愛について〜傲慢にもガキが語らせていただきます♡〜

愛というと温かいイメージがある。しかし、私は愛が完全に100%温かさのみから湧き出てくるものではないと思うのだ。なぜかって?まぁ、落ち着けよ。とりあえずその振り上げた拳を下ろしてください。

それを説明するために、一つの概念を導入させて欲しい。私はその概念を純粋性と呼んでいる。
幼少期を思い出してみてほしい。思い出せない人は幼稚園児や小学生をじっくりと観察してほしい。
彼らは純粋である。ちなみに、純粋性は善性と結びつけられがちであるが、実のところそうではない。大人たちは子供を取るに足らない、幼く無知な生き物とみなしているところがある。(傾向の話)
無知である、純粋であるというのは、「何でもできる」ということであり、彼らには暗黙の了解というものは存在しないし、まだ知覚していない。やりたいようにやっている。絵を描く時だって、画用紙の枠や、この色で塗らなければならないというルールなんてない。本能的な感性で彼らは描いている。

現実世界での行動も似たようなものである。彼らはこの世界の暗黙の了解ではなく、生まれ持った本能、遺伝子に蓄えられた情報をもとに世界を歩いていく。弱いものを見ると、本能的に攻撃し、物を奪おうとしたりもする。
純粋性というのは、冷たいものなのではないかと思う。純粋であるという状態は、他者を知らないことによってのみ実現される。何にも染まっていない者が純粋だと言える。
他者のいない状態の人間の原始的な部分はかなり冷酷な性質があると思う。人間が悪いわけじゃなく、遺伝子の冷たさ、寒さ、とでも呼ぶべき何かがある。

何も持たない者は奪おうとする。それは愛からは遠いものだ。

さて、愛の話に戻ろう。
熱い愛の言葉などは情熱的であると感じる。そこに熱を感じる。反面、冷徹な理性、論理というものには冷たさを感じる。無機質な感じがする。
しかし、感情というのは、感情に言語的な大きな枠組みで名前はついているけれど、それ自体固有のものである。原始的で、純粋だ。
けれど、優しさは少し純粋とは違う性質がある。
優しさの本質は模倣だ。優しさは理性の側にあると思ってる。ある種冷えた思考を温かみのある感情に変換して他者に提供するもの、それが優しさだと思う。

では愛とはなんだろう???
愛の中に優しさは含まれている。しかし、それだけでは愛というものを表せないように思える。愛は他者との間に生まれる代替不可能という性質を持ったものだと思っているからだ。優しさは、模倣であり、代替可能である。

では愛という何か冷たくて温かいものを抱いてしまった時、我々はどうすればいいのだろう?

意識を共有することが現時点でできない以上、言葉で以て愛を伝える必要が出てくる。
しかし、言葉というのは得てして真に必要な場面で無力である。

無力である!!!!!

誰もが閉じた意識の中に言語に規定されない感情や感覚を持っている。言葉は普遍的だが、普遍的だからこそありきたりになってしまう。出したい意味が出せなくなる。陳腐に思える。

しかし、愛を始めるには言葉を使い始めなければならない。正確性を犠牲にして、自分の世界を少し歪めて、他者の世界に入る必要がある。まさに、冒頭で述べた「純粋性」を失うことによって!


まだ愛については、"冷たさから生まれる温かさでできており、言葉にすることから始まるのだということしか分かっていない。そして、愛が自分の存在の無意味さ、あらゆる行為の無意味さ、人生の無意味に対してできる最後の抵抗であるということ。
愛が純粋性を奪うというなら、この呪われた遺伝子の冷たさ、本能的残虐性から人間を解放させるのも、愛なのだろう。愛こそが人間を人間たらしめるのだ。
しかし、愛が何たるかを知覚し、愛を得るのは難しい。
純粋状態では誰からも愛されない。ゆえに自分自身しか己を愛することができない。そうすると、自己愛の強い人間を他者は愛さない。するとますます自己愛が強くなる。そして他者はその人から離れていく。そんな負のループに入る。

愛が一度生まれ、それが皆に広がれば、人はヒトらしく生きられると信じている。
愛とは遺伝子に刻まれた動物的な本能に対する抵抗である。

以上だ。読んでくれてありがとう。コメント欄に感想やあなたの意見なども書いてもらえると嬉しいよーん


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