生きているってなんだ。

 心臓が動いていることか、生命活動を維持していることか。抽象的な質問で答えにくいかもしれない。それでも、生きていることを意識する瞬間はあるだろ。

 例えば、トラックにひかれそうになった直後なんかそうだろう。ああ、危なかった僕は轢かれていない。いまこの瞬間を、地に足をつけて生きているのだ。この手も、足も自由に動かせる、頭が働くから今こんなことを考えているんだ。よかった、一歩間違えば死んでいたかもしれない。僕は、助かった______。助かったのだ。
 そう、まさにこの瞬間僕は死を意識した。死は、生の対になっているから、死を意識したからこそ生を感じたのだ、そうに違いな……あう。


 暗い。なにも見えない空間を僕はさまよっていた。砂漠で水を求めて彷徨う放浪者のごとく僕は、ひたすら光をこの手につかもうと、あがいて、あがいて、あがいて。

そして、溺れた。

いったいどうしてしまったんだ。僕は生きているんだろうか。死んでいるのだろうか。なにもわからない。
暗闇がまるで実体を持ったかの如く僕を拘束する。思考の渦に飲まれてしまう。際限なく、同じ思考を繰り返す。繰り返しただ考える自分がいて、あ。誰もいなかった。ここにとらわれているのは僕一人だけだった。僕は生きているのか、死んでいるのか、いや、どちらでもないのかもしれない。生きているのか。死んでいるのか。僕自身の声が内側から発せられ、暗闇に反響する。今の僕はどうなって……


信号が変わった。先ほどまでの喧騒がまるでなかったかのように、歩行者たちが渡り始める。うつろな目をして歩く女子高生も、買い物袋を乗せた自転車をこいでいる主婦も、皆なんの疑問を持つことなく、それぞれの目的地へと向かっている。

くるしい。ありとあらゆる意欲が失われていく。ここはなにもかも停滞している。僕の思考も同じことを繰り返すだけで、なにも進まない。生きるということは何だろうか。生きているという状態に意味などなかった。この空間には人間関係の苦しみも、人とつながる喜びも存在しない。ただ僕という存在が「存在する」という苦しみだけがあった。

生も死も対立概念ではなかった。どちらも同じ側に存在しているのだ。対立していたのは、この暗闇と外の騒がしい世界だったのだ。


というふうなことを書いている僕は、自身が今教室で授業を受けているのだということに気づいていなかった。
(教室で授業を受けているときにこれらの思考をたどってしまい、トリップしてしまったのだ、と書きたかったが教室で授業を受けている最中にトリップした自分を書いているのだ)


 僕は今パソコンでこの文章を打っているだろ。キーボードに乗せている手が見える。打った文字が画面に映し出される。すこし冷静になる。パソコンは勉強机の上にある。なんらかわらない自室、それを新鮮に感じようとしてみよう。あ、僕生きてるんだっけ。わからなくなってきた。

この現象についてはいくつか仮説をたてているが、あまりにも長くなるんで気が向いたら書く。

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