の素材でひとりの人間ができていたんだ。それでみんな満足して、こともなく暮らしていた。ところが神様が刃物を使って全員を半分に割ってしまった。きれいにまっぷたつに。その結果、世の中は男と女だけになり、人々はあるべき残りの半身を求めて、右往左往しながら人生を送るようになった」

浜辺のカフカ ― 村上春樹

でも多分これはクリティカルじゃない。
物語において、大島さんは重要な観察者としての役割を持つ。
彼は序盤においては田村カフカ少年に対し、すべてを悟った超越者的な振る舞いをして彼の手当てをしてくれる。
しかし彼はそのすべてを悟っているようで(きっと彼もある種の悟りへと到達していることを感じてはいただろう)、その悟りが故に終盤の物語においては観察者としてしか振舞うことができなかった。

彼は自分について特殊だという。その理由として、身体的には女性でありながら精神は男性でかつゲイだからだと述べる。
多分、彼はこの自分の特殊性を認識して、それを理解する上でプラトンの『饗宴』に出てくるアリストパネスの話を自分の中に落とし込んだのだろう。
自分の特殊性について、自分の性別について思考の指向性を持っていたが故にそれをそのまま性別として「男男、男女、女女」を解釈し悟ってしまった。
それが故に、彼はこの二人いる自分に対するメタ的な認知とその葛藤に至ることができなかった。

この物語における、田村カフカ少年、佐伯さん、ナカタさんはこれについて認知することで物語を進める存在となり得たのだろう。
そして星野さんは、ナカタさんとの関わりの中で成長しそれを認知できる人となっていった。

改めて整理する。
人はひとりの存在でありながら、二人いる。
それは勿論現実存在としての二人ではないし、男と女の性別の話ではない。
ソリッドな自分とメタフォリカルな自分だ。
メタフォリカルな自分とは、抽象的な存在でありながら、あるべき場所をしっていて、それがそうなることを望んでいる。
あるべき場所へ向かわせるというと、運命的な考え方になるがそうではない。そこまで絶対的なものではない。
それはあるべき場所を知っていて、それを望むことしかできない。
現実存在のソリッドな自分は、メタフォリカルな自分がそこにあるからそれをあるべき場所に連れていかなければはいけない。
そして、あるべき場所にそれを連れていこうとしたたとき、もしかしたら戻すその瞬間に、ソリッドな自分とメタフォリカルな自分は接続される。そしてお互いにお互いを変えるまでの影響力を持つ。
この現実の世界とと比喩的な世界の、ソリッドとメタフォリカルな世界が接続される瞬間は人によって違うのだけれど、ただ一点でのみ、僕たちはそれを共有される。それが死ぬ時だ。
人が死ぬとき、ソリッドな自分もメタフォリカルな自分も一緒に消えなくてはならない。それ故に最後は二人が接続して、消えなければならない。
しかしこの死ぬとは肉体的な死を意味するものではない。存在が消滅し無に帰ることを意味する。

この物語において、もっともそれに早く気づいたのが佐伯さんだった。
この物語の住人は観察者としての大島さん、成長によってそれを手に入れた星野さんを除いては、田村カフカ少年、佐伯さん、ナカタさんの3人とも、それに気づいたきっかけはズレたことによる。ソリッドな自分とメタフォリカルな自分とのズレがそれを本人に気づかせることになった。

佐伯さんがズレた原因は、死だ。
佐伯さんは年を15か20にして(多分本人にもここの詳細は分かっていないだろう。物語中で15歳の彼女が出てくるためそれと仮定することもできるが、大学時代に「浜辺のカフカ」出した時が最後と考えることもできる。)彼女はメタフォリカルな自分を失った。
生きていく上で必要なメタフォリカルな自分をこの段階で失った。
メタフォリカルな自分とは先に示した通り、あるべき場所を指し示す自分に他ならない。それ故に彼女はそれ以降、死ぬべき人間として余生を過ごすことになるが、ソリッドな人間はそのズレを知覚してもなお死ぬことができなかった。
彼女は早々にしてメタフォリカルな自分を殺してしまったが故にそれに触れることができなかった。
それに触れることができるのは、ソリッドな自分のみが残されてしまった彼女とは反対の、メタフォリカルな自分のみが残されてしまった誰かに触れた時だけだった。
だから自分のソリッドな自分とメタフォリカルな自分を認識しながらそれをどちらも携えてうまく生きることのできる大島さんでは彼女を救うことはできなかった。メタフォリカルな自分のみを残したナカタさんをしてのみそれを実現することができた。
彼女は少年を通して、死ぬ前のメタフォリカルな自分に出会い、ナカタさんを通して、その死に遂に触れ、ソリッドとメタフォリカルが共になって死んだのだ。

さて、ナカタさんは先述した通りその逆だった。
メタフォリカルな自分だけを残してしまった。
ソリッドな自分は、あの日死ぬべきではないところで死んで、メタフォリカルな自分が成り代わるように彼の肉体をコントロールする事となった。
彼はそれを認識できなかった。認識するという行為はソリッドな自分に許された行為だったからだ。
メタフォリカルな自分は、ただそれをあるべき場所に導くことしかできない。
だから彼はなんとなく「そこになにかある気がする」としてソリッドな自分が残した体を導くことしかできない。
そしてこの物語において、猫はこのソリッドとメタフォリカルの丁度境目に位置している。それは物語終盤の星野くんと黒猫の会話からも読み取れる。
彼が序盤に猫としゃべることができたのは、このソリッドな自分とメタフォリカルな自分のはざまにいたからだ。体はソリッドでありながら意識はメタフォリカルである。そのソリッドとメタフォリカルな自分が接続するその一瞬の地点に居続けたからだ。
しかし、メタフォリカルな彼はジョニー・ウォーカーを殺すことによって一気にこの現実世界に引きずり込まれた。
そしてナカタさんは完全なメタフォリカルな自分として歩むことになり、猫としゃべることができなくなった。
彼の最後は佐伯さんと同じものだった。
彼は佐伯さんというソリッドのみの存在に触れることで、間接的に死んだソリッドな自分と接続し、死の運命を受け入れた。

星野くんはこの中で唯一それを認識すらしていなかった。
ソリッドな自分とメタフォリカルな自分を両立させながら、自分のソリッドな部分にしか目を向けることはできなかった。
しかし、明らかに自分と違うソリッドではないメタフォリカルなナカタさんと一緒にいることで、それを認知しあるべき姿へとなり得たのだ。

そして、この物語の主人公、田村カフカ少年はその誰とも違う認知の仕方をする。
星野くんと同様に佐伯さんというソリッドしかない人間に惚れ、15歳の佐伯さんというメタフォリカルしかない人間に惚れることでそれは成熟する。
これまで自分を強くしようと身を固めたものを脱ぎ捨て、彼はかの兵士と同じようにソリッドを捨てメタフォリカルな世界へ逃げようとしたが死によって完全な人間へとなり得た佐伯さんにそれは止められる。
しかし彼のソリッドとメタフォリカルな自分にズレを生じさせたのは佐伯さんではない。
彼は彼女に出会ったときにはすでにずれていた。彼は二人の彼女を通してそれを認知したに過ぎない。

彼にそのズレをもたらしたのは、彼の父であり、ジョニー・ウォーカーである人間による呪いだ。
ジョニー・ウォーカーもまた、佐伯さんのようにメタフォリカルな自分を失った。しかしそれは死によってではなく完全な分離によって失った。ソリッドな父は少年にメタフォリカルな呪いをかける。15歳の少年のメタフォリカルなもう一人の自分にはしっかりとそれが刻印され、本来見えるはずのないそれが見えるようになってしまう。そして自分には認識できるが理解できないもの=葛藤として残る。そしてメタフォリカルな父であるジョニー・ウォーカーは、ソリッドにもメタフォリカルにも失ってしまった自分をソリッドにはナカタさんに殺させ、メタフォリカルには少年に殺させた。

認識する前に失った佐伯さんとナカタさんにとってそれを認識することは、あるべき死を認識することとなり、失う前に認識した少年と星野くんにとっては、自分の生き方を認識させることとなった。

と書いていたら時間もなくなってきた。
またいつか感想を書けたらと思う。
僕はカフカ少年にひどく共感する。僕もメタフォリカルな自分をゆがませている。
しかしそれは彼の様に他者によってではなく自己によってゆがませてきた。
僕はなんとなく自分がそこにあるべきではないという感じがする。
原罪をもって生きていて、いつでも死ぬべきなのではないかと感じる。
しかしこの小説を読んでなんとなくそれが発生している要因が分かった気がする。
メタフォリカルな僕はその歪みによって死ぬべき場所じゃないところでも死を選ぼうとしている。
生きてい居場所で、お前はここにいるべきじゃないとささやいてくる。
だから、この物語で少年がなしえたように、それを乗り越えることでこの歪みを解消させたい。


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